須々木優大1.死にたい僕と、生きたい女性
もう数時間前から追手が来ている気配はない。逃げる先を最怖山にしたのはどうやら正解だったようだ。僕はとうの昔に感覚がない足にそれでもムチをうち、ろくに整備などされていない急な斜面を登った。
最怖山という山は昔、噴火が多かった事で有名だったらしく、誰も近づきたくないという意味合いからその名がつけられたのだと言う。噴火が収まった後も誰も近づこうとしないという理由から自殺の名スポットとなり、その名を世に轟かせている。
この山であれば死体が一つ増えたところで何も問題はないだろう。今さら追いついてきたってその場で身を投げ出せばいい。様式美として山頂を目指してはいるが、死ぬ事ができるのであれば正直どこだっていいのだから。
そんなことを考えつつ、やっとの思いで僕は山頂に足を踏み入れた。
これですべてが終わる。そう、信じて。
「あの、すいません!」
唐突に知らない声が僕の体を駆け抜けた。
「うわぁぁ!!」
先客がいたのか。思わず漫画のようなオーバーなリアクションをとってしまった。
「自殺しに来たんですか?」
身構えながらも声がする方を向くと、そこには制服を着た長髪の女性が立っていた。女性は僕のもとへと駆けつけると、目をキラキラ輝かせてこちらを見つめてきた。なぜか嬉しそうだ。
こう言ってはなんだが、不謹慎である。
「それ以外にここへ来る意味はないよ」
僕は一定の距離を保ちつつ返答した。
「どうせ死ぬのでしたら、最後に人助けしてみませんか? 私は生きたいんです」
先程とは一変して、真剣な眼差しで女性はそう言った。
生きているやつのセリフではないだろ。そう言ってやりたい衝動を必死に抑えながら僕は極力関わらない事に決めた。なぜなら、人のためになれる余裕も力も僕にはないのだから。それに、この女性が追手の仲間である可能性だって拭い切れない。
「僕は今すぐに死にたいんだ。他をあたってくれ」
そう吐き捨てると女性の横を通り過ぎ、看板が立っている場所へと足を運んだ。看板には『人生は一度きりです。もう一度だけ考えてみませんか』と書かれてあった。
情報通りだ。この看板の先にある斜面は先程登ってきた所よりも明らかに急である。ここから身を投げ出せば確実に死ねて、死体はぐちゃぐちゃになり身元も分からなくなるだろう。
「強制はしたくないのですが、時間がもうないんです。あなたが最後の希望なんです」
女性は僕のもとへ再度駆けつけると、服の袖を掴んでそう言った。
「……何を言ったって僕の意思は変わらない」
「私ができる事ならなんだってしますから。だからどうか——」
「他をあたってくれ」
女性の言葉を遮りそう言うと、僕は掴んできた手を振り払った。
「……そうですか」
女性は俯くと、静かに腕時計を見つめた。
「……もう五分もない。夢、希望、未来。輝かしいものは常に手中にあって、いつだって可能性は無限大。人生を謳歌できる権利を得ときながら自らすべてを投げ捨てて、命を絶とうとするなんてもったいない。本気で生きたいと思っている人にとっては侮辱行為。そうは思いませんか?」
唐突に淡々と話しだす女性。僕に問いかけてきたその言葉は地面に深く突き刺さった。
「……腹いせかよ」
気づくと僕は口に出していた。
「そうかもしれません。私は自ら命を絶つ手段に縋る事しかできなかった弱い人間が大嫌いですから。ですが、あなたはまだ変わる事ができる。余計なお世話かもしれませんが、これで少しは考え直してみてくださいね」
「何言って——」
女性は僕の右側に立つと、唐突に身を投げ出した。
気づくと僕は女性の腕を掴んでいた。その衝撃で女性は岩壁にぶつかったが、何とか落下を防ぐ事ができた。
放っておけばよかったのかもしれない。しかし、直前に見えた横顔がこれから自殺しようとする表情にはどうしても見えなかった。
「何してるんだよ!」
「あなたこそ何をしているんですか? もう私は——」
「先に死なれちゃ後味悪いんだよ。死にたきゃ僕の後にしてくれよ!」
「いつ死んだって私の自由じゃないですか。手を放してください!」
「自殺は本気で生きたい人への侮辱行為なんでしょ? わかっていながらそれでも自殺しようとする君を見殺しにはできないよ。そこまで性根は腐っていないつもりだから」
女性は俯くと、これ以上何も言い返してはこなかった。僕はおとなしくなった女性を力いっぱい引き上げた。力に自信はなかったが、意外にあっさりと引き上げる事ができた。
「あーあ。大事にしていた時計にひびが入っちゃいました」
女性は座り込んだまま再び腕時計を見てそう言った。よほど怖かったのか、声だけでなく全身まで震えている。強がる必要などないだろうに。
「死ぬよりはましなんじゃないのか?」
「そうかもしれないですね」
その後は会話が途絶え、数秒間の沈黙が続いた。
「やっぱり私——」
「生きたいんじゃなかったの?」
看板の方を見ながら口を開いた女性の言葉を遮り僕は続けた。
「それなのに自殺しようとするのは矛盾している。もしかして病気か何かで余命が決まっているとか?」
「……まぁ、そんな感じです」
女性はどこか上の空で、何やらすべてを諦めているかのようなそんな様子である。
「僕が最後の希望ってどういう事?」
「あなたが私と契約をすれば、私は生きられる可能性が生まれるんです。契約が果たされればあなたは死んでしまいますが」
女性は遠くを見つめながらそう淡々と説明した。
「それは都合がいいな。本当に死ぬ事ができるんだね?」
「……もしかして私と契約をする気になりました!?」
僕がそう問いかけると、女性は水を得た魚のような目でこちらを見た。
「そうでもしないとまた勝手に自殺しようとするでしょ? まるで僕が殺したみたいになるし、何度も言うけど後味が悪いから。それで契約ってどうすればい——」
女性は僕が言い切るのを待たないまま勢いよく近づくと、僕の唇に唇を重ねた。思いもよらない一瞬の出来事で、何が起きたのかわからなかった。
「な、な、なんだよ、き、急に!?」
僕は何とか我に返ると女性を引き剥がし、無意識に後ずさりした。女性は僕の事など気にも留めずにすぐさま腕時計を見つめると、露骨に安堵な表情を浮かべた。
「間に合った。よかった」
そして、噛みしめるようにそう呟いた。