第十四話 累卵の玉座
仁勇は呂太后が摂政した時代を直接には知らない。権勢が誇張され、意図が歪められ、善悪の評価が付いた伝聞を学んで育った世代だ。それゆえに、当時を僅かでも知っている者以上に呂一族への嫌悪感が強い。
「呂氏が誅殺されてから十九年が経っております。今さら名乗り出てくるなど、太皇太后の血縁を騙って利益を得んと謀る偽者に違いありません。仮に本当に呂氏の血を引いていたとしても、その女はかつて朝廷の刑死の命令に逆らって逃亡した罪人でしょう。捕らえて処断するべきです」
「口を慎みなさい」
仁勇に向けられた低い叱声は、静かであったがその場を支配するに充分であった。
「呂一族が逆臣として扱われたのは廃帝の偽朝の間のみ。太皇太后を貴び呂氏の爵位を追復すると仰せになられたのは、他ならぬ皇上。曹散騎郎は周興の政権を朝廷と呼ぶのか?」
裂帛の気迫を纏う声音が止むと、瓶子に活けられた花の散り落ちる音さえ聞こえる静寂が残った。反論すれば目の前の皇帝の拠って立つところを否定することになる。しばらくして沈黙を破ったのは晨風であった。
「そのくらいにしてやれ、道紀。そなたの言うことに理があるが、予は仁勇の歯に衣着せぬ物言いが嫌いではない」
さして不興の色も無く皇帝は椅子から腰を上げると、手ずから仁勇の腕を取って立ち上がらせ、恐縮するこの若い武官に温言で語りかけた。
「そなたの父は、我が父上の臨淄王を長きにわたって後見してくれた。予は忘恩の徒ではない。そなたを予の近臣として出仕させたのも、曹家を頼りにしておるからだ」
かつて臨淄王の庶出の王子に過ぎなかった晨風に皇位が巡ってきたのは、どう贔屓しても本人の力ではなかった。廃帝こと公孫常を擁する周興らの勢力に戦いを挑んだのは兄の意如とその外戚の田恒であり、臨淄王家に内応して禁軍の動きを押さえてくれたのは曹萃であり、嫡祖母として晨風の即位の正統性を公認したのは呂太后。そして、不可能と思われた周興一派を出し抜いて帝都の制圧に成功したのは、名軍師張嘉の息子にして当時丞相府の一幕僚だった張桑蓬であった。
完全に大勢が決した後、ようやく十六歳になったばかりの晨風は大勢の護衛を伴って東のかた斉州から上京した。用意された玉座に即くために。
「…十五年前、予は太皇太后と張桑蓬に迎え入れられて延安に入った。その折に周興を誅殺したが、彼の最期の言葉はよく覚えている」
――己の行動は義挙であり、非は無い。呂氏を許せば、天朝国は外戚の禍を繰り返して亡びるだろう。
晨風の秀でた鼻梁に影が差した。かと思うと次の瞬間、毒炎を吐き出すような厲しい声が室を圧した。
「予の玉座は即位より此の方、累卵の危うきに在る。張桑蓬は丞相となってから大事を一手に握り、予はその余の小事を裁くに過ぎぬ。百官は丞相を畏怖し、女は予の皇后となり、孫は既に立太子した。手をつかねて見ておれば、予の万歳千秋の後、この国は張氏に奪われよう」
張桑蓬と田恒の勢力が拮抗していた数年の間はまだ良かった。しかし廃妃景氏の大逆事件で田恒が失脚し、丞相として百官を率いる張桑蓬の権勢は誰にも抑えられなくなった。さらに悪いのは、張桑蓬が一国の宰相として無能でも暴虐でもなく、長年の治績で人心を得ていることだ。丞相を罷免すると言い出せば、晨風は朝廷では臣下からこぞって諫められ、後宮では張皇后に反発され、たちまち孤立無援になるのは火を見るよりも明らかだ。
――予は、いつまで丞相の傀儡でいればいい。
晨風とてこの十五年何もしないでいたわけではない。経書を読み護身の武技を磨き、時間をかけて自らに忠実な側近を育て、宦官を内偵に使って諜報網を広げ、権臣貴門との駆け引きの呼吸も覚えた。玉座に座っていれば晨風は辛うじて丞相に対抗できる。だが、それだけでは上回ることはできない。
「お年を召されたとはいえ、太皇太后の発言の影響力は折り紙付きだ。味方に付けば頼もしいが、敵に回せば手強い。あの方の唯一の弱みになりそうな娘となれば、何が何でも予の手元に確保しなくてはならん。丞相派の奴らには絶対に渡せぬ。これが答えだ、分かったか仁勇」
「は…」
仁勇は頷いたが複雑な表情を浮かべた。それがどんな者であれ、政治的な思惑で人を利用するのは彼の義に反するところであった。
黙って聞いていた道紀が思慮深い双眸をすっと上げ、主君に問いかけた。
