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蘭の花、異世界に招かる 天朝国奇譚  作者: 小野田青夜
第二章 佳人たちの宮裏
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第十六話 見えない敵

「なるほど、朝からそんな面白いことが起きていたとは」


 前言の通りその日のうちに蘭子の室を訪ねてきた道紀は大体の事情を聞くや、全員の顔を一瞥しておかしそうに笑った。この場で一番官位が高いからか、もともとの性格か、席に脚を崩して誰よりも寛いでいる。

「笑い事じゃありません。ほんとに何なんですかこの人酷すぎます」

 着の身着のままの蘭子が腹に据えかねた様子で仁勇を指さした。指弾された彼はといえば、こちらも不愉快を隠せない顔で、何者かによって割られた窓に布を張って黙々と応急の修繕をしている。


公子(わかさま)がここに顔を出した瞬間、何て言ったと思います?『よくも騙したな、恥知らず』ですよ!?」

 宿を貸してくれた好青年との再会に驚きの覚めやらぬ中、唐突に頭から浴びせられた罵声に、蘭子は初め何を責められているのか理解できなかった。ようやくそういえば彼には呂太皇太后の親族だと明かしていなかったことを思い出したものの、それが蘭子の言い分など何一つ聞く耳を持たないほど彼の態度を一変させるとは。


「公子は止めろ。呂氏の女に馴れ馴れしく公子と呼ばれる筋合いはない」

「悪かったですね、呂氏で!公子でなかったら何て呼べと?」

「普通に呼べ、官名で!」

「あなたの官職なんてまだ聞いてないのに知るわけないでしょ!」

「…仁勇でいい」


 未明の刺客襲撃に比べればいっそ平和な応酬に、道紀は苦笑しつつ密かに瞠目した。仁勇相手にここまで言い放つ女性は珍しい。同意を求めて傍らに控える見目麗しい宦官に視線を遣ったが、こちらも普段の隙の無い言動と裏腹に、持て余した様子を隠せていない。

「全く…」

 また込み上げてくる笑いを抑えて、道紀は片手を上げて不毛な口論を中止させた。思ったより二人とも元気そうだ。


「怖い目に遭ったのでしょうに、気にしているのはそこですか。ところでその衣は…」

 途端に、蘭子は昨日と同じ服装のまま居心地悪く目を逸らす。用意してくれた宮廷用の礼装は牀台の上に積まれたままだ。するとどことなく憮然とした陽阿が答えた。


「…私はお召し替えを手伝うと申し上げたのですが」

「結構です。宦官といえども元男には違いないんですから」

 そう啖呵を切った僅か数分後に、早くも蘭子は後悔する破目になったのだった。宮廷の女性たちが身に纏う襦裙(じゅくん)という衣裳は構造がやたら複雑で、帯の結び方、襟の出し方、紐の長さまで細かい規定が目白押し、独力では一日掛かっても着れない代物であった。


――うう、いろいろ失敗したかも…。


 滑らかな手触りの帯を恨めしげに見つめ、蘭子は自分の強情が過ぎたのを今さらに悔やんだ。仁勇も陽阿も、当面こちらで暮らす上で助けになってもらわなくてはならない人たちなのだ。いくら不意打ちでナイフが部屋に飛び込んできたからって、ここまで喧嘩腰にならなくてもよかったはずだ。


 悄然と沈み込んだ蘭子に、道紀が救いの手を伸べた。

「そんなこともあろうかと、宮女を新たに一人連れてきましたよ」


 その知らせに、割れた窓の修繕を監ていた陽阿が反応した。秀麗な目元に当惑を滲ませ、世話係を任された宦官は道紀の思惑を探るように諫める。

「陸侍中、分を越えた人事をなさっては困ります。傍仕えは慎重に選ばなくては」

「陛下のお許しは得ています。呂小姐も見知った者が傍にいた方が落ち着くでしょう。…鄧采女(とうさいじょ)、こちらへ」


 待ちかねたように、軽やかな足取りで入ってきた十五、六の少女の顔を見て、蘭子は目を丸くした。

「媚娘!?」

「小姐、お互い無事で良かったですね」

 間違いなく昨日曹家の別邸で別れた鄧媚娘だ。いつの間に女官になっているのか。


「相変わらずざっくりした御髪ですね…せっかく綺麗な簪も歩揺も使い放題なのにもったいない」

 そういう媚娘は、質素な宮女のお仕着せをあか抜けたお洒落な感じにばっちり着こなしている。

「あなた、後宮は嫌だったんじゃないの?」

 確か、実家の意向で皇帝の後宮に勤めさせられるのに反発し、都まで美青年を探しに来たのではなかったか。媚娘はちらりと道紀に視線を遣ると、困ったような顔で弁明した。


「あぁ…まあ目的も無く親の思惑で放り込まれるのは嫌でしたけど、今は小姐が居ますし。ええと、黎さんも帰っちゃいましたし…こういう展開は自分でも全然予想してなかったですけど…親切な人が後ろ盾になってくれまして」


