表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

迷い

 東京に移った美咲からの連絡は、次第に途切れがちになっていった。

 最初の数週間は、稽古の合間や帰宅途中と思しき時間に、短いメッセージが届いていた。


 〈今日は立ち稽古でクタクタ〉

 〈小道具、また壊れた…〉

 そんな何気ない一文が、海斗の一日をやわらかく締めくくってくれていた。


 だが、やがてその頻度は減っていき、ある日を境に電話もなくなった。

 代わりに、SNSには舞台衣装をまとった美咲や、共演者たちとの笑顔の写真が増えた。

 ステージ照明を浴びる彼女は、地方都市で見ていた頃よりもさらに色鮮やかで、眩しく映った。

 海斗は、その画面を指でスクロールしながら、胸の奥に微かな空洞を覚える。


 自分は今、地方都市の小さな出版社で、写真と記事の両方を担当している。

 給料は低く、取材内容も地味だ。時には企業の宣伝写真を何枚も撮るだけの日もある。

 それでも、ファインダーを覗いた瞬間だけは、呼吸がゆっくりと整い、世界が澄んでいくように感じられた。

 (これが俺の道…のはずだ)

 そう自分に言い聞かせようとするたび、胸の奥に小さなざわめきが生まれた。


―――――――――――――――


 ある日曜の夜、突然スマホが震え、美咲からの着信が画面に表示された。

 「…もしもし?」

 「海斗、元気?」

 少し掠れた声だった。

 「まあ、なんとか。そっちは?」

 「忙しいよ。楽しいけど…正直、ちょっとしんどい」

 「しんどいって?」

 短い沈黙のあと、美咲が小さく息をついた。

 「東京って、全部が速いの。立ち止まると、すぐ置いていかれるみたいで…周りは優秀な人ばっかりでね。時々、本当に私がここにいていいのかなって思う」

 海斗は、何を言えばいいのか探すように視線を彷徨わせた。

 「…俺も、似たようなもんだよ」

 「え?」

 「小さい出版社でさ、やりたい写真ばっかり撮れるわけじゃない。現実的な仕事が大半で…夢は、余った隙間に押し込んでる」

 受話器越しに、美咲が小さく笑った。

 「そっか…私たち、似てるね」

 その笑い声は、安堵と切なさが混じった、不思議な響きだった。


―――――――――――――――


 数か月後、海斗は仕事で東京へ行く機会を得た。

 取材の合間、美咲に連絡すると、すぐに「稽古終わりに会える」と返事が来た。

 待ち合わせたのは、下町の小さなカフェだった。

 ガラス越しに見えた美咲は、以前より少し痩せていて、表情に影を落としていた。

 「久しぶり」

 「久しぶり。…ちょっと大人っぽくなった?」

 「そう? まあ、毎日揉まれてるからね」

 そう言いながらも、彼女の指先はカップを落ち着きなく回していた。

 話を聞くと、劇団内での競争や人間関係の摩耗、生活費のやりくりに疲れているという。

 「夢を追うって、こんなに苦しいんだって知らなかった」

 「でも、やめたいとは思わないんだろ?」

 美咲は少し笑い、視線を落とした。

 「うん。舞台に立つ瞬間だけは、全部報われるの」

 海斗は強くうなずいた。それは、自分がシャッターを切る瞬間に感じる、あの全身が研ぎ澄まされる感覚と同じだったからだ。


―――――――――――――――


 しかし現実は、少しずつ理想を削っていく。

 会社では上司から「もっと広告寄りの写真を」と求められることが増えた。

 街の自然な瞬間や、人の素の表情より、企業が望む“きれいで安全なイメージ”を撮ることが優先される。

 「海斗くん、仕事はアートじゃないんだよ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で小さく何かが崩れた。


―――――――――――――――


 ある晩、海斗は河川敷に座り、夜景を撮っていた。

 川面に揺れる街灯、遠くに霞むビル群。

 ポケットの中でスマホが震えた。

 〈次の舞台、主要キャスト降ろされた〉

 短いその一文に、彼女の悔しさと疲弊が滲んでいた。

 迷わず電話をかける。

 「大丈夫か?」

 「…大丈夫じゃないけど、泣くのも疲れた」

 「…俺、東京行こうか?」

 「来ても何も変わらないよ。でも…来てほしい」

 夜行バスの中、カメラを抱きしめながら海斗は思った。

 (夢って、こんなに脆くて、それでもしぶといものなんだ)


―――――――――――――――


 東京の小さなアパート、美咲の部屋で、二人は夜通し話し続けた。

 将来のこと、社会の仕組み、大人たちへの不満、自分たちがどう生きたいか――。

 「きっと私たち、この国の“正解”からは外れてるよね」

 「でもさ、その“正解”を誰かに決められてる時点で、もうおかしいだろ」

 時折、笑いが混じり、時折、沈黙が流れた。

 窓の外が白んでいくのを、二人は並んで見ていた。


―――――――――――――――


 別れ際、美咲がふっと微笑んだ。

 「海斗、私たち、たぶんずっと迷い続けるよ。でも…その迷いがあるから、自分の色を見つけられるんだと思う」

 その言葉を胸の奥にしまい、海斗は帰りのバスに乗った。

 都会がゆっくりと遠ざかり、窓の外には朝焼けが広がっていた。

 (俺は、写真を撮り続ける。形が変わっても、それは俺の生きる証だ)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