須々木優大6.約束と条件
何だかいい匂いがする。ゆっくりと瞼を開けると、真っ白な天井が視界を埋め尽くした。体を起こし、テレビの隣に置いてある置時計を見ると、時刻は十七時。どうやら十時間ほど眠っていたようだ。
「おはようございます」
起きたのに気が付いたのか、キッチンの方から雨海の声が聞こえてきた。僕はいつの間にかかけられていた毛布を払いのけ、何も言わずに立ち上がると洗面台へと足を運んだ。
どうやら匂いの正体はホットケーキのようだ。雨海がへらを用いて、器用にひっくり返している。
僕は鏡をまじまじと見つめた。髪を乾かしていない状態で寝たからか、寝ぐせがひどい事になっている。
「コップは青色、歯ブラシは緑色の物を使ってください」
まるで僕の心を読んでいるかのように、雨海はそう言った。何だか尺に障るが、僕は言われた通りのコップと歯ブラシを用いて歯磨きを行った。
ずっと同じ体勢で寝ていたからか、体の節々が痛い。左手をくし代わりにして、何度か寝癖を直そうとするも、どうにもならないその髪型に見切りをつけて、僕は再びソファのもとへ向かった。テーブルの上に置いてあるリモコンに手をかけ、テレビをつけながらソファに深々と座る。情報番組を見ながらぼーっとしていると、
「できました!」
そう言いながら、雨海はホットケーキが三枚乗った皿をテーブルの上に置いた。
「メイプルシロップ派ですか? それともバター派ですか?」
にこやかな表情で聞いてくる雨海を見ると、昨日の出来事がまるで嘘のように思えてくる。
随分とまた、切り替えが早いんだな。やっぱりそういう事なのだろう。そんな事を考えつつ、僕は何もつけずにかぶりついた。
うまい。こんなにふわふわしているものなのか。こんなもの、何枚だって食べられるじゃないか。
僕はものの数秒で三枚すべてを平らげてしまった。同時に、またやってしまったと後悔する。
「何もつけない派なんですね。ちなみに私はメイプルシロップ派です。美味しいんですよ。また作るので、その時は挑戦してみてくださいね」
僕の食べっぷりに機嫌を良くしたのか、先程よりも浮ついた声で話しかけてきた。
「どうしてそこまで世話を焼く?」
僕は素朴な疑問をぶつけてみた。雨海の役割は嘘をついて誘導し、僕を奴らの監視下に置く事。それを果たしたのだから、こんな事までする必要はないはずだ。
「せっかく契約を承諾していただいたんですから、少しでも恩返しができればと思いまして」
雨海はそう言うと、にこっと笑った。まだ嘘を付き通すつもりだろうか。
「契約なんて僕を騙す手段でしかなかったくせに。見え透いた嘘はもうたくさんだ。食べたのは僕が悪い。すまなかった。お願いだから、もう話しかけないでくれ」
皿をテーブルに戻すと、そうきっぱりと言い放った。
「……わかりました」
どうせ食い下がってくると思っていた。予想外の返答に思わず雨海の方を見た。
「その代わりに一つ、私からもお願いしていいですか?」
内容次第だが、お願い一つで会話せずに済むのであれば万々歳である。自殺をする機会も作りやすくなるし、このチャンスを逃す手はない。
「承諾するかは内容によるけど、それでもいいなら」
「ありがとうございます」
雨海はぺこっと頭を下げた。
「あなたの事情も知らないのに、私の都合で生きていてなんて無責任な事を言ってしまって申し訳ございませんでした。今もどうやって死のうか、考えていますよね?
昨日もお伝えしましたが、契約中にあなたが死ねば私も死ぬ事が確定してしまいます。あなたの死を止められないのならせめて、死に方くらいは自分で決めたいんです。ですから、今ここで契約を破棄させてはいただけないでしょうか?」
頭を下げたままの雨海の声は、少し震えているように感じた。
……これも演技なのか?
しかし、嘘と見抜いている僕に契約の話を持ち出し、破棄を提案するメリットなど何もないはずだ。存在しない契約をどうこうする必要性がないのだから。一体何を企んでいるんだ?
