迷い
東京に移った美咲からの連絡は、次第に途切れがちになっていった。
最初の数週間は、稽古の合間や帰宅途中と思しき時間に、短いメッセージが届いていた。
〈今日は立ち稽古でクタクタ〉
〈小道具、また壊れた…〉
そんな何気ない一文が、海斗の一日をやわらかく締めくくってくれていた。
だが、やがてその頻度は減っていき、ある日を境に電話もなくなった。
代わりに、SNSには舞台衣装をまとった美咲や、共演者たちとの笑顔の写真が増えた。
ステージ照明を浴びる彼女は、地方都市で見ていた頃よりもさらに色鮮やかで、眩しく映った。
海斗は、その画面を指でスクロールしながら、胸の奥に微かな空洞を覚える。
自分は今、地方都市の小さな出版社で、写真と記事の両方を担当している。
給料は低く、取材内容も地味だ。時には企業の宣伝写真を何枚も撮るだけの日もある。
それでも、ファインダーを覗いた瞬間だけは、呼吸がゆっくりと整い、世界が澄んでいくように感じられた。
(これが俺の道…のはずだ)
そう自分に言い聞かせようとするたび、胸の奥に小さなざわめきが生まれた。
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ある日曜の夜、突然スマホが震え、美咲からの着信が画面に表示された。
「…もしもし?」
「海斗、元気?」
少し掠れた声だった。
「まあ、なんとか。そっちは?」
「忙しいよ。楽しいけど…正直、ちょっとしんどい」
「しんどいって?」
短い沈黙のあと、美咲が小さく息をついた。
「東京って、全部が速いの。立ち止まると、すぐ置いていかれるみたいで…周りは優秀な人ばっかりでね。時々、本当に私がここにいていいのかなって思う」
海斗は、何を言えばいいのか探すように視線を彷徨わせた。
「…俺も、似たようなもんだよ」
「え?」
「小さい出版社でさ、やりたい写真ばっかり撮れるわけじゃない。現実的な仕事が大半で…夢は、余った隙間に押し込んでる」
受話器越しに、美咲が小さく笑った。
「そっか…私たち、似てるね」
その笑い声は、安堵と切なさが混じった、不思議な響きだった。
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数か月後、海斗は仕事で東京へ行く機会を得た。
取材の合間、美咲に連絡すると、すぐに「稽古終わりに会える」と返事が来た。
待ち合わせたのは、下町の小さなカフェだった。
ガラス越しに見えた美咲は、以前より少し痩せていて、表情に影を落としていた。
「久しぶり」
「久しぶり。…ちょっと大人っぽくなった?」
「そう? まあ、毎日揉まれてるからね」
そう言いながらも、彼女の指先はカップを落ち着きなく回していた。
話を聞くと、劇団内での競争や人間関係の摩耗、生活費のやりくりに疲れているという。
「夢を追うって、こんなに苦しいんだって知らなかった」
「でも、やめたいとは思わないんだろ?」
美咲は少し笑い、視線を落とした。
「うん。舞台に立つ瞬間だけは、全部報われるの」
海斗は強くうなずいた。それは、自分がシャッターを切る瞬間に感じる、あの全身が研ぎ澄まされる感覚と同じだったからだ。
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しかし現実は、少しずつ理想を削っていく。
会社では上司から「もっと広告寄りの写真を」と求められることが増えた。
街の自然な瞬間や、人の素の表情より、企業が望む“きれいで安全なイメージ”を撮ることが優先される。
「海斗くん、仕事はアートじゃないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で小さく何かが崩れた。
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ある晩、海斗は河川敷に座り、夜景を撮っていた。
川面に揺れる街灯、遠くに霞むビル群。
ポケットの中でスマホが震えた。
〈次の舞台、主要キャスト降ろされた〉
短いその一文に、彼女の悔しさと疲弊が滲んでいた。
迷わず電話をかける。
「大丈夫か?」
「…大丈夫じゃないけど、泣くのも疲れた」
「…俺、東京行こうか?」
「来ても何も変わらないよ。でも…来てほしい」
夜行バスの中、カメラを抱きしめながら海斗は思った。
(夢って、こんなに脆くて、それでもしぶといものなんだ)
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東京の小さなアパート、美咲の部屋で、二人は夜通し話し続けた。
将来のこと、社会の仕組み、大人たちへの不満、自分たちがどう生きたいか――。
「きっと私たち、この国の“正解”からは外れてるよね」
「でもさ、その“正解”を誰かに決められてる時点で、もうおかしいだろ」
時折、笑いが混じり、時折、沈黙が流れた。
窓の外が白んでいくのを、二人は並んで見ていた。
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別れ際、美咲がふっと微笑んだ。
「海斗、私たち、たぶんずっと迷い続けるよ。でも…その迷いがあるから、自分の色を見つけられるんだと思う」
その言葉を胸の奥にしまい、海斗は帰りのバスに乗った。
都会がゆっくりと遠ざかり、窓の外には朝焼けが広がっていた。
(俺は、写真を撮り続ける。形が変わっても、それは俺の生きる証だ)