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雨海敦子7.ゆう君とひなちゃん

 ……まだ眠い。でも、今日は午前中からクレープ屋に行くのだから、ぐずぐずはしていられない。


 私は左目をこすりながら何とか体を起こすと、洗面所へ向かった。顔面に水をこすりつけ、何とか瞼を持ち上げる事に成功した。


 リビングに戻ると、須々木さんの姿はそこにはなかった。おそらく散歩に行っているのだろう。ここ最近は毎日当たり前のようにいない。何でも、朝の澄み切った空気を吸う事が最近のマイブームなのだそうだ。どうせ朝ごはんができる頃には戻ってくる。


 私はエプロンを装着すると、さっそく朝ごはんの準備に取り掛かった。今日はシンプルに目玉焼き。須々木さんは固焼き、私は半熟。それぞれに分けて焼き上げた。


 ちょうどその頃、須々木さんがあくびをしながらリビングに入ってきた。


「洗い物は置いといてー」


 須々木さんは脱衣所へ向かう最中、私にそう言った。


「わかりましたよー」


 私は返事をすると席に着き、自身の目玉焼きに塩コショウを少々振った。須々木さんの目玉焼きには、少し多めに振ってあげた。その方が須々木さんは喜ぶのだ。


 ものの数秒で平らげ、すぐに皿を洗い場に置くとリビングへと向かった。テーブルの上に置いてある可愛らしいイルカの絵が描かれているノートを開き、ボールペンを手に取る。


『出前を取ってみたい』


 私は三ページ目の一番左端に、そう書きこんだ。このノートは水族館に行った際、須々木さんと一緒に買ったものである。


 『やってみたい事、行ってみたい事、興味を持った事。何だっていいからここに書いてみてくれ。その中から、できそうな事を少しずつチャレンジしていこう。埋まり切ったその頃には、何か一つくらい未来につながりそうなものを見つけられるはずだ』


 須々木さんは、そう言ってくれた。今はもうすでに、二ページほどチャレンジ済で埋まっている。


「何にやにやしてるんだよ」


 埋まったページを眺めていると、シャワーからあがった須々木さんがバスタオルで頭をゴシゴシさせながらこちらに歩いてきた。


「なんと私、三ページ目に突入しちゃいました」


 そう言って、先程書き込んだページを見せつけた。


「出前か。それなら今日達成できそうだね。何か食べたいものでもあるの?」


「まだ決めてはいないんですけど、あの……。お金は本当に大丈夫なんでしょうか?」


「何度も言ってるでしょ? 必要時に黒崎さんからお金がもらえるようになったんだ。心配する必要ないよ」


「今までそんな事はなかったので気になるんです。嘘ついていませんよね? 借金とかしていませんよね?」


「借金していたら、呑気に散歩なんて行かないよ。安心してくれ」


 須々木さんはそう言うと、私の頭に左手をポンと乗せた。シャワーから上がりたての須々木さんの手は少し濡れていたのだが、不思議と嫌な気はしなかった。


          




 それから私たちは準備を済ませると車に乗り、デパートへと向かった。『何味を食べようか』なんて何気ない会話を交えながら中へ入り、クレープ屋の前に到着した。平日の昼前だからか、注文している人どころか、その他の飲食店にもほとんど人が見られなかった。


「バナナチョコ一つと、あんみつボンバー一つ。以上で」


 注文は須々木さんがしてくれた。


「九百六十円になりま……」


 対応してくれた女店員が、値段を言う直前でなぜか唐突に固まってしまった。口をあんぐりと開けて須々木さんをただ一点に見つめている。


「もしかして、ゆう君!?」


 お構いなしに須々木さんが千円札を会計台に乗せると、唐突に女店員が声を大にしてそう言った。


「……人違いだと思います」


 須々木さんは、まるで顔を隠すように俯きながらそう言った。


「違うのかなぁ。いや、絶対にそうだよ。ほらっ、覚えていない? 中学一年生の頃同じクラスだった泣き虫のさ!」


 そんな様子の須々木さんを見て、女店員は思い出してほしいのか自身の顔を指さし、全力でアピールをし始めた。


「会計お願いします」


 しかし、須々木さんは俯いたまま小さい声でそう言った。


「牛乳じゃんけんは毎回参戦。食べ物を残す事が嫌いで、いつも私の嫌いな人参をこっそり食べてくれた。体育が得意だけど、算数が苦手。休み時間は決まって私の相手をしてくれた。教科書を忘れた日には——」


