歩み
世界ツアーの熱狂がまだ肌に残る中、二人は次の舞台について相談していた。
「次は…どこにしようか」
美咲が地図を広げ、指先で無作為に点をなぞる。
海斗は隣で黙って覗き込み、眉をひそめた。
「ここ…誰も芸術イベントなんて開いたことのない町だよ」
美咲の指先は北極圏に近い、人口わずか数百人の小さな港町を指していた。氷の海に囲まれ、吹き荒れる風、長すぎる冬の夜――常識的に考えれば、舞台を開くなんて不可能に近い条件だった。
「不可能っていうより…ほぼ自殺行為だね」
海斗の声には少しの笑いが混ざっていたが、瞳の奥には抑えきれない興奮が光る。
美咲は真剣な眼差しで彼を見つめた。
「でも、どうしてもやりたいの。人間の感情と、自然の原始の力を、一つの作品で融合させたいの」
その言葉に、海斗はカメラを握りしめながら静かに頷いた。
「分かった。じゃあ、そこに行こう」
二人は迷わず、地図の果てを指差した。胸に抱いた衝動だけが、行き先を決める力だった。
氷の海を越えて飛ぶ小さな飛行機。エンジンの低い唸りと、時折の突風が機体を揺らすたび、行き先の過酷さを肌で感じる。窓の外には、限りなく続く白銀の世界。氷の割れ目からわずかに覗く海面も、鉛色で冷たく光っていた。
「ねぇ、海斗…」
美咲が毛糸の帽子を深くかぶり、額を窓に押し付けるようにして呟く。
「もし…ここで失敗したら、私たち…戻る場所なんて、あるのかな」
海斗はしばらく黙り、膝の上のカメラを握りしめる手をぎゅっと強くした。
「戻る場所なんて…最初から作らない方がいい。俺たちは、進むしかないだろ」
美咲は小さく笑った。
「相変わらず…逃げ道を作らないんだから」
「お前もだろ」
視線を交わす二人。窓の外の氷原が、静かに流れていく。
到着した瞬間、現実は想像以上に過酷だった。
気温は氷点下30度。吐く息は瞬時に凍り、カメラのシャッターは動かず、照明器具は次々と沈黙する。
電力供給も不安定で、スイッチを入れても明かりは点いたり消えたり。
地元の住民の一部は集会でこう言った。
「なぜ、よそ者がこんな場所で派手なことをするの? 私たちに何を見せたいんだ?」
美咲は雪を踏みしめながら即席の稽古場を探し回る。海斗は吹雪の中を歩きながら撮影ポイントを探した。
沈黙の中に、互いの疲労と苛立ちが少しずつ積もっていった。
ある夜、吹雪が港を激しく叩く中、二人の沈黙が破れた。
美咲は凍りついた手でケーブルを繋ぎながら声を荒げた。
「あなたの写真がどれだけ完璧でも、舞台が成り立たなきゃ意味がないのよ!」
海斗は顔を上げ、雪に濡れた髪を払う。
「俺は舞台のためだけに撮ってるんじゃない。俺は――俺の作品を撮ってるんだ!」
美咲の胸が締め付けられる。
「じゃあ…私は、あんたの“作品の一部”にすぎないってこと?」
海斗は言葉を失い、視線を逸らした。
「そう…」美咲の声は小さく震えた。「でも…私たち、まだ諦められないでしょ?」
「諦めるわけないだろ」海斗は少し怒った声で答えたが、手は震えていた。
その夜、二人は別々の宿舎に戻った。翌日からは必要最低限の言葉しか交わさず、心の中で互いを試すような日々が続いた。
凍りつく風が舞台を叩きつける。港の岸壁に設けられた舞台は雪に覆われ、観客は厚い毛皮に包まれ、肩を寄せ合った。
背後の巨大スクリーンには、海斗が撮影した極地の写真――氷原、凍結した海、極夜の星空――が次々と映し出される。
美咲は吐く息を白くしながら、静かに演じた。
風で衣装が揺れ、雪が顔にかかる。凍てつく寒さに震えながらも、彼女は光の中に立ち、体を精一杯使って表現する。
海斗はその瞬間を逃すまいと、シャッターを切り続ける。
指先はかじかみ、カメラの重みが手に刺さるように感じる。
互いに目を合わせることはない。ただ、最後の一幕――美咲が雪煙の中で光を浴びた瞬間、ほんの一瞬だけ彼女の視線が海斗を探した。
公演が終わると、港町の人々は立ち上がり、ゆっくりと手を叩いた。吹雪に消されそうな拍手は、不思議なほど長く、胸に響き続けた。
北極圏での公演から三年。
海斗は戦場、災害地、日常まで、世界を渡り歩きシャッターを切り続けた。しかし、ファインダー越しに心が凍りつく瞬間があった。あの吹雪の中で光を浴びる美咲の姿が、いつも心を揺さぶる。
美咲もまた、舞台女優として海外で招かれるまでになった。しかし観客の涙や笑顔を引き出す力はあっても、舞台の上で自分を守る感覚が、どこか消えなかった。
東京の劇場前。夜の冷たい空気とビルの明かり。
幕が上がり、美咲が登場した瞬間、海斗の心臓は強く跳ねた。彼女の眼差し、手の動き、息づかい――すべてが凍りつくように鮮明だった。
カーテンコールで深く息をつく美咲を見て、海斗は確信する。
――まだ、この人は何かを抱えている、と。
終演後、海斗は楽屋の前で立ち止まった。ノックすると、美咲が驚いた顔で扉を開けた。
「…来たんだ」
「たまたま東京にいた」
――その言葉は嘘だった。
美咲は小さく呟いた。
「北極のあの日から、ずっと…埋まらない穴があるの」
海斗はカメラを取り出し、雪の滑走路で手を振る美咲の写真を差し出す。
「これ、ずっと持ってた」
「どうして…?」
「俺の中で、大事な瞬間だから」
沈黙の後、美咲は微笑んだ。
「また一緒に作ろうか。今度は誰もやったことのない舞台を」
「やるなら本気で」
「もちろん」
二人は再び、同じ道を歩き出した。