葛藤②
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る直前、伊吹陽太は校舎裏から教室へと戻っていた。
足取りは重い。篠原コーチの言葉が、頭の奥で何度も反響していた。
――「俺はお前を信じる。お前と全国に行きたい」
その真剣な眼差し。
胸の奥に刻まれた「期待」という重荷が、また肩にのしかかってくる。
(……結局、逃げても逃げても追いかけてくるんだな。勝て、結果を出せっていう声が)
扉を開けると、教室には昼食を片付ける生徒たちのざわめきが残っていた。
机の上には弁当箱やペットボトル。窓際では男子がふざけてじゃれ合い、女子たちはスマホを覗き込みながら笑っている。
その光景はいつも通りなのに、伊吹にはどこか遠くの景色のように見えた。
自分の席に鞄を置くと、隣の机から声が飛んできた。
「おっそー。どこ行ってたの?」
顔を上げると、三谷莉緒がカーディガンの袖をたくし上げながら、こちらをじっと見ていた。
セミロングの明るいブラウンの髪が、春の光を受けてきらりと揺れる。制服のシャツのボタンはひとつ外され、ルーズ寄りの靴下に白いスニーカー。
教室の中でも目立つ存在だが、その表情にはからかうような柔らかさがあった。
「別に……ちょっと外に」
伊吹は素っ気なく返す。
莉緒は目を細めて、にやりと笑った。
「ふーん。怪しいなぁ。まさかもう彼女でもできた?」
「……んなわけあるか」
即答すると、彼女は「だよね」と軽く肩をすくめる。
その仕草に、伊吹の胸の重苦しさが少しだけ和らぐ。
「でもさ」
莉緒は声を潜めて身を寄せた。
「アンタ、また“背負わされてる顔”してるよ」
その言葉に、伊吹は心臓を掴まれたような感覚を覚えた。
「……っ」
「ほら、図星でしょ」
莉緒は小さく笑いながら、机に頬杖をついた。
「小学生のときからそうだったもんね。誰かに期待されると、すぐ真面目な顔になってさ。……で、勝っても負けても全然楽しそうじゃない」
伊吹は思わず視線を逸らす。
(……やっぱり、こいつには隠せないか)
莉緒はさらに言葉を続ける。
「別にいいじゃん。アンタが勝ちたいなら勝てばいいし、楽しくやりたいならそれでいい。どーせ誰も、アンタの代わりにはなれないんだから」
その口調は軽い。
けれど、その裏にある温かさを伊吹は知っていた。
「……簡単に言うなよ」
ぽつりと返すと、莉緒は片手で前髪をかき上げて笑った。
「だって簡単なんだもん。アンタって、いつも難しく考えすぎなんだよ」
チャイムが鳴り、午後の授業が始まる合図が流れる。
生徒たちが慌ただしく席に戻り、教室に先生が入ってくる。
伊吹は教科書を取り出しながら、隣の莉緒の横顔を盗み見た。
彼女はノートを開き、ペンをくるくる回しながら何気なく黒板を見つめている。
――けれどさっきの言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
(……誰も、俺の代わりにはなれない)
その一言が、篠原の「お前を信じる」という言葉と重なり、心の奥で複雑に絡み合う。
期待の重さと、理解される安心感。
その間で揺れ続ける感情に、伊吹は小さく息を吐いた。
窓の外では、午後の日差しが校庭を照らしていた。
普通の高校生活。その真ん中に立っているはずなのに、自分だけが別の舞台に引き寄せられている気がしてならなかった。