「陛下、となれば問題は呂小姐を住まわせる場所です。どうしてよりにもよって、掌客殿にお決めになられましたか」
掌客殿は本来、外国の朝貢使や在野の賢者など、皇帝の賓客をもてなすために在る。だが朝貢が途絶えた今、そこは後宮の女性が父兄や実家の使いと面会するための建物と化している。後宮は皇帝以外の男性の立ち入りが厳しく禁じられているが、掌客殿は後宮と未央宮の境目に位置し、後宮なのか朝廷なのか判然としない領域であった。張皇后でさえ、父の丞相と会う際は自ら掌客殿まで足を運ぶ。もちろん妃嬪の不貞が起こっては一大事なので女官や宦官が面談記録を付けているが、権勢と袖の下でそこは何とでもなる。
「後宮でもあり朝廷でもある掌客殿は、許可さえ取れば誰でも近づけます。呂小姐の身柄を狙う者から遠ざけるには一番不向きでは?」
「…他に適当な場所が無かったのだ」
まっとうな指摘に、晨風はどこか言い訳がましく言葉を連ねた。
「後宮に入れるには何かしら位階を与えなくてはならないが、まさかいきなり妃嬪にするわけにはいくまい。それが呂氏であればなおさら反発が大きいしな。かといって采女程度の地位を与えて下働きでもさせては、本物であった場合、予は太皇太后のご不興を買う」
あの方はわざと放置して予の眼力を試しておられるのか、と言いかけ、晨風は何か思いついたように破顔した。
「考えようによっては、いい手かもしれぬ。誰でも入ろうと思えば入れる場所に置いておけば、敵も油断する。こちらはその女に接近しようとする者が誰なのか観ることができるからな」
「呂小姐が刺客に襲われたり、毒殺、誘拐される危険をご承知ですか。掌客殿で害されれば、陛下の責任が問われますよ」
「それに関しては心配するな。信頼できる者を傍に付ける。身辺の警護については…」
晨風は皇帝としての顔で仁勇に向き直った。
「そなたにこれよりしばらく、予ではなく呂氏の少女の護衛を命じる。昼夜をおかず掌客殿に詰めよ。そなたを信用してのことだ。辞退は聴さぬ」
「…畏まりました。ご信頼、感謝いたします」
仁勇は礼儀正しく拝礼して勅命を受けた。不愉快な任務ではあったが、まだ出仕して二年に満たない仁勇に任されるには破格の仕事である。もし護衛対象が呂氏の女でなければ、喜色を隠せなかったはずだ。
若い武官の頭が上がるより早く、皇帝は冷厳な声音で釘をさす。
「呂氏を名乗る件の少女は使途がある。仁勇、予にとって価値が有る間はそなたが気に入らずとも必ずあの娘を守れ。だが、予が殺せと命じた時は躊躇わず殺せ」
道紀の表情がほんの一雫分揺れた。仁勇は慮外なことを聞いたとばかりに眉をひそめ、彼にしてはよく言葉を選んで抗言した。
「それでは、利害によって人の生死を左右することになります。聡明な天子たる方は、善悪の法に則って賞罰を行われるべきです」
皇帝の口元に冷笑が浮かんだ。少年の青臭い正論を嗤ったように見えた。
「天子の意思を言葉にしたものを法と呼ぶのだ。今この国で通用する法律は誰が定めた?」
「太祖陛下の御世に、時の宰相が制定なさったと」
「一臣下ですら、法を作ることができたのだ。ましてや万乗の天子たる予の意思が法とならずして何とする」
道紀は傲然とした皇帝の横顔にどこか非難めいた眼差しを向けた。すぐさま、頭ごなしに断言されて黙ってしまった仁勇に代わって、席を立って冠を取り、床に膝をつく。臣下が皇帝を諫める時は、席に座ったままでは許されない。
「恐れながら、陛下の仰せは誤っておられます。かつて蕭宰相が微に入り細に入って律令を制定した功績は、区々たるものに過ぎません。陛下の偉大なる先君、太祖皇帝が寛大なる御心で臣下を信任し、蕭宰相の力が存分に発揮できる環境を整えたからこそ。この点をはき違えてはなりません」
婉曲な諫言の言わんとするところに気が付き、晨風の顔色が変わった。血が上った頬がひくつき、当てこすりか、と口の中で呟く。だが、怒りよりも道紀に対する信頼が勝った。
「そなたの能弁には敵わぬな。言いたいことは解った。もうよい」
息を吐いて腹立ちを自制すると、覇気と野心を十分すぎるほど抱えた皇帝は軽く手を振って仁勇に退出を促した。まだ割り切れなさを残したまま、ひとまず君命という大義で自分を律したのか、仁勇は一礼してきびきびした足取りで出て行った。