……いや、仮に契約が存在していたとして、もし僕が今自殺をすれば、その瞬間に雨海の死が確定するわけだから、それを防ぐ事ができるのであれば雨海にとってはメリットになるのか。どちらにせよ、僕の頭の中だけで判断できるような内容ではないだろう。真偽のほどをはっきりとさせる必要がある。
「契約を破棄するという証拠を見せてくれ」
もし本当に契約というものが存在していて、雨海が利用されているだけなのだとしたら、契約破棄はあいつらにとって都合が悪いはずだから、確実に止めに来る。止めに来ないようであれば、やはり騙す演技だったと判断していいだろう。
これで演技でなければ、僕は最低な人間だ。そんな事はわかっているが、念には念を押さないといけない。これは僕だけの問題ではないのだから。
「わかりました。私が約束を破れば、契約は破棄される。そう言いましたよね?」
「あぁ」
「私が約束を破ったかどうか、その基準を判断するのはあなた自身です。もちろん、適当に約束を破ったなんて言っても適応されませんが、確証があれば話は別です。
あなたは今から『契約を破棄したい』と私に提案してください。それに対して私は、嫌だと答えます。そしたら、『約束は破られた』と言って私にキスをしてください。これで契約は破棄されますから」
雨海は顔を上げると、そう説明した。
「もしそれで契約が破棄できないとしたら?」
「でしたら、その後に私を拘束してください。一日以上キスできなければ、どのみち契約は自然に抹消されます。少し時間はかかりますが確実です」
「そうか。じゃぁ、言わせてもらう。契約を破棄したい」
「嫌です」
雨海は僕を見つめて、はっきりと言い切って見せた。
「約束は破られた」
「……後はキスをするだけです。お願いします」
雨海はそう言うと、ゆっくり瞼を閉じた。
あいつらが突入してくる様子はない。結局意図は読めなかったが、やはり演技だったようだ。どこまでも僕を馬鹿にしやがって。
僕は雨海のもとへ近づくと、両手を雨海の肩に乗せた。華奢な両肩には力が籠っていた。何を我慢しているのか、唇を噛みしめている。キスをしようと唇を雨海の口元に近づけた瞬間、雨海の左目から一粒の涙が頬を伝った。
パンっ!!
同時に、雨海は自身の左頬を左手で勢いよく叩いた。いきなりの出来事で、僕は体がびくっとなってしまった。
「ごめんなさい。卑怯な真似をして。ごめんなさい」
雨海は小さな声でそう呟くと、素早く涙を拭き取り再び口を閉じた。もう唇は噛みしめていなかった。
何だよ。何なんだよ。一体。
すべては演技。さっきそう結論づけたじゃないか。今のだって、涙を見せる事で僕に契約破棄させる事を躊躇させて、自殺させないように誘導しているだけなんだ。きっとそうだ。だから、ひと思いにキスをしてしまえばいいんだ。早くこんな茶番を終わらせて、死ななきゃならないんだから。
しかし、そんな思いとは裏腹に、身体が言う事を聞いてはくれなかった。
「……死にたいんだ。死ななきゃならないんだ。計画に従うわけにはいかないから」
気づくと僕は口を開いていた。
「死なずとも姿をくらませば、計画は進行不可になると思った。一年くらいなら、やり過ごせると思った。でも、すべて計算のうちだった。手のひらの上で転がされているに過ぎなかったんだ」
止まらない。もう、止められない。
「あいつらに捕まった以上はもう、隙をついて死ぬ以外に手段はない」
思わず手に力が入る。俯いているので表情はわからないが、雨海はただだまって聞いてくれている。
「君はあいつらと関わっている人間だ。信用などできるはずもない。すべて演技に決まっている。契約なんてものは存在しなくて、君は元気で死ぬ事なんてない。だから天秤にかけなくても答えは明白なんだ。契約なんか捨て置いて、今すぐ自殺すればすべて解決するはずなんだ。わかってる。わかってるんだよ。わかっているのに、拭えぬ可能性が邪魔をして、君に生きてほしいなんて思ってしまう」
何言ってるんだよ。馬鹿か。雨海にこんな事を言っても無意味な事くらいわかっている。それでも込み上げてきた感情を抑える事ができなかった。
「生きてほしいなんて初めて言われました」
その言葉につられて顔を上げると、雨海は驚いた様子でこちらを見つめていた。
「ですが、私には何の価値もありません。だから本当は生きる資格だってありません。それなのに人の弱みに付け込んで、苦しめて。ただただ自分勝手で。過ちだと気づいているのに何度繰り返したってやめようとしない悪魔みたいな奴なんですよ?」
「死にたいのか生きたいのかどっちなんだよ。君の自己評価なんか僕にとってはどうだっていい」
僕はそう吐き捨てると、肩から手を放して脱衣所へと向かった。そのまま服を脱ぎ棄てると、逃げるように浴室へと入った。一度冷静になりたかった。蛇口をひねり、頭からお湯を——
「つめたっ!?」
出てきたのは冷水だった。僕は勢いよくシャワーの向きをあさっての方向に変えた。
昨日は初めから温水だったじゃないか。使用する時間帯によって温度が変動するしくみなのか。
……いや、そんな機能聞いた事がない。それとも、僕が知らないだけなのか?