 知り合いですか、という目つきをした陽阿に、どう説明しようか迷っていると、道紀がにこやかに後を引き取った。

「彼女の身分はこちらで保証できますよ。鄧家と同じく、陸家の本貫も南陽郡ですから。経験の長い宮女はどうしてもこれまでのしがらみを持っていて、背後に誰が居るやら見当も付かないのでは?ならばいっそ、全くの新入りから選ぶのが理に適っていると思いませんか」

「仰ることは理解できますが」

「あの、私からもお願いします。媚娘が居てくれれば心強いです」

「…呂小姐のご希望でしたら」

 陽阿はまだ疑いを残したようだったが、ひとまず受け入れることは承諾した。

 蘭子は正直ほっとした。顔見知りが居ると居ないとでは気分が全然違う。知り合ってひと月足らずとはいえ、媚娘の屈託のない明るさは好ましかったし、少なくとも蘭子より都の事情にも通じている。話し相手になってくれるだけで有り難い。


「…では、鄧采女。ひとまず小姐の身支度を」

「了解です。それじゃ小姐、隣の室で襦裙に着替えましょう」

 新米宮女は怯む様子も無く、蘭子の手を引いて緞帳のように厚いカーテンの向こうに連れて行った。蘭子は襦裙を手に取って思わず溜息を吐いた。淡い桃花色に花菱の文様を織り込んだ上衣は明るい菜の花色の襟。裾にかけて萌黄色から翠緑へと転じていく裳は光の加減で精緻な亀甲模様が浮き上がる。美しさは文句なしだが…。

「ね、これ、着方解る…?やってみたけど私はさっぱり」

「任せといてください。昔さんざん覚えさせられましたから」

 言葉に違わず、媚娘の着付けは完璧だった。蘭子はただじっとして姿鏡(すがたみ)を見ているだけで終わった。


「いかがですか、李常侍」

 頭からつま先まで眺めやり、陽阿は満足した様子で少しだけ表情を和らげた。

「…言うことはありません。采女にしておくのが惜しい技ですね。良人(りょうじん)でもここまで習熟している者は多くない」


 蘭子は褒められた少女に小声で尋ねた。

「采女とか良人って、宮女の地位の名前?」

「そうですよ。采女は一番下っ端で、上位の宮女の指示でいろいろ雑用するんです」


 一つ上に昇ると良人、さらに上を才人(さいじん)あるいは美人(びじん)という。宮女の多くは十二歳から十五歳くらいで入宮し、早ければ二十歳前後に才人か美人に任じられるらしい。


「美人や才人になれば、皇上や皇后様をはじめとしたお妃さまの目に留まる機会も増えるので、ご寵愛を賜ることもあるみたいですよ」

「宮女でも?」

「宮女でも気に入られて身ごもれば、侍妾(じしょう)に格上げされます。…良いことかどうかは、判りかねますが」

 陽阿が説明を継ぎ足した。少し苦々しげだったのは、気のせいだろうか。


「二十五歳になると挙試を受けて、合格すれば夫人(ふじん)に昇進できます。年長の宮女はほぼこれですね。夫人になると少しは湯沐邑(とうもくゆう)も貰えますし、結婚してる人も多いんですよ。さらに上の貴人(きじん)まで昇れるのは夫人の中でもほんの一握りで」

「…ちょっと待って。宮女も寵愛を受けられるのに、結婚が許されてるの?」

 それは帝室の血統の維持という点でまずくないだろうか。眉を顰めた蘭子に、陽阿が適切な説明を入れる。

「誤解なさいませんよう。夫人と貴人は夜伽の対象に選ばれませんし、たとえ孕んでも皇上のお子と見なされることはありません。従って、美人以下と異なり、夫を持つことも特に禁じられていません」

 つまり、宮女からお妃さまを目指す者は夫人に昇格する前、二十五歳が上限ということだ。美人・才人以下の宮女がどれほど居るのか知らないが、皇后や妃嬪侍妾に加えてさらにそれだけの少女たちが夢と野望に心をときめかせているのだろうか。


