旅立ち
六月、梅雨空の下、大学構内には黒いリクルートスーツの学生たちがせわしなく行き交っていた。
傘のしずくがアスファルトに落ち、濃い水たまりを作っていく。
海斗はその群れの中で、少し息苦しさを覚えた。
(暑い…いや、重い。空気が重たい)
カメラバッグの肩紐が食い込む感覚よりも、背中に貼り付く湿気よりも、胸の奥を押さえつける圧力のほうがずっと重かった。
就職活動はすでに本格化している。
説明会、ES、面接――。
廊下の休憩スペースでは、周りの友人たちが企業名や年収、福利厚生の話で盛り上がっている。
「いや、あの企業、ボーナスが年4か月分だってよ」
「まじか!エントリーまだ間に合う?」
そんな会話の渦をぼんやり聞いていると、慎が紙コップのコーヒーを片手に近づいてきて、テーブルに腰を下ろした。
「海斗、お前どこ受けてる?」
「…まだ決めてない」海斗は曖昧に答えた。
そして、小さく息を吐き、言葉を足す。
「ていうかさ、本当に俺がやりたいことって、会社員にならないとダメなのかなって」
慎は眉を上げ、ため息混じりに笑った。
「またそれかよ。お前の“やりたいこと”って写真のことだろ?現実見ろって。好きなことだけじゃ食っていけないぞ」
「…わかってるよ。でも、わかってるのに…なんか、息が詰まる」
慎はコーヒーをひと口すすり、真顔で言った。
「だったらなおさら、ちゃんと選べよ。夢だけ追って落ちたら、後で自分を責めることになる」
海斗は視線を落とした。反論できなかった。
理解はしている。
けれど、頭で納得できても、心はどうしても別の方向を向いてしまう。
それだけじゃ、生きている実感が持てない気がしていた。
ーーーーーー
夜、美咲から短いメッセージが届いた。
〈今度、舞台の千秋楽だから来て〉
画面を見た瞬間、海斗は迷わず「行く」と返信していた。
当日、客席に座ると、会場全体を覆うような期待と緊張が漂っていた。
照明が一気に落ち、暗闇の中、美咲が舞台に現れる。
物語の中で彼女は泣き、笑い、怒り、そして静かに立ち尽くした。
大学の同級生でも、友達でもない。
そこにいたのは、一人の役者だった。
終演後、楽屋口で待っていると、美咲が汗をタオルで拭きながら現れた。
「来てくれたんだ」
「当たり前だろ。…すごかった。いや、ほんと、言葉じゃうまく言えないけど」
美咲は微笑みながらも、じっと海斗を見つめた。
「どうだった?」
「…やっぱり、すごい。俺も、何か…自分だけの場所を持ちたいって思った」
その言葉に、美咲の表情が少しだけ真剣になる。
低い声で問いかけた。
「海斗、就活どうしてる?」
「まだ…うまく進んでない」
「無理に決めなくてもいいけど…逃げ続けたら、後で苦しくなるよ」
彼女の声は冷たくなかった。
けれど、その一言が胸の奥に重く響き、しばらく言葉を失った。
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その頃、日本のニュースは暗い見出しばかりだった。
企業の大量リストラ、若者の非正規雇用率の上昇、年金制度の崩壊の不安…。
SNSでは、
〈もう日本じゃ将来は描けない〉
〈努力が報われるのは一部の人間だけ〉
そんな投稿が溢れていた。
ゼミのグループチャットでも、
「結局、大人たちは自分の世代のことしか考えてない」
「俺たちは税金払うために働くのか?」
と不満が飛び交う。
そのたびに、海斗は「違うだろ」と言いたくなった。
けれど、自分自身も明確な答えを持っていない。
それが、悔しかった。
ある夜、海斗は美咲と河川敷を歩いていた。
川面には街の灯りが揺れ、冷たい風が頬を撫でる。
「海斗さ、もし全部うまくいかなくても…写真は続ける?」
「続けるよ。たとえ仕事にならなくても」
「そっか。…私も舞台は続ける。でもね、将来のこと考えると怖いよ。家族は“安定”って言うけど、私の安定は、きっと舞台に立つことなんだよね」
美咲は小石を蹴って笑った。
けれど、その笑顔の奥には、影が潜んでいた。
(俺たち、同じ場所に立ってるのかもしれない。不安も、夢も、全部抱えたまま)
秋、海斗は小さな決意を固めた。
就職活動を完全にやめることはしない。
でも、写真を諦めない道を探す。
出版社のカメラマン職、地域紙の記者、フリーランスの取材アルバイト…。
面接で「安定は求めていません」と言えば、面接官は怪訝そうに眉をひそめた。
だが、それでいいと思った。
安定を捨てたわけじゃない。
自分にとっての安定は、“好きなことを続けられる”ことだから。
冬、雪が舞う日に、美咲から電話がかかってきた。
「私、来年から東京の劇団に入ることになった」
嬉しさと寂しさが同時に胸に広がる。
「…そっか。おめでとう」
「ありがとう。海斗もさ、ちゃんと自分の道、選びなよ」
通話が終わっても、雪は静かに降り続けていた。
海斗はカメラを手に取り、白い街を撮り歩く。
将来の答えはまだ出ない。
でも、シャッターを切る瞬間だけは、迷いが消えた。
春、卒業式。
桜の下、袴姿の美咲とスーツ姿の海斗が並んで写真を撮った。
「これからどうなるんだろうな、俺たち」
「どうなるんだろうね。でも…きっと、なんとかなるよ」
その言葉に根拠はなかった。
けれど、海斗は信じた。
好きなことを手放さない限り、どんな未来も、自分の色に染められる
――そう思えた。