体験入部の後の夜、期待に押しつぶされそうになる
夜。
住宅街の街灯がオレンジ色の光を投げる中、伊吹陽太は無言で家路をたどっていた。
鞄の中には、汗の染み込んだラディアンスの練習着。歩くたびに、その重みが肩へとのしかかる。
玄関のドアを開け、ただいまと小さく告げる。返事はあったが、会話を広げる気にはなれなかった。
鞄を部屋の隅に放り投げ、ベッドへ身を投げ出す。天井を見上げると、昼間の光景が勝手に脳裏をよぎっていく。
――あのサーブ。
――あのフォア。
偶然だ。ほんの一瞬、タイミングが合っただけ。普段なら絶対に外れていたはず。
けれど誰もそうは思ってくれない。
先輩も、新入生も、篠原コーチも――あの一撃を「本物」だと信じきっていた。
(……期待されるなんて、望んでなかったのに)
胸の奥に冷たいものがじわじわ広がる。
あの歓声も、拍手も、自分にとってはただの鎖にしか思えなかった。
携帯が震えた。LINEの通知。
開くと、快からのメッセージだった。
【やべーな! 伊吹ってすげーじゃん! 一緒に組めるとか最高だわ!】
続けて桐原からも。
【ラディアンス出身とは驚いた。これからよろしく。参考にさせてもらう】
そして大谷からは短く。
【強えな。頼りにしてる】
画面を見つめたまま、伊吹は動けなかった。
指先が震え、返信を打とうとしては消す。
(……そうだ。みんな、俺に期待してるんだ)
頭の奥に、中学時代の記憶がよみがえる。
ラディアンスで過ごした日々。
コートの端で、延々と壁役を務めた時間。汗だくで球を拾い、返すだけ。
「伊吹は安定して返すから助かる」――そんな言葉だけで終わった三年間。
全国? 優勝? 自分には一度も縁がなかった。
仲間たちが栄光を掴むのを横目に、自分はただ雑音のように存在していた。
(だから……もう、そういうのは嫌だったんだ)
双峰を選んだのは、「ちょうどいい」からだ。
強豪でもなく、弱小でもなく。勝敗に縛られず、ただ自分のペースでテニスを楽しめる。
そう信じていた。
だが現実はどうだ。
わずか一日の体験入部で、「双峰の希望」などと持ち上げられている。
篠原コーチの真剣な瞳が、今も頭から離れない。
(俺は、勝ちたくてここに来たわけじゃない……)
声にならない叫びが胸を締めつける。
逃げたはずの舞台に、また引きずり戻される感覚。
ラケットの重みが、再び鎖になって絡みつく。
ベッドの横に置かれた鞄が、じっとこちらを見ているように思えた。
中には、黒地に金のラインの練習着。
過去と、周囲の期待を象徴するようなユニフォームが眠っている。
伊吹は毛布を頭からかぶり、目を閉じた。
「もう何も聞きたくない」とでも言うように。
だが耳の奥では、昼間の声が何度も再生されていた。
「すげぇ!」「本物だ!」「全国を目指せる!」
――そして、篠原の言葉。
『お前は、双峰の希望だ』
心臓が嫌なリズムで脈打つ。
返事を返せなかったLINEの通知が、青白く光り続けていた。