雨海敦子12.明確な思い
気づくと家の前に到着していた。私は家に入り、靴を脱ぎ捨てると扉を開けてリビングに入った。よく目にする当たり前の光景なのに、どこか物寂しい。いつもみたいに契約が失敗しただけだというのに、この感情は何なのだろうか。死ぬと確定したからなのだろうか。
私はふとテーブルの上に置いてあったノートを手に取った。ぼやけていて、文字は読めたものではない。どのページも、ろくに見えやしない。
「言ってくれたじゃないですか。どうして……」
視界がクリアになるほど、ノートの文字が滲んでいった。
しばらくして、唐突にスマホが鳴り始めた。目をこすりながらズボンのポケットから取り出すと、画面を見つめた。そこには日南さんという文字が表示されていた。
「もしもし。雨海です」
「ゆう君は元気だよね。大丈夫だよね!?」
声だけでも明らかに動揺しているのがわかった。もしかして、もう知ってしまったのだろうか。あんなに野次馬がいたのだ。拡散されていても不思議ではない。
「ねぇ、聞いてる!? スクイッターで見たの。線路内に侵入した子どもを救うため、男が線路内に侵入し、なんとか救出したものの自身は間に合わずに電車が通過した動画。一瞬映った男の顔が、ゆう君だった気がして。そんなわけないよね? 私の見間違いだよね?」
言葉を詰まらせるだけで何も言えない私に、日南さんは早口でさらに問いかけてきた。しかし、やはり私は何も言えなかった。
「聞こえているでしょ? 何も言わないって事は、そうなの?」
「……すいません」
ようやく言葉を口にすると、数秒の沈黙の後に
「あっちゃんが謝る事じゃないよ。声を荒げてごめんね。一番辛いのは、あっちゃんだもんね」
優しく、しかし震えた声で日南さんはそう言った。
「……だめだ。抑えられそうにないや。また、連絡する。その時は飲みに付き合ってね」
そう言うと、私の返答を待たずに日南さんは通話を終了させた。
時刻は二十三時五十分。時が経つのはこんなにも遅かっただろうか。生きる事はこんなにも辛かっただろうか。私はこれから先、何をどうすればいいのだろうか。答えなど返ってくるはずもないのに、質問をただひたすら空中に向けて投げかけてみる。
……あぁ、そうだった。契約中である須々木さんが亡くなったのだから、私の命もあとわずか。確か最後にキスをしたのは、ユグラネルランドに行く支度をしている最中だったっけ?
あと数時間で死ぬ。死ぬんだ。でも、おかしいな。前にも直面した事がある状況のはずなのに。以前はとても苦悩していたはずなのに。今はもう、別にどうでもいいと思ってしまうなんて。あんなにも嫌だったのに。私、どうして生きたいなんて思っていたんだっけ。
……もう、どうでもいいか。
私は重い腰を上げると、キッチンへと向かい冷蔵庫の扉に手をかけた。水、お茶、オレンジジュース。何だか今はそんな気分ではない。そうだ。聞いた事がある。お酒を飲めば記憶が消えると。何の因果かわからないが、日付が変われば私は二十歳になる。忘れてしまおう、全部。
私は玄関に向かうと、そのままの足で家を出た。コンビニは家から徒歩十分程度。着く頃には二十歳になっているだろう。
白い車の窓をトントンと叩き、開く前に『コンビニ行ってきます』とだけ伝えると、私は歩みを進めた。
早く、少しでも早く。いつの間にか早足になっていた。
「こんな夜更けに、急いでどこ行くの?」
唐突に背後から声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。思わず歩みを止め、勢いよく振り返った。
……須々木さんだ。須々木さんが少々息を切らしながらも、間違いなく目の前に立っていた。
「夜道はあぶねーぞ。付き合うよ」
そう言うと、何食わぬ顔で近づいて来た。私は須々木さんの方へ勢いよく駆け出すと、そのままタックルするかのように抱き着いた。
「どゔじで?」
ぐしゃぐしゃの顔で問いかける私に、須々木さんは優しくキスをした。
「すげー顔」
そう言うと、にこっと笑った。
「家にいないから心配したよ。黒崎さんに聞いても、『聞き取れませんでした』なんて呑気な事言ってくるし。とりあえず、見つかってよかった。契約破棄にでもなったら大変だからね」
須々木さんは、何事もなかったかのように話しかけてきた。
「そんなのどうでもいいですよ。それより大丈夫なんですか。怪我は? 痛みは? 死んでなんか、いないんですよね? 夢なんかじゃないんですよね?」
私は、しがみついたまま顔を見上げて須々木さんの顔を目に焼き付けた。
「大丈夫だよ。こんなに目、腫らしちゃって。せっかくの可愛い顔が台無しじゃないか」
そう言うと、須々木さんは優しく涙を拭ってくれた。
「誰のせいだと思っているんですか」
「そうだね。身勝手な事をして悪かった。心配かけたね。大丈夫。僕はちゃんと生きてる。すべては問題なしだ。だからさ、どうでもいいなんて言わないでくれ」
私が顔をしかめると、須々木さんはそう言って苦笑した。
「走ったら小腹空いたな。もしかしてコンビニ行く予定だった?」
須々木さんはそう言うと、微笑みながら頭を撫でてくれた。
「……はい」
体中が熱を帯びていく。須々木さんを前にして、こんな思いをした事は何度かあった。でも、それが何なのかわからなかったし、深く追求しようとはしてこなかった。しかし今、はっきりとわかった事がある。
私は須々木優大さんの事が何よりも大切で、好いているのだと。




