雨海敦子16.本心
「おーい。何時だと思ってんだ」
須々木さんの声がして目が覚めた。頭が痛い。二度目の感覚であるが、これは慣れる事などないだろう。
「一日が終わっちまうぞー」
再び須々木さんの声がした。
「ばぁい」
返事をしてみたが、掠れた声しか出なかった。
「もうお酒禁止な」
「ばぁい」
やはり掠れた声しか出なかった。張り付いた瞼を何とかこじ開けると、須々木さんの姿がそこにはあった。
「もう十九時ですか?」
そう問いかける私に対して、須々木さんは微笑むと
「何寝ぼけてんだよ」
そう言いながら、おでこにデコピンをかましてきた。
「だって、須々木さんがここにいるから」
おでこを抑えながら返答すると
「……昨日の事覚えてない?」
そう言って私を見つめてきた。
「すいません。日南さんと飲んでいる途中からの記憶が曖昧でして。すいません」
何か失礼な事でもしてしまったのだろうか。しかし、全く身に覚えがない。
「そっか。まぁ、気にしなくていいよ。今日はその、荷物を取りに来ただけだから」
そう言うと須々木さんは優しくキスをし、ゆっくりと立ち上がった。
不意を突かれて思わずドキッとしてしまったが、私はすぐに上体を起こした。
そうだ。伝えなければいけない事がある。
「あ、あの。この間は、その、すいませんでした。ケガ、大丈夫ですか?」
「うん、問題ないよ。じゃぁ、またね」
そう言うと、須々木さんは笑みだけを残して寝室を後にした。
雰囲気、表情、しぐさ、言動。明確な理由はわからない。しかし、去り際の須々木さんを見て違和感が生じたのは確かであった。このまま行かせてはいけない気がする。そんな気がするのだ。私は勢いよく立ち上がると、須々木さんの後を追った。
「私の身勝手な言動で、須々木さんの事を傷つけてしまって申し訳ございませんでした。一緒に居たくなくなるのも当然ですよね。私はきっと、須々木さんの優しさに甘えすぎていたのかもしれません。
もうキスしないなんて言いません。ちゃんと夢を見つけて、人生を謳歌して見せます。あなたがいなくなっても、幸せになって見せます。本当に、本当に頑張りますから。
だから戻ってきてくれませんか。それがだめなら十分、いや五分だけでも滞在時間を増やしていただくだけで結構です。どうか、よろしくお願いします」
靴を履こうとしている須々木さんの背中を見て、そんな言葉たちが考えもなしに自然と口から零れだした。引き留める理由にしては、あまりにも根拠がないし、相も変わらず自分勝手。でも、どうしたってこれが今の私の気持ちだった。
私が須々木さんにできる事は何もない。どんな御託を並べたところで、私が殺してしまうのだからそれは紛れもない事実。
迷惑。わかっているんだよそんな事。だけど、何もできない私だけど、いつか何かを変えるための努力ならできるはずだから。須々木さんのそばでなら、きっと。
「何か、思い出したの?」
須々木さんは振り返るとそう言った。少し驚いているようにも見える。
「思い出す事はできませんでした。でも、これが今の私の本心です」
「……家にいる時のほとんどは、テレビを見るためにソファから動かないよ?」
私が正直に伝えると、数秒の沈黙の後、須々木さんが目線を反らしながらそう言った。
「料理の味は相変わらず微妙だし、その他の家事も要領が悪いままだ。湯船には十分も浸からないくせに、ほぼ毎日張ってしまうし。
一緒にいても、良い事など何もない。ただひたすらに悲しみを蓄積させるだけだ」
須々木さんは、続けざまにそう言った。私は須々木さんに近づくと、須々木さんの両頬を手で包んでゆっくりと動かし、視線を私へと合わせた。
「テレビは好きなだけ見ていいですし、一日中ソファから動かなくても大丈夫です。料理に関しては、須々木さんが勝手に思い込んでいるだけでちゃんと美味しいですし、家事に要領なんて求めていないので、どうでもいいです。湯船は私も浸かっているので、何の心配もいりません。
卑猥な事をしてしまいそうになった私が言えた事ではないのかもしれませんが、私は須々木さんに何か良い事をされたいわけではありません。ただ一緒にいてくれればそれでいい。今まで通りの須々木さんの隣にいたいだけなんです。悲しい思いに関しては、どうしたって感じてしまいますよ。それは離れていても同じ事だと思うんです。だったら最後まで、少しでも長く一緒にいたいんです。だからどうか——」
「わかった。戻るよ」
話を聞いてくれていた須々木さんは、私の言葉を遮るとそう言った。
「本当ですか!!」
「たくさんひどい事言って悪かった。無理やりキスをしたのもごめんね」
嬉しさのあまり浮ついた声を上げた私に対して、須々木さんは静かにそう言った。
「私だってたくさんひどい事をしてしまいました。気にしていないと言えば嘘になりますけど、お互い水に流すっていうのはどうでしょうか?」
「そうだね、ありがとう」
提案に乗ってくれた須々木さんであったが、私に表情を見せようとはしなかった。
「じゃぁ、リビングに戻りましょうか。私何か作りますね」
そう言うと、須々木さんの手を引いて一緒に玄関を後にした。
言葉にするだけなら簡単だ。今後は今まで以上に悲しく、辛い思いに苛まれるのだろう。しかし、今は須々木さんが戻ってきた事に対する感情たちで体中がいっぱいだった。




