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トースト

掲載日:2024/11/13

 トーストを齧る。

 この何気ない時間が堪らなく幸福だと感じた。そんなこと、今まで気づきもしなかった。

 無添加、天然酵母、素材と手作りにこだわった食パン。値段は高いが、妻はこの食パンにこだわり、いつも遠くの町までこの食パンを買いに行った。それを贅沢に厚めに切り、トースターで焼く。きっかり十二分。絶妙な焼き加減で外はカリッと、中はふわふわ。何もつけない。その厚みに、噛んだ時のさくりとした歯ごたえが堪らない。噛んだ瞬間、そこから口中に広がる香ばしい香りと、ほんのりとした甘さの何とも言えない味わい。

 朝の純真な陽光の広がる窓辺から、白いレースのカーテンを揺らす心地よい風。

 住み慣れた家。快適な南向きのリビング。そこに漂うコーヒーの香り。妻がいて娘がいる。なんて幸せなのだろう。噛みしめるように心底からそれを感じる。

「なーに?」

 妻が笑顔を向ける。

「いや、なんかね」

「なーに?」

 妻はさらに笑う。その笑顔には幸福以外なかった。


「・・・」

 戦争があった。ここからは遠いところ。

 泥にまみれ、血を流し、殺し合った。食べることも忘れ、ただひたすら殺し合った。それしか考えない。生きるか殺すか。それだけだった。正義だとか悪だとか、そんなことは、どうでもよかった。そんなものは、遠い世界の建前でしかなかった。

 爆弾の臭い。肉の焼ける臭い。生血の臭い。路上にたくさんの死体が転がっていた。子どもも女性も老人も死体になって転がっていた。

 ミサイルの飛んで行くキーンという音。頭上を飛ぶ不気味なドローンの音。ビルも家も道路も病院も学校もすべてが真っ黒に破壊されていた。

「絶対殺す。絶対殺す。あいつらを全員皆殺しにする。一人残らず皆殺しにする。絶対にだ。絶対にだ」

 心の中に渦巻く感情。憎しみ、憎しみ、憎しみ――。

 何でこんなことになったのか。そんなことはもうみんな忘れていた。そんなことはもうどうでもよかった。とにかく殺す。それだけだった。

 爆弾もミサイルも銃もその弾も後方からたくさん送られてきた。それをひたすら撃つ。敵を殺すために――、あいつらを殺すために――。


 トーストを齧る。ふわりとしたやわらかさの中にあるバターの風味が口いっぱいに広がる。小麦の焼ける香ばしさが鼻を抜け、何とも言えない小さな快感が脳を刺激する。

「・・・」

 トーストを持つ手を見つめる。あの時、この手が血でいっぱいに染まっていた。その手の中であいつは死んでいった。この手の中で――、この手の中で――あいつは死んでいった。

 たくさんの戦友が死んでいった。いい奴だった。みんないい奴だった。みんな家族がいて、大切な人がいた。

 

 最後の一口を口の中に入れる。満たされたお腹と心。

「・・・」

 一日が始まる。これから、明るい希望に満ちた躍動的な一日が始まる。そんな当たり前の感覚が今のこの時間にはある。

 戦争中、泣くことはなかった。本当に悲しい時、人は泣かない。感情が痺れたまま、その場に凍ったみたいに固まるだけ。

 今、この時、世界は当たり前みたいに平和で明るい。この朝の幸福なひと時が、人類のこれまでの脈々と続く歴史の当たり前の時間としてあり続けていくと、いくのだと、そう確かな感覚を今は持ちたかった。確かな安らぎを今は感じていたかった。

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