須々木優大38.愛していると
昏華。そのような名前の人を、僕は一人しか知らない。苗字を考慮したとしても、世界中を探せば他にいるのかもしれないが、僕は確信に近い何かを感じていた。
茶髪の男が口にしたマッハという言葉は伊達ではなく、いつ振り落とされるかわからないほどのスピードであるが、全神経を握力に集中させて、その時がくるまで僕はひたすらに耐え続けた。
「お疲れ様でさァ。降りやすぜ」
スピードが緩やかになってきたように感じていた頃、茶髪の男のその一声で僕は瞼を開けた。建物などの物体は確認できなかった。おそらく僕たちと同様にバリアでも張って身を守っているのだろう。
激しく砂埃を舞わせながらも、僕たち三人は地上へと無事に降りることができた。
「ここで待っててくだせェ。昏華の姉御を呼んできまさァ」
茶髪の男はそう言うと、前方へと歩みを進め、視界から姿を消した。
もうすぐ会える。会えるかもしれないのだ。
改めてそう思った途端、胸の高鳴りが激しくなり僕の呼吸を抑制し始めた。必死に肺へ酸素を取り込もうと試みるが、呼吸数が増すばかりで一向に治まってはくれなかった。思わずその場に跪き、蹲った僕に対して
「大丈夫。優大が一番わかっているでしょ?」
敦子はそう言うと、僕の背中を優しく撫でてくれた。僕の口からは伝えた事がないから、もしかしたら別の誰かが敦子に話をしたのかもしれない。
わかっている。わかっているはずだ。しかし僕が抱いた全体像は、僕の願望、言い訳も十分に含まれている。つまり、どう思っているかなんて、結局のところ本人しかわからないのだ。
「昏華の姉御! 今回も褒めてくだせェ!」
「今日だけで五人目だもんね。すごいすごい!」
しばらく俯き立ち上がれないでいたが、ようやく呼吸が落ち着き始めたところで男女の会話が聞こえてきた。男の声はおそらく茶髪の男だろう。
そして、もう一人。
僕が勢いよく顔を上げると、茶髪の男の隣にいる女性と目が合った。途端に時が止まったような感覚がした。
女性も同じだったのだろうか。立ち止まり目を見開き始めたかと思うと、今度は途端に顔がぐしゃぐしゃになり大粒の涙がいくつも頬を伝い始めた。
「姉御!? 一体どうしたんですかィ!?」
そう言いながらあたふたしている茶髪の男などお構いなしに、女性は僕のもとへと駆け付けると
「もっと、ちゃんと、顔見せて?」
そう言いながら、僕の両頬を両手で包んだ。
眉間にしわを寄せ、口元は歪んでいる。最後に目にした姿と何も変わらない女性を目の当たりにして、僕は言葉を口にすることができなかった。
殺してしまってごめんね。何の罪も償えなくてごめんね。ちゃんと生きられなくてごめんね。生まれたのが、僕でごめんね。
心の中では、何度も何度もそう叫んでいるのだが、口元が動くだけでやはり言葉にはなってくれなかった。
言わなきゃ。ちゃんと言わなきゃいけないのに。
「……母さん」
思いとは裏腹に、ようやく捻り出せた言葉はそれだけだった。
「大きくなったね」
母さんはそう言うと、僕を優しく包み込んだ。
「肝心な時に何もしてあげられなくてごめんなさい。私を許さなくていい。だけど、これだけは言わせて。会いたかった。本当に、心から」
母さんの言動が後押しになったのか、僕も母さんの背中に手を回すと
「たくさんの人に迷惑かけて、それでも生きなきゃいけなくて。投げ出す事も出来なくて。だから頑張った。頑張って、頑張って、頑張ったけど、上手くいかなかった。辛かった。死にたかった。だけど、その思いは他者には関係のないことなんてわかってる。それでも、やっぱり苦しかったんだ。
身を粉にしてくれたのに、出来損ないでごめんなさい。僕も会いたかった。会いたかったんだ。ごめんなさい、ごめんなさい」
貯め込んだすべてを吐き出すように、感情をむき出しにしながらそう口にした。
「頑張りが実らなくても、たくさんの人に迷惑をかけたとしても、仮に出来損ないなんだとしても、そんな事は正直どうでもいい。たとえ世界中のすべての人間が優大を蔑んだとしても、私は胸を張って言い切れる。愛していると。だって、優大は私の自慢の息子なんだもの。何があろうとも、その事実は決して揺らがないんだから」
母さんは優しい声色で、僕の心を撫でてくれた。
溢れ出てくる感情を制御できず子どものように泣き喚くことしかできなくなった僕に対して、母さんはいつまでも優しく、力強く僕を受け止めてくれた。