そういえば昨日、僕が浴室に入った時点でもうすでに床が濡れていた気がする。誰かが使用した後だったからだろうか。しかし、あんな短い時間で雨海がシャワーを浴びる事など不可能だ。あいつらが使用したとも考えにくい。他に考えられるのは、雨海が事前に水を出して温水に変えていた事くらいだ。しかし、どうしてそんなことをする必要がある?
……明確な答えなど、雨海本人にしかわからない。考えても無駄だろう。
僕はシャワーの向きを変えると、心地よい温度になった温水を頭からかぶった。
そういえばあの時……。
僕は浴室から勢いよく飛び出し、腰にタオルを巻きつけるとキッチンへと向かった。
……やっぱりそうだ。
僕は脱衣所に戻り、バスタオルで勢いよく髪を拭いて服を着ると、そのままの足でリビングへと向かった。
雨海は先程の位置から微動だにしていなかった。
「スマホ持ってる?」
「……あっ、え?」
雨海はようやく体を動かすとこちらを見た。
「ちょっと貸してほしいんだけど」
「は、はい。いいですよ」
差し出されたスマホを受け取り、ダイヤルボタンを押して番号を入力しながら家を出た。
僕の中で一つだけ明確になったものがある。この判断がたとえ間違いだったとしても、後悔はしないだろう。きっと、母さんならこうするだろうから。
「もしもし」
出たのは親父だった。
「計画には従う。言う事なら何でも聞く。だからもう、人は殺さないでくれ」
「いきなりかけてきて何を言い出すのかと思えば、またそれか。何も俺たちは人殺しをしたいわけではない。研究の一環で結果的に人が死んでいるだけだ。もちろん当人たちには了承を得ているし、政府にも認可されている。何も問題はない。そうだろ?」
「もう誰も、死んでほしくない」
「お前の意見など知った事ではない。偽善者にでもなったつもりか? そもそも、お前に計画を拒む権利などないんだ。何の交渉にもなっていない」
「死体の山を積み上げた先の幸せに何の意味がある? 僕は見て見ぬふり何てできない。もちろん母さんだってそう思っているはずだ。お前は何とも思わないのかよ!」
「……話はそれだけか?」
「答えろよ!」
返答はなく、そのまま通話が切れてしまった。
「くそっ!」
僕はもう一度番号を入力し、かけ直した。
「……なんだ。しつこいぞ。俺は忙しいんだ」
「契約が終わるまで待ってくれ。それまでは誰も殺さないでくれ」
「何度言えばわかる。いい加減諦めろ」
「何度でも言ってやるよ。あんたが人殺しをやめるのならば」
「そんなに嫌なら、また逃げ出してみればいいじゃないか」
「逃げても何も変わらなかった。仮に好転したとしても、彼女を見殺しにしてしまう事になる」
「……また情でも湧いたのか? そいつも所詮モルモットだ。唯一細菌で即死しななかっただけの存在。ただそれだけだ。死んでも構わない。データが取れれば問題はないのだからな」
……モルモット?
僕は親父と自分に対しての怒りで頭がおかしくなりそうになるのを必死に抑えた。
「細菌って王食菌の事か?」
「なんだ。聞いていたのか。その通りだ」
「……そうか」
考えていなかったわけではない。しかし、心のどこかで考えないようにしていた自分がいたのは確かだった。
「何でも言う事を聞く。これから先、あんたの犬になると誓う。だからもう、お願いだから人を殺すのはやめてくれ」
「……いいだろう」
根負けしたのか、ため息混じりではあったがようやく僕が望んだ返答がきた。
「本当か!?」
「ただし条件がある」
思わず声が浮ついた僕をかき消すように、親父はそう言った。




