表現
春の終わり、東京の街はやわらかな新緑に包まれていた。
並木道を渡る風は軽く、冬の名残をやさしく吹き払う。
その日、偶然にも――海斗の個展と、美咲の主演舞台が、同じ週に重なっていた。
しかも、海斗の個展のテーマは「舞台に生きる人」。
メイン展示は、美咲の舞台稽古から本番までを、息を詰めるように追い続けた写真シリーズだった。
稽古場で台本を握りしめる指先の震え、袖で待機する横顔の影、そして本番で放たれる光のような表情――どれも、彼女の時間そのものが写っていた。
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個展初日。
開館前からギャラリーの前には列が伸び、開場と同時に人々が吸い込まれるように中へ入っていく。
壁一面の写真の前で足を止める観客たちは、それぞれ言葉を失っていた。
時折、鼻をすする音や、そっと涙をぬぐうしぐさが見える。
「この人…何かを諦めない強さがある」
ある中年女性が、写真の前でぽつりと呟いた。パンフレットを握る手は、少し震えていた。
海斗は受付近くに立ち、来場者ひとりひとりに軽く会釈を返す。
しかし、その視線の奥では胸が熱く波打っていた。
(撮ってよかった…あの日の彼女も、今の彼女も)
ふと、学生風の女性が友人と囁き合う声が耳に入る。
「この人、絶対ただのモデルじゃないよね」
「うん…なんか、人生が写ってる」
その言葉に、海斗は口元をわずかに緩めた。
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同じ頃、美咲の舞台も初日を迎えていた。
開演前の楽屋。
彼女は鏡の前で深呼吸を繰り返し、メイク道具を握ったまま目を閉じる。
(大丈夫。私はこの役を生きる)
控え室の空気は緊張で張り詰め、外からは客席のざわめきが微かに響いてくる。
本番。
彼女が演じる主人公は、夢と現実の間で揺れながらも、最後には自分の道を選び取る女性だった。
その姿は、まるで美咲自身の人生を舞台の上に写し取ったようだった。
カーテンコールの瞬間、客席全体が立ち上がり、割れるような拍手と歓声が降り注ぐ。
その中に、海斗の姿があった。
照明が落ちる直前、美咲の視線は彼を捉え、ほんの一瞬、舞台上の表情とは違う、柔らかい微笑みを浮かべた。
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数日後、二人は夜の街を並んで歩いていた。
街灯の光が舗道の水たまりに反射し、夜風が頬を撫でる。
「海斗の個展、評判いいみたいだね」
「美咲の舞台もな。…でも、あれは俺じゃないと撮れなかった」
「なにそれ、自信満々」
「だって、あんたの全部を知ってるカメラマンだし」
不意に、美咲の足が止まる。
「…ありがとう。あの写真、私の生きてきた証になる」
海斗は数秒、彼女の瞳を見つめ、それから小さくうなずいた。
「証なら、これからも増やせばいい。俺が撮るから」
美咲はふっと笑い、けれどその目の奥に小さな光が揺れていた。
「…じゃあ、ちゃんと約束してよ。途中で飽きたとか言わないで」
「飽きない。だって――」
海斗は言葉を切り、夜空を一瞥してから彼女に視線を戻した。
「俺にとっては、お前が一番撮りたい景色だから」
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週末、SNS上では海斗の個展と美咲の舞台が同時に話題になっていた。
「写真と舞台、二つで一つの物語」
「互いの夢を支え合う関係、羨ましい」
そんなコメントが並び、二人は少し照れながらも、心の奥では誇らしさを感じていた。
二人は知っていた。
これがゴールではないことを。
けれど――この一瞬は確かに、二人の人生が交差して輝いた瞬間だった。
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その夜、個展の閉館後。
薄暗いギャラリーに残っているのは、海斗と美咲だけだった。
壁一面に並んだ写真を、美咲はゆっくりと見渡す。
「…ねぇ、また五年後、ここに新しい写真を並べようよ」
海斗は笑みを浮かべ、頷く。
「約束する」
その言葉は、静かで、しかし揺るぎない未来への宣言だった。