第十五話 麗しき宦官
皇帝と事務的な幾つかの情報交換をして嘉徳殿を退出した陽阿は、回廊で会いたくもない相手と鉢合わせた。
「やあ、後宮随一のご寵愛、氷の美貌の李常侍のご尊顔をここで拝せるとは」
男にしては高く女にしては低い声が、見え透いた美辞となってまつわりついてくる。今度は分かりやすく柳眉をしかめた陽阿の視界に、すらりと背の高い秀麗な宦官が佇んでいた。濃い白粉の匂いが鼻につく。
「いやいやその一睨みだけで値千金とはまさにこのこと」
「その汚らわしい口を閉じろ、甄棠」
紅を指したかのような艶のある唇が動き、辛辣な毒舌が吐き出される。幼い頃からずっと後宮で生きてきた陽阿にとって、今生きている中で一番嫌いな人間がこれだ。
常侍の印綬を持つ陽阿の方が位は上だが、宦官の世界の力関係は必ずしも地位に比例しない。皇帝やその周囲からの寵愛によって逆転を狙えるがゆえに、才色に自信のある者は積極的に皇帝に近づいてその耳目となり手足となる。目の前のこの者がまさにそれであった。
「しばらくお前を見なくて清々していたのに、嘉徳殿にも湧いて出るとは目障りにもほどがあるな。…私はともかく、皇上の耳を汚すな」
「嫉妬かな?僕も偉大な皇上のために忙しくてね。頼りにされちゃう罪な男だから。あ、もう男じゃないんだった」
わん、と絶妙な間で宦官の裾の下から犬が突っ込みを入れた。途端に陽阿の頬が強張る。
「宮中に犬を連れてくるなと前にも言ったが」
「いいだろ?飼い猫を連れてくる散騎郎も居るし。それにこの子は今回の仕事の功労者だからね。ご報告がてら、皇上から直に労ってもらったよ」
足元をうろうろする枯草色の子犬をひょいと抱えあげ、甄棠は三日月のように目を細めた。陽阿に「今回の仕事」について追及させる暇さえ与えない。
「君こそ人のこと言える?皇上直々に名前を賜わり、その齢で既に常侍。でも君は、何もしていない。どんな仕事も君には回されない」
二人のまとう晩春の涼やかな夜気が、一瞬で霜が降りるほど冷え込む。甄棠のこの発言は確かに正しい。他の宦官のように、陽阿がしなくてはならない務めは滅多になかった。
「色は日に日に衰えるが、智は日に日に益していく。宦官は普通の身体じゃない分、夭い色艶が衰える前に賢いところを見せておかないと、そのうちしわくちゃの書き損じみたいに捨てられちゃうよ」
君はまだ少いけど僕よりは年上だからね、と言い放つ甄棠に人が殺せそうな眼差しが投げつけられる。
「下種な勘繰りは止めろ」
「そう睨まないでよ、宦官としては僕の方が先輩だろ?しかし陽阿なんて名前貰っちゃって、本当は皇上に疑われてるんじゃない?」
「阿った覚えはない。皇上にも、誰にも」
「ふうん、陽る方は否定しないんだ。そうだろうね」
けらけら笑っているが探りを入れる目だと気づき、陽阿は冷静さの仮面を微動もさせなかった。
「私に喧嘩を売りたいのか?買ってやってもいいが、あいにくお前に構っている時間は寸毫も無い。…仕事を与えられたからな」
凍てつく声で吐き捨て、今度こそ足を止めることなく歩み去る。その背に向かって、あでやかな華の笑みを漂わせた甄棠は小指の無い左手をひらひらさせた。
「いつでも歓迎だよ、うそつきの陽阿」
◇ ◇ ◇
夜もすがら、烈風が威嚇するかのように唸り声を立てている。頑丈な掌客殿の柱は小動もしないが、幾何学模様が彫られた窓枠に嵌ったガラスは耐えかねたように小刻みに震えている。牀台から十歩ほどの距離にある窓はおよそ新聞紙を広げたくらいの大きさで、完全な透明ではなく、やや緑みがかっていた。それを通して見える外の園林は、まるで水鏡に揺らぐ影のようだ。
どこか遠くから雄鶏の合唱が風に乗って耳に届いた。自分に用意された一室で横になった蘭子はまんじりともせず、忍び寄る寒さを防ぐために綿の入った錦衾を目元まで引き上げた。春真っただ中とはいえ、日の出前の早朝はやけに冷え込む。宮殿だけあって見た目はきらびやかだが現代の住宅に比べれば遥かに気密性が低いし、隙間風が入ってきてもおかしくない。