「陛下。彼だけでは呂小姐から情報を引き出すのは荷が重いでしょう。臣も折に触れて掌客殿を訪ねることをお許しください」
外した冠を直しながら、道紀は皇帝に願い出た。あの少女の語る異なる世界の話は、道紀にとって泉のように興味が尽きない。許可が下りなくとも様子を見に行くつもりだが、なるべくなら仕事という名目が欲しい。
「仁勇に助けられたこともだが、そなたが会話して退屈せぬ女とは珍しい。よほどの才女か…そうだな、いいだろう」
「恐れ入ります。そうでした、もうひとつお願いが。先日臣の下に一人、女官になりたいと希望している少女が参りました。身元ははっきりしており、見たところ気質は信用が置けそうで、それなりに機転も効きます。呂小姐の身辺の雑用をさせるのに適任と存じます」
さすがに皇帝はすぐに可とは言わなかった。
「道紀。…そなた、何を考えている?」
眉間に皺を寄せたまま、晨風はこの頭の切れる側近を測りかねたように問いを投げかける。
「呂氏の少女のもとを訪れたがるのはともかく、わざわざ手持ちの侍女も送り込む。随分とその娘に執心しているように見えるが。それとも何か警戒しているのか?」
千もの針を浴びるような眼差しを受けても、道紀は怯む色ひとつ見せず、うっすらと笑みを刷いた。
「陛下。臣は、ただ珍しいものが好きなだけでございます。ご信任いただけます限り、二心無く陛下のためにお仕えする所存です。…お誓い申し上げましょうか」
君臣二人は無言のまま、互いの双眸の奥を探るように見つめる。視界の外で灯された蝋燭がじりじりとその長さを減らしていく。張り詰めた糸に似た緊張を破ったのは、やはり皇帝の方だった。
「いや…よい、聴す。そなたの考えた通りにせよ」
その時、扉の外から玻璃の酒杯を弾いたような涼やかな美声が届いた。
「陛下、中常侍の李陽阿にございます。何か御用でしょうか」
「来たか。入ってよい」
入室してきたのは、声容を裏切らぬ麗人であった。体重が無いのかと疑いたくなる足の運びは音ひとつ立たない。道紀の肩の高さほどまでしかない小柄な身体を曲げて皇帝に跪き、次いで官位が上の道紀に無言で拝礼する。ほっそりとした肢体を包むのは、青紫の袍と袴。夜色の豊髪を束ねただけの頭に冠は無い。佩玉の色は上級宦官を表す臙脂色だ。
後宮に仕える宦官は、妃嬪との密通を防ぐために去勢される。一般的に余人の軽蔑を受ける身だが、この美しい容姿の宦官はむしろ羨望と嫉妬の目で見られることが多そうだ。生まれてこのかた日焼けと縁のない白い肌には皺ひとつ無く、長いまつ毛に縁取られた切れ長の目元は慎ましく伏せられているが、その瞳に宿る光は存外強い。宦官の姿をしていなければ高貴な妃嬪にも見まごう、玲瓏たる硬質な美貌の持ち主であった。
「では、臣はこれにて」
答礼もそこそこに、皇帝に辞去を告げて道紀が室を出ていく。それを軽く頷いて見送るのもそこそこに、晨風はこの小柄な宦官にどこかもったいぶった様子で尋ねた。
「太皇太后の姪孫が見つかったこと、聞いたか」
李陽阿は蛾眉を僅かに上げ、見る人が注意深く見れば気付くかどうかという戸惑いを示した。
「…寡聞にして、今初めて知りました」
控えめに答える宦官を食い入るように見つめた皇帝は、ややあって命じようとしていたことを告げる。
「真偽が定かでないので、しばらく掌客殿に滞在させる。そなたに世話を任せたい。問題ないか」
承りました、という美声が耳朶に快く響く。皇帝は安堵の色を浮かべつつも何となく気づかわしげに視線を彼方に彷徨わせた。
「よろしく頼む。何かあれば道紀に相談せよ。必要なものはすぐに揃えさせる」
「お任せください」
陽阿の淡々とした応えは、喜んでいるようにも苛立っているようにも受け取れた。晨風は落ち着きなく手元の紐をいじり、やや逡巡してから再度確認した。
「本当に構わないのか。その、嫌なら断ってもいいのだが…」
「陛下」
いつになく優柔な皇帝の発言が終わるのを待たず、美貌の宦官は磨かれた黒曜石の瞳にいっそ頑なと言っていい強靭な意思を閃かせた。
「私にお気遣いでしたら無用です。適任であると思し召しであれば、どうかお命じください」
「…ああ。頼む」
晨風はかろうじて、無理はするな、という声を呑み込んだ。自分より長くこの宮中に囚われ、廷臣や貴婦人たちの表も裏も見てきた者に向かって掛けるべき言葉ではなかった。