須々木優大9.生きる理由
あれから三週間が経過した。家事は役割を分担する事になった。僕はトイレ掃除、風呂掃除、皿洗いに週二回の料理を担当している。雨海さんの指導のおかげで料理も当初に比べたらだいぶ上達した。一人で作ってみてと言われる事もあるが、どんなに美味しくなくても完食してくれるので、とても作り甲斐があった。しかし、気になる事が一つ。
「さっきから、何回キッチンとリビングを行ったり来たりしているの?」
「いや、あの、ごみが落ちていないかをですね、確認していてですね」
「ないよ。大丈夫だ」
「じ、じゃぁ私買い出しを……」
「さっき行ったでしょ?」
「お、お風呂掃除を……!!」
「それはさっき僕が終わらせた」
「……うぅ」
この調子なのだ。
今すべき家事は、もうすべて終わっている。各々自由時間であるはずなのだが、雨海さんはそわそわするだけで、一向に何もやろうとしない。今まで時間を持て余す事がなかったのだから、何をすればいいのか困惑する気持ちもわかるのだが、これではいつまで経っても前には進めない。
「何か趣味はないの?」
「……特には」
「じゃぁやりたい事は?」
「……特にないです」
「行きたいところは?」
「……ないです」
あまりにも無欲すぎる。いや、すべてにおいて関心がないと言った方が正しいだろうか。
「じゃぁ、契約が終了したらその先はどうするつもりなの? この生活が永遠に続くわけじゃないんだぞ? 生きたいって言う以上は何か理由があるんじゃないの?」
「死にたくないから生きたい。私の理由はこれだけです」
僕はその返答に少しイラっとした。
「……今から失礼な質問する。じゃぁどうして死のうとしたんだ」
雨海さんは僕の隣に腰掛けると、口を開いた。
「父親は母親に、母親は私によく暴力をふるいました。物心がついた時にはもう、毎日のように殴られたり、蹴られたりしました。辛かった。苦しかった。でもそれが当たり前だと思っていました。
六歳になって、初めて家の外に出る事を許されました。視界に入った笑顔あふれる家族を見た途端、私の知る当たり前が、当たり前じゃないのだと絶望しました。
小学六年生になった頃には、母親の知り合いが経営している夜のお店で働かされました。毎日休みなく、代わる代わるに知らない男の人の性器を握らされました。それでも暴力は止まりませんでした。中学生になって、夜のお店で求められる事が多くなって、怖くて私はただ従う事しかできませんでした。でも汚れたお札を握りしめて帰ってきた時だけは二人とも喜んでくれたから、私はその後も無心で体を委ねました。中学は無事卒業できましたが、高校には通わせてもらえませんでした。ただひたすらに、否が応にも上達した技を男たちに奉仕し続けました。
それから数年経って、いつものようにお店に向かっていると、知らない男性に話しかけられました。『人生に疲れていませんか』と。私は気づくと首を縦に振っていました。
死のうとした理由。それはきっと現状を変えたかったから。その手段がたまたま自殺だった。ただ、それだけの理由です」
僕は語ってくれたその過去に、どう言葉を返したらいいかわからなかった。
辛かったね。苦しかったね。
そんな言葉だけで、まとめていいはずがないのだから。
「私が弱かっただけですから」
そう言うと、そっと涙を拭ってくれた。それまで自身が涙で頬を濡らしている事に気付かなかった。
「それだけ辛い思いをして、一度死を選択したのにも関わらず、生きる道を再び歩もうと思える君が弱いわけないじゃないか。すごく立派な事だと思う」
「立派だなんてとんでもないです。自分勝手なだけですよ」
「どういう事?」
「一緒に王食菌を服用人たちが、私の目の前で血を吐いて死にました。その時は、どうして私は死ねないんだろう。早く楽になりたい。そんな事を思っていました。しかし、結局死ぬ事はありませんでした。前例がなく、原因を解明するまで時間がかかるとの事だったので検査を受けた後、一度家に帰りました。家の中は異臭が漂っていて、リビングには両親の死体が転がっていました。母が父を刺し殺し、母も後を追うように死んだんだそうです。あまりにも唐突でした。しかし、あんなに疎ましかった、私を自殺へと追い込んだ人間たちがいとも簡単に死んだ。おかげで私は解放された。もうこれ以上辛い思いをしなくて済む。それなのに、そんな現状を素直に喜ぶ事ができない自分がいました。解放された喜びよりも、気づけば逃げる選択肢をとっていた己の情けなさ、結局何もできなかった悔しさの方が大きかったからなのかもしれません。
