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成長

あれから五年。


東京の街は、再開発のクレーンとガラス張りのビルが空を切り裂くように伸び続け、見慣れた景色も日ごとに塗り替えられていた。

そして、海斗と美咲の距離もまた、季節を重ねるたびに少しずつ形を変えていた。


________________________________________


海斗は今、フリーカメラマンとして独立していた。

国内外を飛び回り、時に灼熱の砂漠、時に雪に覆われた山岳地帯でシャッターを切る。

雑誌の連載はとっくに終わったが、その後も企業広告やドキュメンタリーの依頼が絶えず、名刺を差し出す相手も、日本語ではないことが多くなった。

ある冬の朝。

雪が舞う地方都市の港町で、海斗は漁師の男を撮っていた。

「こっち向いてください」

レンズ越しの男は、海風で刻まれた深い皺をくっきりと浮かべ、網を引く手を止めない。

シャッター音が、寒空の下で乾いた音を立てた。

(こういう顔だ。生き方がそのまま刻まれた顔)

ファインダー越しに見る世界は、どこまでも広がっているはずなのに、ふとした瞬間に――

(あの街の、あの人は…)

と、思考が遠くへ漂ってしまう自分に気づく。

忙しさと責任は増えたが、その分、孤独も深くなった。

ホテルの一室で、一人コーヒーを淹れながら写真を整理していると、外は雪がしんしんと降っていた。

その白の静けさが、胸の奥の空洞をやけに際立たせる。


_______________________________________


一方、美咲もまた変わっていた。

舞台女優として、少しずつ名前が知られるようになり、商業舞台の出演依頼が増えた。

地方公演の回数も多く、移動用のキャリーケースはいつもパンパンだった。

ある公演前夜。

楽屋で美咲は、深呼吸を繰り返していた。

舞台監督がインカムで何かを指示し、スタッフが慌ただしく行き交う。

鏡の前の彼女は、メイク道具を握ったまま、しばし目を閉じる。

(大丈夫。大丈夫。あの頃の私より、今の私はずっと前にいる)

心の中で呟くたび、喉の奥が少しだけ軽くなる。

それでも幕が上がる直前、指先が震えるのは変わらなかった。

「美咲、準備できた?」

仲間の役者が声をかけると、彼女は笑顔で頷いた。

「うん、行こう」

その笑顔は、恐怖を押し込めた戦闘前の表情だった。


_______________________________________


そんなある冬の夜。

海斗は東京の路地で、偶然、一枚のチラシに目を止めた。

そこには、大きく――

「主演・岸本美咲」

白い照明を受けて凛と立つ彼女の横顔。

あの頃、稽古場で脇役の台本を震える手で握っていた美咲が、今やポスターの中央にいる。

その表情は、以前よりも鋭く、強く、そしてどこか寂しげだった。

(…主演か)

胸の奥で、誇らしさと少しの距離感が同時に膨らむ。


________________________________________


初日の公演。

暗転と同時に幕が上がり、照明が美咲を照らす瞬間、海斗は息をのんだ。

彼女は舞台上で、感情を全身に宿し、観客の視線を一手に引き受けていた。

声の抑揚、間の取り方、視線の動き――脇役だった頃の不安げな佇まいは、もう欠片もなかった。

終演後、海斗は人波に紛れ、そっと客席を離れようとした。

そのとき――

「…海斗?」

舞台袖から声が飛んできた。

振り返ると、汗と涙に濡れた顔の美咲が立っていた。

舞台の熱気がまだ残るその顔は、五年前とは違う光を宿している。

「来てくれたんだ」

「…偶然だよ。街でチラシ見て」

「ふーん、偶然ね」

「本当だって」

軽口を交わしながらも、互いの胸の奥には、五年分の時間と変化が渦巻いていた。


________________________________________


公演後、深夜のカフェ。

カップから立ち上る湯気が二人の間をふわりと隔てる。

「お互い…少しは前に進めたのかな」

「進んださ。あの頃よりずっと」

「でもさ…進めば進むほど、孤独になることもあるよね」

「…ああ」

海斗は視線をカップに落としながら呟く。

「遠くへ行けば行くほど、景色は広がる。でも…隣に誰がいるかは、わからなくなる」

「…それ、わかる」

美咲は目を伏せたまま、小さく笑った。

その笑みには、共感と寂しさの両方が混じっていた。


________________________________________


夜の街を並んで歩く。

吐く息が白く、街灯の光に溶けていく。

ふと、美咲が足を止めた。

「海斗、私ね…この先どこまで行けるかわからないけど、やめないって決めてる」

「知ってるよ。あんたはそういう人間だ」

「じゃあ、海斗は?」

短い沈黙のあと、海斗は微笑んだ。

「俺もやめない。カメラ、まだ手放す気はない」

「…そっか。じゃあ、まだ同じ場所にいるね」

美咲の声は、挑戦と安心が入り混じっていた。


________________________________________


数日後。

海斗は美咲へ一本の電話をかけた。

「次の個展、テーマは“舞台に生きる人”。最初のモデル、美咲でどうだ?」

「えっ…私?」

「そう。あの頃より、もっと強くなった顔を撮らせてほしい」

受話器の向こうで、美咲が息を吐く音がしたあと、小さな笑い声が漏れた。

「じゃあ、あの頃よりもいい顔、見せてあげる」


________________________________________


その日から、二人は再び少しずつ時間を共有するようになった。

互いの夢は別々の道にある。

けれど、レンズと舞台という違う場所から、同じ“表現”を信じて生きる姿は、確かに交わっていた。

もう恋人にならなくてもいい。

ただ、互いの人生を証明し合える存在として――二人は歩みを止めなかった。


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