「まてっ、まてまてまて。わかった。もうやめてくれ。降参だ。異性で僕をゆう君って呼ぶのは一人しかいない。その時点で、ひなちゃんだってわかったよ」


 須々木さんは顔を上げると、唐突に始まった女店員のエピソードトークを無理やり断ち切った。


「じゃぁなんで知らない振りしたのさ!」


 須々木さんがひなちゃんと呼んだ女店員は、両手をぶんぶん振りながら須々木さんを怒鳴りつけた。


「こっちの問題。ひなちゃんが気にする事じゃないよ。っていうか昔の事よく覚えてるね。そんな細かいところまで。正直引く」


「久しぶりに会ってそんな態度はないでしょ? 私にとっては大切な思い出なんだから。急にいなくなっちゃったし、連絡も取れないしで心配してたんだよ?」


「……大丈夫。心配ないよ」


 そう言うと、須々木さんは笑顔を作った。


「それよりさ、後ろ列できているんだけどどうする?」


「……はっ! まずい。すぐにさばかなきゃ!」


 ひなちゃんさんは須々木さんを見つめて数秒固まっていたが、千円札を素早く受け取ると、おつりとレシートを須々木さんの手にねじ込んだ。


「横にずれてお待ちください。お次のお客様どうぞ!」


 声高らかに、ひなちゃんさんは次の客を呼び込んだ。


 私は結局、会話に入る事ができず、少し離れた距離でただ様子を見ている事しかできなかった。


 その後、須々木さんがクレープを受け取ってくれ、近くのベンチに腰掛けて食べる事になった。待ち時間の間、須々木さんは一言も発さなかった。


「あ、あの。さっきの方、とても美人さんでしたね」


 触れられたくない事なのだろうか。今の須々木さんは少しいつもと雰囲気が違うような気がするのだが、あえて話題をふってみる事にした。


「昔はあんな感じじゃなかったんだけどな。時が経つって、やっぱすごい事なんだな」


 須々木さんは案外すんなりと返答してくれた。


「どうして知らないふり、したんですか?」


 私はそのままの勢いで質問をした。


「その方がお互い楽な気がしたんだ。結局失敗しちゃったけど」


 そう言うと、須々木さんは苦笑した。


 ……そうか。私、いけない質問をしてしまった。途端に胸が締め付けられるのを感じた。


「それ、一口ちょーだい」


 言葉を詰まらせた私に気付いたのか、須々木さんは私のクレープにかぶりつくと


「バナナって最強だよな。何に入っていても美味しい」


そう言いながら再び笑顔を作った。


 この人はどこまでお人よしなんだ。そう思ったと同時に、なんだか胸に違和感が生じた。先程とは似ているけれど、少し違う気もする。答えなど出るはずもなく、私はクレープをかじる事しかできなかった。






「おーい、まって、待ってよ!」


 二人とも完食し、デパートを出ようとした時、背後からひなちゃんさんの声が聞こえてきた。


「紙、紙見たでしょ? 何で帰ろうとしているのさ!」


 振り返ると、走ってきたのかひなちゃんさんが息を切らして膝に手を付けている。合間を縫ってきたのか、クレープ屋の制服のままだった。


「これの事?」


 須々木さんは、ポケットからレシートを取り出して見せた。


「そう! ちゃんと裏に書いてあるでしょ? もうすぐ休憩入るので、少しお話しませんかって」


「この後、用事があるんだ。だからごめん」


 須々木さんがそう言うと、ひなちゃんさんは顔を上げた。その瞬間、私と目がばっちりあってしまった。ひなちゃんさんはすぐに須々木さんの方を見ると、再度私の方を見た。


「もしかして付き合っているんですか?」


 キラキラした目で私にそう尋ねてきた。


「い、いや、あの……」


 付き合ってはいない。しかし、関係は複雑だ。どう答えようか迷っていると、


「うん。僕の彼女」


そう言って須々木さんは私の肩に腕を回した。私はすぐに須々木さんの顔を見たが、冗談を言っている表情には見えなかった。


「そ、それは申し訳ない事したね。邪魔してごめんごめん」


 ひなちゃんさんは、手のひらを合わせると顔の前で上下させた。


「行こう」


 そう言って須々木さんは私ごと方向を百八十度回転させたが、ひなちゃんさんは私の腕を掴むと、


「彼女さん。連絡先教えてよ」


そう言った。須々木さんの表情に変化は見られなかった。無視をするのは容易いのだが、ひなちゃんさんの気持ちを考えると無下にはできない。それに……。


「いいですよ」


 私は振り返るとスマホを取り出し、連絡先を交換した。その後すぐにデパートを出て、そのまま家に帰宅した。帰らなければならない用事など本当はない。しかし、帰りたいという須々木さんの思いを容易に汲み取る事はできた。


 須々木さんは車に乗る直前に『ごめん』とだけ言うと、その後は家に着いてからもしばらく口を開く事はなかった。

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