葛藤
翌日の昼休み。
春の陽射しが傾きかけ、校庭には昼食を広げる生徒たちの笑い声が響いていた。だが伊吹陽太はその喧騒から離れ、校舎裏のベンチに立っていた。
「……伊吹、来たな」
フェンスの影に佇んでいた篠原コーチが姿を現す。ジャージの袖をまくり上げ、額にはまだ朝の職員ミーティングの汗が残っているようだった。その目は、昨日の練習を仕切ったときと同じ、強い光を宿していた。
伊吹は自然と背筋を正す。
「……何か用ですか」
篠原は組んだ腕を解き、真っ直ぐに言葉をぶつけてきた。
「率直に言う。三年はダメだ」
唐突すぎる断言に、伊吹は眉をひそめる。
「……ダメって、どういう意味ですか」
「やる気がねぇんだよ。昨日の外周も、ダッシュも、全部中途半端だった。確かに三年には才能がある。二年前に県ベスト32まで行ったのも、地力があったからだ。だがあいつらは努力を続ける覚悟を持ってない。これ以上は伸びねぇ」
その声には苛立ちと失望が入り混じっていた。
伊吹は反論できず、視線を足元に落とす。確かに昨日、三年の何人かが途中で歩いたり、不満を口にしたりする姿を自分も見ていた。だが、それを切り捨てるような言葉には戸惑いを覚える。
「だがな」
篠原の声が一段強くなる。
「お前を見て、俺は思ったんだ。――全国を目指せるってな」
胸の奥がざわつく。
また、その言葉。
(……結局、全国。俺が一番、聞きたくなかった言葉だ)
ラディアンスで過ごした三年間が脳裏に蘇る。
全国の舞台は常に遠く、勝ち星を挙げるのは限られた“本物”たちだけ。自分はただ壁役に回され、練習相手としてコートに立つだけだった。結果を残したことなど一度もない。
「俺は……そんなつもりでここに来たわけじゃないです」
やっとの思いで声を絞り出す。
篠原は伊吹の横顔をじっと見つめる。
「分かってる。お前が“楽しくやりたい”と思って双峰を選んだのは、だいたい察してる。だがな――」
言葉を区切り、拳を握る。
「才能がある奴が本気にならなきゃ、チームは強くならないんだ。伊吹、お前にはそれがある」
(……才能。俺に?)
ラディアンス時代、何度も耳にした言葉だった。
“才能があるから”と周囲から期待され、それに応えられず、重圧に押し潰された。結局、全国大会の舞台に立つことは一度もなく、ただ凡人として埋もれていった。
胸の奥がうずき、思わず口を開く。
「……コーチ、俺……」
唇が震える。
「俺、ラディアンスで――全国に出たことなんて、一度もありません。レギュラーにだってなれなかった。周りがすごすぎて、俺なんかいつも壁役で……」
言葉が詰まる。過去を打ち明けるのは、喉を裂くように苦しかった。だが、それでも伝えなければならないと思った。
「だから……俺は凡人なんです。全国を目指すなんて――俺には、無理です」
しばしの沈黙。
篠原は視線を逸らさず、静かに口を開いた。
「……知ってるよ」
伊吹は目を見開いた。
「……え?」
「お前の実績は、もう全部調べた。県予選で勝った試合も、負けた試合も、相手の名前までな」
篠原の声は淡々としていた。だが、その奥に熱が宿っていた。
「お前がレギュラーじゃなかったことも、全国に行けなかったことも、分かってる。それでも――俺はお前を信じる」
「……どうして」
伊吹の声は震えていた。
「どうして、そんな俺に……」
篠原は力強く答えた。
「昨日のサーブとフォアを見たからだ。数字や記録じゃない。目の前で打ったボールに、俺は夢を見た。チームを全国に連れていけるって、心の底から思ったんだ」
その言葉は真っ直ぐで、嘘がなかった。
だからこそ伊吹の胸に、重くのしかかった。
(……やめろよ。そんな風に言われたら、俺はまた――)
ラディアンス時代、期待を背負わされた記憶が蘇る。
勝たなきゃいけない、結果を出さなきゃいけない。
その重圧に潰れかけた苦しみが、今も体に刻まれている。
「俺は、ただ楽しくテニスがしたいんです」
声が震えていた。
「もう、誰かの期待を背負うのは嫌なんです」
篠原はしばらく黙っていた。
だがやがて、低く、しかしはっきりとした声で言った。
「伊吹。お前が逃げたいなら、それもいい。誰も強制はできない。けどな――俺はお前と全国に行きたい。俺にとってそれは夢であり、誇りだ」
その目は真剣だった。
熱さに押し潰されそうになりながらも、伊吹は視線を逸らせなかった。
昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが、校舎中に鳴り響いた。
だが伊吹の胸のざわめきは、止むことなく波打ち続けていた。