「試験があるということは、皆が皆夫人に上がれるわけじゃないんだよね?」

「そうですねぇ、鄧家(うち)みたいな田舎の豪族や都の下級官人の娘だと、縁談の条件を良くするために後宮勤めの経歴が欲しい人も居ますし。そういう人は婚期逃す前に辞めていくみたいです。後宮に伝手を持つ(つま)はどこでも人気高いですよ」

「へぇ…」

「特に要領がいいと、内廷勤めの郎官(ろうかん)とか、有望そうな若手と恋仲になることだって…」


「鄧采女」


 道紀の声は大きくも荒々しくもなかったが、炎を消し去る冷水のように有無を言わさない力があった。

「おしゃべりが過ぎるよ。李常侍に叱られる前に自制するようにね」

 その声音の冷ややかさに、自分に向けられたわけではないのに蘭子は内心震え上がった。

――り、陸侍中って時々こういう怖さがあるよね…。


 媚娘も渋々ながらちゃんと口をつぐみ、洗濯物を抱えて室の外に出て行った。それを見るともなく見て、道紀は陽阿を振り返った。


「…さて。今朝の襲撃の手掛かりを見せていただけますか」


 一言で、夜明け前のあの緊張感が再び甦った。ぴりりとした空気の中、美貌の宦官はあと少しで蘭子の命を奪うところだった凶器を示した。険しい目で観察した道紀は一呼吸おいて首をかしげる。

「…さすがにこれだけでは持ち主の特定はできないな。窓の上部、やや左寄りを破って、そしてここに刺さった、と」

 しゃがんで足元の床を調べている道紀の背に、蘭子は恐る恐る問いかけた。


「私のことを、殺そうとしたんでしょうか」

 危険なことも有るかもな、くらいは思っていたが。まさか宮殿に入って一日経たずに殺されかけるとは予想もしていなかった。聡明な皇帝の側近はそれには答えず、ただじっと刃と床板の割れ目を見比べ、微かに身じろぎした。

 代わりに陽阿が柳眉をしかめて私見を述べた。


「…そうだとすれば、相手はかなり情報が早いですね。未央宮でも後宮でも小姐の招聘を知っている者は限られているのに、一晩で掌客殿のこの一角を突き止め、刺客を送り込めるなど尋常ではない」

 速やかに皇上にご報告すべきでは、と切り出す陽阿を振り返り、道紀が落ち着いた声で反駁した。


「逆に考えることもできますよ。本当に呂小姐の命を奪う気であれば、君や曹散騎郎が来て守る体制が整ってしまう前が最も容易い。すんでのところで相手は好機を逸した」

 道紀は穴の開いた床板を指し示して言った。


「それに、床を見て気づきませんでしたか?この鏢には毒が無い」

「毒…!?」

 青くなった蘭子を尻目に、小柄な宦官は床を観察して微かに頷く。


「言われてみれば、傷が付いたのみで変色や腐蝕がありませんね…。鏢は通常、刃に毒を塗ったり、毒薬で焼きを入れてあったりするものですが」

 恐ろしい発言に寒気がしてきた。そういえば、始皇帝暗殺未遂に使われた匕首(あいくち)は糸筋ほどの傷を付けただけで相手に致命傷を与える危険物だったような。


「遠距離から正確にこの室の窓を狙って投擲する技量の刺客に殺意があれば、わざわざ毒の無い鏢を使う理由がありません。中途半端な襲撃を行えば今後の警護が厳しくなるのは解りきった話ですから、暗殺が目的にしては今回は随分と無計画に見えますよ」


「ならば警告でしょう」

 窓辺に立っていた仁勇が吐き捨てるように言った。ガラスに代わって薄い紈素(ねりぎぬ)で塞がれた隙間は朧な光を通し、逆光で彼の表情は見えにくかった。


「その女は呂氏だ。呂氏を怨む者は宮殿の中にいくらでも居る。皇上の賓客に危害を加えることは許されないが、僅かでも心胆を寒からしめれば溜飲が下がるだろう」


 誰にともなく独り()ちた一言が耳に届いた途端、蘭子は驚きと怒りと悲しみが複雑に混ざり合った激情で身体がいっぱいになるのを感じた。先日蘭子の窮地を助けてくれた情の深さなどまるで無かったように淡々としたその物言いは、むしろ刺客の側の心情に理解を示しているように聞こえた。お前はひどい目に遭って当然だ、と。