「甘さんが亡くなって、これで一日…」
この短期間で抱えきれないほどの出来事が一気に起きて、蘭子の身を置く環境は急転を繰り返した。おととい延安の城門をくぐる前には、その日の夜に見知らぬ人の好意で屋敷に泊めてもらうとは思わなかった。昨日の朝に甘氏と死別して泣いていた時は、今こうして宮殿の一室で寝ていることなど想像もできなかっただろう。もしかしたら、明日には牢獄に放り込まれているかもしれない…。
思考がどんどん悪い方へ進んでいくのは、人の気配の少なさにも原因があった。風の音ばかりが響く夜は、この世界にひとりぼっちであることを浮き彫りにする。涙も出ない目で窓の外を眺めると、針で開けた穴のような星が点々と瞬いていた。
「嘒たる彼の小星…三五、東に在り…」
――やわらかき光をこぼすお星さま、三つと五つ、東の空に。
思わず記憶の中の詩が口をついて出た。蘭子にこの詩を教えてくれたのは常照寺の養い親、富貴子だ。歌うように、絵本を読むように、漢詩を詠う懐かしい「母」の声。
――私のお母さんは、誰なんだろう。
硬くて寝心地の悪い白玉の枕を隅に押しやって、蘭子は肌身離さず持っていた甘氏の遺書を開いた。長楽宮宛ての簡牘は陸道紀が迎えに来た折に回収されてしまったが、こちらは蘭子への私信であるため手元に残った。文字が並ぶ滑らかな絹布がかじかんだ指を柔らかく包みこむ。
「…武関にて、私は腸が燃えたつほど怒りを覚えましたが、蕭宗正卿に逆らう勇気はございませんでした。しかしやむを得なかったとはいえ、臣妾が主への侮辱を看過ごすなど許されません。死ぬ覚悟で宗正卿に抗議するのが婢の義というものです。私の代わりに、小姐が物申してくださった時、私は本当に己が恥ずかしく、嬉しゅうございました。ですから、私が笞打たれたのは小姐のせいなどではなく、当然のことなのです…」
優しい筆跡を辿っていると、甘氏の声が聞こえてくる気さえする。
――小姐は用心深く人を観察る智も、卑賤の者を思いやる仁も、権威を恐れず声を上げる勇も、既に御身に備わっておられます。何も引け目に感じることなどございません。どうかお食事を召しあがって、お身体を大切に。いつでも小姐の道行きを祈っております。
最後の「努力加餐食、長想思」の文字だけ、やや筆が苦しげに乱れていた。
「私が都に来たりしなければ…」
以前から甘氏が遺書を用意していたとはちっとも気づかなかった。ほんの少しでもそんな様子があれば、蘭子は何と説得されても延安の城門を入らなかっただろう。甘氏の命を犠牲にしても会うべき相手なのだろうか、呂太皇太后とは。
大切な遺書を現代から持ってきた鞄にしまうと、この未央宮の西に在るという長楽宮の奥に居るのであろう、まだ見ぬ自分の大叔母に思いを馳せる。その人が手がかりを持っているにせよ、本当に会うことができるのだろうか。この掌客殿というエリアひとつからして、宮殿全体の広さは計り知れない。
昨夜、道紀に伴われて馬車で未央宮の東門を入り、延々と石畳の道を辿ったところに、見渡す限りの贅を凝らした池庭が広がっていた。宵闇が深くなりつつある中、萌えいずる新緑は墨を流したような夜に姿を隠し、遠く花の香りだけが漂っていた。十数か所の島には舟と浮橋を配し、それぞれ風流な建築が天へ向かって意匠を競い、上層階同士が空中の回廊で複雑に繋がっている。遠くから望めば、あたかも一つの大きな豪邸が池に浮かんでいるかのようだった。
そのうちの一棟に案内した道紀は、また来ますから、と言ったが、出された茶にも手を付けずに帰っていった。皇帝に報告するのだろう。この宮殿の下男や侍女は事情を知っているのか知らないのか、黙って蘭子の夕餉と沐浴の支度を調えてくれたが、その胡乱な目つきの中ではせっかくの食欲も消え失せた。なぜ今さら現れた、と無言で責められている気がしたのは考え過ぎだろうか。
