成長
あれから五年。
東京の街は、再開発のクレーンとガラス張りのビルが空を切り裂くように伸び続け、見慣れた景色も日ごとに塗り替えられていた。
そして、海斗と美咲の距離もまた、季節を重ねるたびに少しずつ形を変えていた。
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海斗は今、フリーカメラマンとして独立していた。
国内外を飛び回り、時に灼熱の砂漠、時に雪に覆われた山岳地帯でシャッターを切る。
雑誌の連載はとっくに終わったが、その後も企業広告やドキュメンタリーの依頼が絶えず、名刺を差し出す相手も、日本語ではないことが多くなった。
ある冬の朝。
雪が舞う地方都市の港町で、海斗は漁師の男を撮っていた。
「こっち向いてください」
レンズ越しの男は、海風で刻まれた深い皺をくっきりと浮かべ、網を引く手を止めない。
シャッター音が、寒空の下で乾いた音を立てた。
(こういう顔だ。生き方がそのまま刻まれた顔)
ファインダー越しに見る世界は、どこまでも広がっているはずなのに、ふとした瞬間に――
(あの街の、あの人は…)
と、思考が遠くへ漂ってしまう自分に気づく。
忙しさと責任は増えたが、その分、孤独も深くなった。
ホテルの一室で、一人コーヒーを淹れながら写真を整理していると、外は雪がしんしんと降っていた。
その白の静けさが、胸の奥の空洞をやけに際立たせる。
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一方、美咲もまた変わっていた。
舞台女優として、少しずつ名前が知られるようになり、商業舞台の出演依頼が増えた。
地方公演の回数も多く、移動用のキャリーケースはいつもパンパンだった。
ある公演前夜。
楽屋で美咲は、深呼吸を繰り返していた。
舞台監督がインカムで何かを指示し、スタッフが慌ただしく行き交う。
鏡の前の彼女は、メイク道具を握ったまま、しばし目を閉じる。
(大丈夫。大丈夫。あの頃の私より、今の私はずっと前にいる)
心の中で呟くたび、喉の奥が少しだけ軽くなる。
それでも幕が上がる直前、指先が震えるのは変わらなかった。
「美咲、準備できた?」
仲間の役者が声をかけると、彼女は笑顔で頷いた。
「うん、行こう」
その笑顔は、恐怖を押し込めた戦闘前の表情だった。
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そんなある冬の夜。
海斗は東京の路地で、偶然、一枚のチラシに目を止めた。
そこには、大きく――
「主演・岸本美咲」
白い照明を受けて凛と立つ彼女の横顔。
あの頃、稽古場で脇役の台本を震える手で握っていた美咲が、今やポスターの中央にいる。
その表情は、以前よりも鋭く、強く、そしてどこか寂しげだった。
(…主演か)
胸の奥で、誇らしさと少しの距離感が同時に膨らむ。
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初日の公演。
暗転と同時に幕が上がり、照明が美咲を照らす瞬間、海斗は息をのんだ。
彼女は舞台上で、感情を全身に宿し、観客の視線を一手に引き受けていた。
声の抑揚、間の取り方、視線の動き――脇役だった頃の不安げな佇まいは、もう欠片もなかった。
終演後、海斗は人波に紛れ、そっと客席を離れようとした。
そのとき――
「…海斗?」
舞台袖から声が飛んできた。
振り返ると、汗と涙に濡れた顔の美咲が立っていた。
舞台の熱気がまだ残るその顔は、五年前とは違う光を宿している。
「来てくれたんだ」
「…偶然だよ。街でチラシ見て」
「ふーん、偶然ね」
「本当だって」
軽口を交わしながらも、互いの胸の奥には、五年分の時間と変化が渦巻いていた。
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公演後、深夜のカフェ。
カップから立ち上る湯気が二人の間をふわりと隔てる。
「お互い…少しは前に進めたのかな」
「進んださ。あの頃よりずっと」
「でもさ…進めば進むほど、孤独になることもあるよね」
「…ああ」
海斗は視線をカップに落としながら呟く。
「遠くへ行けば行くほど、景色は広がる。でも…隣に誰がいるかは、わからなくなる」
「…それ、わかる」
美咲は目を伏せたまま、小さく笑った。
その笑みには、共感と寂しさの両方が混じっていた。
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夜の街を並んで歩く。
吐く息が白く、街灯の光に溶けていく。
ふと、美咲が足を止めた。
「海斗、私ね…この先どこまで行けるかわからないけど、やめないって決めてる」
「知ってるよ。あんたはそういう人間だ」
「じゃあ、海斗は?」
短い沈黙のあと、海斗は微笑んだ。
「俺もやめない。カメラ、まだ手放す気はない」
「…そっか。じゃあ、まだ同じ場所にいるね」
美咲の声は、挑戦と安心が入り混じっていた。
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数日後。
海斗は美咲へ一本の電話をかけた。
「次の個展、テーマは“舞台に生きる人”。最初のモデル、美咲でどうだ?」
「えっ…私?」
「そう。あの頃より、もっと強くなった顔を撮らせてほしい」
受話器の向こうで、美咲が息を吐く音がしたあと、小さな笑い声が漏れた。
「じゃあ、あの頃よりもいい顔、見せてあげる」
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その日から、二人は再び少しずつ時間を共有するようになった。
互いの夢は別々の道にある。
けれど、レンズと舞台という違う場所から、同じ“表現”を信じて生きる姿は、確かに交わっていた。
もう恋人にならなくてもいい。
ただ、互いの人生を証明し合える存在として――二人は歩みを止めなかった。