――ふざけんじゃないわよ。私が、いったい、何をしたって言うの。


 蘭子は(ふる)える拳を握りしめて立ち上がり、ずかずかと仁勇の前へ行くと、ぎっと睨みつけた。朝からずっと、彼が自分に向ける嫌悪は度を越していないか。仮にも恩人であるから堪えようと思っていたが、とうとう堪忍袋の緒が切れた。


「…そんなことをする人は、恥ずかしくないの?」

「何だと?」

 慍然とした蘭子を鋭く見下ろしてくる双眸にも怯んでなどいられない。二人を制止しようと動いた陽阿を道紀がさりげなく阻んだのも視界の外であった。


「怨むなら、悪いことをした人だけを怨めばいい。当事者同士で解決しなさいよ。同じ一族ってだけで責められる筋合いはないわ」

 顔も知らない、可愛がってもらった覚えもない親兄弟への恨みつらみで命を狙われて、それを仕方ないと思える感覚は蘭子には無い。一方、仁勇は何が気に障ったのか、眦を裂いて怒り出した。


「恥を知らないのはお前の方だ。人たるもの、生まれてこのかた背負うべき家名がある。己の名誉は一族の誉れ、一門の罪は己の咎となるのは当然だろ!」

「そうやって身内まで責任を広げるから、族滅なんて野蛮なことが平気でまかり通るのよ!」


 黙って聞いていた道紀の顔色が変わった。同じく蒼白になった陽阿に素早く目配せする。


「曹散騎郎。刺客の姿は確認しましたか」

 玉が鳴るような美声がそれ以上の口論を遮るようにぴしゃりと話題を変えた。聞かれた仁勇は幾分冷静さを取り戻した後、首を横に振った。

「いいえ。窓が割れる音が聞こえたので、任務の方を優先しました」

 あの段階では仁勇は陽阿が来ていることを知らなかったので、犯人を捕らえることより護衛対象のもとへ駆けつけることが先だった。もし屋外の刺客が囮だったら追いかけていては取り返しがつかない。


 道紀がおもむろに立ち上がり、憤りのやり場を失った蘭子の手を取って席へ戻るよう促した。続いて仁勇の顔をまっすぐに見て尋ねる。


「昨夜、皇上が仰せになった言葉を覚えているね?」

 数拍の間を経て、護衛を任された武官は口を開いた。

「任務に俺の私情を挟むなというご聖慮ですか」

「そう。今回の事件、君の失態でもあるよ。勅命を賜った瞬間から君には呂小姐を守る義務がある。必ず守れとは、どんな状況に於いても守れということだ。その重みを忘れれば、皇上のご期待に背き、曹家の名にも傷がつく」


 精悍な(おもて)に、内心の葛藤がありありと浮かんだ。仁勇は何か言わんとしたが、寸前で感情を鎮めて平静を繕う。

「…窓はひとまずこれで凌げます。俺は向こうで警備の見直しと配置を」

 そっけなく、だが最低限の礼儀だけは維持した一礼を残して、仁勇は蘭子の方を見もせずにさっさと室を出て行った。


「何ですかあれ」

 仁勇と入れ替わりに戻ってきた媚娘がむっとした顔で戸口を睨む。暗に彼が警護をしていて大丈夫なのかと言わんとしたのだ。蘭子も同感である。


「…陸侍中が彼をここの警護に?」

「いえ、皇上のご判断です。けれど彼は呂氏と同じくらい曲がったことが嫌いですから、誰かに買収される心配はまずありません。責任感は人一倍ですし、あれだけ言っておけば充分仕事をしてくれますよ」


 それはそうかもしれない。だが、彼の中で蘭子(じぶん)は不正と同じくらい嫌われているのだと思うと気が重くなった。味方やか弱い者には誠実で懐が広いが敵視する者には容赦のない性格なのだということは、道紀に言われなくても先日のやり取りからある程度推測は付いた。最初の印象が良かっただけに、彼の態度の激変は否応なく蘭子を落ち込ませた。


――これからしばらく、顔を合わせるたびに何か言われそう…。

 軽く頭を振って気鬱を払い、蘭子は気持ちを切り替えようと正式に傍仕えになった少女に話しかけた。


「媚娘。今度から一緒にご飯食べない?食事の時に一人寂しく食べるのって何か落ち着かない…」

「もちろんですよ。陸侍中(このひと)からきつく言われてますもん。小姐の口に入る物は必ずあたしが毒見するようにって。…というか、それが推挙の条件で」

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