――誰かと一緒にご飯が食べたい…。
とにかく独りは嫌だった。疲れの取れていない身体を起こし、夜着の上から掛け布団を肩に羽織って窓際まで足を引きずるように歩く。冷たいガラスの向こうに見えるのは、迷路のように入り組んだ隣の建物への回廊と、風に揺れている遠い対岸の木々、藍色から東雲色に変わろうとしつつある暁天だけだ。市街の様子など、気配さえ窺うことができない。
嫌でも解る。ここは蘭子が逃げられないように閉じ込めておく豪華な檻なのだ。行けば利用されることになるのは予想がついていたが、だからといって他に選択の余地があっただろうか。
「…まあ、まだ一日目だし。運が良ければ皇帝から太皇太后に紹介してもらえる可能性もあるよね」
無理やり自分に言い聞かせた時。視界の端で、何かがきらりと光った。嫌な感じを覚えるが早いか、耳を鞭打つような鋭く切迫した声が室に響いた。
「下がって!」
何が何だか分からなかったが、蘭子は反射的に窓際から一歩後退した。たちまちその首に誰かの細い腕が巻き付き、思い切り後ろに引きずられる。息ができずにもがく蘭子の目の前でガラスが音を立てて微塵に砕けた。破片から守るように顔の前で広げられた色白の手が除けられた時、先ほどまで立っていた床板に鈍く輝く何かが突き刺さっていた。
「な、ナイフ…?」
柄の短い、刃渡り十センチほどの小刀だ。何事が起きたか理解し始めてようやく身体が震え出した。当たり所によっては即死している。
「お怪我は」
思わずへたり込みそうになった蘭子に、宝玉が触れ合うような涼やかな短い囁きが聞こえた。首を横に振り、助けてもらった礼を述べる。手を差し伸べたのは、月の光が具現化したような冷ややかな雰囲気をまとう美青年だ。
謎の美青年は室全体を素早く見回すと、躊躇なく割れたガラスを避けて凶器の飛び込んだ窓に近づく。床に刺さった小刀を片手で引き抜き、警戒の色も露わに外の様子を窺う。背に流した射干玉の黒髪が差し始めた曙光に艶を帯びて煌めいた。
「鏢か…。おそらく南の回廊の下か、あの楼閣の柱の陰…仮に東の森の中からとすれば、相当な投擲の技量の持ち主だ」
刺客が去ったのを悟ったか、独り頷くと、黒髪の美青年は席の上に座り込んだ蘭子を見下ろし、険を帯びた黒曜の眼差しを微かに緩めた。
「ご安心なさいませ。この様子なら今回はただの虚仮脅しでしょう。お一人の時に不用意に窓へ近寄らぬこと。よろしいですか?」
ちっとも安心はできなかったが、その怜悧な声は刺客に襲われた蘭子の怯えをやや落ち着かせた。それに目の前のこの青年は何者で、なぜ蘭子の部屋に入って来たのか。
「あの、あなたは?」
改めて彼の姿を観ると、思わず溜息が出た。こちらが恥ずかしくなりそうな美形だ。媚娘が居たらさぞ喜んだだろう。着ているものからとっさに男性だと判断したが、男装の麗人といっても通じそうである。髭の無い中性的な顔立ちと、小柄でほっそりした体格、年齢の掴みにくい表情。蘭子の頭の中で何かが引っ掛かった。
――あれ、もしかしてこの人って…?
「…申し遅れました。私は李陽阿。皇上の内廷でお仕えする官奴に過ぎぬ身です」
そう言った宦官の紅い唇に、皮肉とも自嘲ともつかない翳が浮かんで消えた。
「太皇太后様のお身内であられるあなたが宮中にご滞在の間、私が責任を持って御身をお預かりいたします。夜が明ければ警護の武官もこちらに挨拶に来ることになっていますが、この騒ぎではすぐにでも…」
陽阿がまだ言い終わらぬうちに、回廊の向こうから甲兵を纏った足音が聞こえてきた。身体を強張らせた蘭子が室の入り口を振り返った時、瀟洒で繊細な扉を蹴破らん勢いの齢若い武官が苛立った面持ちで立っていた。
その顔に見覚えがあった蘭子は見開いた眼を瞬かせた。
「曹公子…?」
※引用詩
『詩経』召南より「小星」(一部)