あんなに辛かったのに。あんなに苦しかったのに。怒り、嫌悪、憎悪。秘めた私の感情たちは行き場を失ってしまいました。それは仮に私が死んでいたとしても同じ結果であると気づいた時、負の感情は増していく一方でした。
数日後、施設の人から連絡がきました。菌に耐性はあるが、このままいけば確実に死ぬ事。契約を果たす事ができれば生きられる事を教えてもらいました。できる事なら私だって生きたい。だけど、全うな生き方なんて教わっていない。地位も学もスキルも美も何もない。そんな私に社会はどうせ冷たいのだから、今まで通り媚びて奉仕する事でしか生きていけないのは明白。だったらもう、死んだほうが幾分まし。分かっているんですよ。他人の弱みに付け込んで、苦痛を増幅させ、命を搾取して。最低だって事も分かっているんです。一度己の意思で死を選択したくせに他人を巻き込む権利などない。他人の人生を終わらせていいはずがない。分かっているんですよ。それでも、辛く苦しく悔しかった日々が、溢れて止まらないこの感情たちが報われる日を渇望してしまうんです。生きて生きて生き抜いて、私が抱いた感情くらい、私自身の力でけじめをつけたい。そしていつの日か、幸せと言う事象を肌で感じてみたい。そう思ったんです。
ですが、やっぱり現実は甘くないですね。自分のために生きろ、自由に生きろ。あなたはそう言ってくれました。嬉しかったですよ。でも私は自分のためには生きてこられなかったから、今更どうすればいいのかわからないんです。気持ちばかりが先行して、肝心の体が前に進んでいかないんです。ごめんなさい。暗い話になっちゃいました」
そう言うと、雨海さんは苦笑を浮かべた。
「趣味もやりたい事も行きたいとこも、何もないならこれから探せばいい。必ず君が心躍るものはあるはずだから。わからないなら聞けばいい。誰かを頼ればいい。一人じゃどうにもならない事なんて、この世にはありふれているんだから。僕が力になるよ。だから一緒に見つけていこう」
くさいセリフを言っている事は自分でもわかっていた。それでも口に出して、雨海さんに伝えたいと心から思った。
「命を奪ううえに、そんな事までしていただく必要はありません」
「約束、忘れたわけじゃないでしょ?」
「もちろんです。ですが……」
「じゃぁ決まりだ」
申し訳なさそうにしている雨海さんに、拒否権は与えなかった。
「私はあなたみたいな強引で、だけどお人よしな方に出会った事がありません。改めて、これからもよろしくお願いします」
「あぁ。よろしく」
僕は微笑を浮かべる雨海さんに対して、大きく頷いて見せた。
その後、僕たちは採血をされるために家を出た。三日に一回、僕たちの健康状態を把握するために奴らが実施しているものだ。黒崎は慣れた手付きで僕たちの血を抜き取った。その間、注射による痛みは相変らず感じられなかった。
採血終了後、黒崎さんに用があると伝えて雨海さんを先に帰宅させた。
「どのようなご用件でしょうか」
なかなか喋りださない僕に痺れを切らしたのか、先に口を開いたのは黒崎であった。
覚悟はもうできている。僕は一つ大きな深呼吸をすると、口を開いた。
それから数日後、僕たちは水族館や動物園、野球観戦やそば作り体験など様々なジャンルの計画を立てては行動に移した。何か興味を示すものがあればと思っていたが、ひとまずどれも目をキラっキラ輝かせて楽しそうにしていたので、出だしは悪くないだろう。幸いまだ時間はある。何も焦る必要はないのだから。
最初は『お任せします』なんて言っていた雨海さんであったが、少しずつ行きたい場所、やりたい事を口に出すようになった。『パフェを食べてみたい』『恋愛映画を見てみたい』など、どれも可愛らしいものばかりであったが、確実に前進する事はできている。いい傾向だ。しかし、一番重要な問題はまだ解決の糸口も見いだせていないままだ。
僕は小さくため息をつくと、置時計を眺めた。時刻は二十三時。
……今日も無事に一日が終わる。
気づけばもう七月上旬。明日は雨海さんとクレープ屋に行く事になっている。雨海さんは明日が待ち遠しいのか、随分前から眠りについていた。
僕も一度、眠らなければ。ひどく重い体に何度も鞭を打ち、ソファから立ち上がると家を出た。車の前まで行き、窓を小突く。窓が開くと、黒崎が顔を出した。
「頼む」
短くそう伝えると、僕はその場に崩れ落ちた。




