希望
春の終わり、東京の空はやわらかい曇り空だった。
美咲は、小さな稽古場の片隅に座り、両手で脚本を握りしめていた。
その手のひらは、ほんの少し汗ばんでいる。
主要キャストから外されてから数か月。
舞台に立つことそのものが、怖くてたまらなくなっていた。
それでも――今日は違った。
「美咲、次の芝居、脇役だけどお願いできる?」
演出家が何気なく口にしたその一言が、胸の奥に火を灯す。
「……え、本当に、私でいいんですか?」
「もちろん。君にしか出せない色がある」
心臓が、ドクンと大きく鳴った。
脇役でもいい。いや、脇役だからこそできることがある。
もう一度、舞台に立てる――それだけで十分だった。
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一方その頃、海斗は地方の小さな出版社で相変わらずの仕事をこなしていた。
企業の宣伝写真、地元イベントの取材、地味な編集作業。
だが休日になると、決まってカメラを肩にかけ、街へ出た。
最近は、個人企画を少しずつ進めている。
テーマは「今を生きる20代」。
夢を追い、もがき、笑い、時に涙する若者たち。
アルバイトで舞台を目指す青年、実家を支えるため働きながら起業を夢見る女性、留学資金を稼ぐため昼夜働く学生。
シャッターを切るたび、彼らの不安や希望がレンズの中で形になっていく。
(あいつも…今、必死に立ち上がろうとしてるんだろうな)
美咲の姿を思い出しながら、ファインダー越しの光景に集中した。
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ある夕方、海斗は取材帰りに東京へ向かった。
稽古場の扉を開けると、そこに立つ美咲の顔が、数か月前とは違って見えた。
頬は少しこけていたが、目が生きている。
「見て、この台本」
そう言って差し出したページには、彼女の役のセリフがところどころ赤いペンで囲まれていた。
「セリフは少ないけど、存在感を出せって演出家に言われてるんだ」
手がわずかに震えている。
「緊張してる?」
「そりゃするよ。でも…今は怖さより、立ちたい気持ちのほうが勝ってる」
その言葉に、海斗の胸の奥がじわりと熱くなる。
(ああ、この人は、何度でも立ち上がるんだ)
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公演初日。
小劇場の暗闇の中、美咲はたしかにそこにいた。
脇役でありながら、その一挙手一投足が観客の目を引きつける。
舞台袖でカメラを構えながら、海斗は息を止め、シャッターを切り続けた。
(俺も…諦めない)
終演後、楽屋口で再会した二人は、少し照れくさそうに笑い合った。
「いい芝居だった」
「いい写真、撮れた?」
「もちろん」
そのやり取りは、大学時代の頃とまるで変わらなかった。
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夏。
海斗の「今を生きる20代」企画がSNSで注目を集める。
ある日、編集者から連絡が来た。
「これ、雑誌で連載しないか?」
迷う理由はなかった。
給料は下がるが、海斗は地方の出版社を辞め、東京に拠点を移すことを決めた。
そのことを美咲に伝えると――
「えっ、本当に? また同じ街で暮らすの?」
「まあな」
「同じ街でまた迷えるね」
「迷うの前提かよ」
「迷わない人生なんて、つまらないでしょ」
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東京での生活は、決して甘くなかった。
海斗は不安定な仕事と収入に頭を悩ませ、美咲は舞台とアルバイトを掛け持ちし、時間と体力を削られていった。
それでも、夜遅くに会えば互いの近況を語り合い、時には無言のまま川沿いを歩いた。
「今日、上手くいかなかった」
「俺もだ」
そんな会話の後、肩がほんの少し触れたまま、黙って夜風に吹かれた。
恋人のような距離感になる夜もあったが、翌日にはまた、それぞれの場所へ戻っていった。
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秋。
海斗の連載が雑誌に掲載された。
ページには、夢を追う若者たちの真剣な眼差しや笑顔、そして涙が並んでいた。
「海斗、これ…本当にすごくいい」
雑誌を抱きしめる美咲の目が、潤んでいる。
「ありがとう。でも、これは通過点だ。まだ撮りたい景色がある」
「うん、私も。まだやれる」
美咲もまた、脇役から少しずつ大きな役を任されるようになっていた。
どちらも成功とは呼べない。
だが二人には、“続けている”という確かな実感があった。
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冬の夜。
二人は高台の公園で、無数の光が瞬く街並みを見下ろしていた。
吐く息が白く揺れる。
「ねえ、もし十年後、全然違う場所にいたとしても…」
「うん?」
「それでも、好きなことをやめなかったって、言える自分でいたい」
海斗はその横顔をじっと見つめ、カメラのシャッターを切った。
ファインダーの中の彼女は、迷いも不安も抱えたまま、それでも前を向く人間の顔をしていた。