第十三話 未央の皇帝
鴪たる彼の晨風 鬱たる彼の北林
未だ君子を見ざれば 憂心欽欽たり
半円の月が中天に差しかかっている。天朝国皇帝の住まう未央宮も、今はその名の通り、夜は未だ央ばをすぎていない。清かな光が夜陰に包まれた壮麗な宮闕にふりそそぐと、そこに巣くう邪心・詐謀といった俗な臭気を僅かながらでも浄めていく気がした。
――いや、本物の謀略家は月の美しさを以てしても、きっと変わらないだろうな。
一人で苦笑いしたのは侍中・陸道紀。その足は迷いなく未央宮の嘉徳殿へ向かっていた。
この宮は皇帝の執務空間である太極殿を中心とした「朝廷」と、私的な居住空間となる嘉徳殿をはじめとした「内廷」に区別されている。両者を厳格に距てる雲龍門を守る衛士が、道紀の顔と印綬を見るや重たい音を立てて門扉を開けた。天子に近侍する侍中の官は、もとより内廷に立ち入る権限を持っている。
幾度も折れながら繋がる回廊を進んでいくと、視界いっぱいに豪壮華麗な三階建ての嘉徳殿が屹立している。百千の灯火が煌々と光を放つさまは、あたかも天の川の星を残らず散りばめたかのようだ。
その中でも指折りの瀟洒な造作の室の手前で、道紀はよく知った顔を見つけて表情を緩める。皇帝の御座所の前で宿直をしていた曹仁勇は相手が道紀と気づくや、口調も厲く詰問してきた。
「道紀、いったい何のつもりで呂氏の生き残りなど連れてきたんだ!」
「ここは宮中だよ。その呼び方は感心しないね。公私を弁えなさい、曹散騎郎」
敢えて他人行儀に官名で呼び、ぴしゃりと異論を封じた。むっとした表情を隠せていないが、ちゃんと自分の非を理解して目を逸らすところは幼い頃から変わっていない。仁勇は陸家とは比べるのも気が引ける権門の五男坊だが、道紀は彼の二番目の兄と親友であることも手伝って、何となく自分の弟のように思えて仕方ない。
だからこそ、どうして怒っているのかもよく分かる。
「君がどこまで聞いているか知らないが、私は命じられた務めを果たしただけだ。夜も更けたが、皇上にお目通りはできるかな」
しぶしぶながらも、職責に忠実な仁勇はもちろん道紀を追い返したりしない。
「陛下、陸侍中が参りました。お通ししますか」
ややあって、中から男の声が短く入室を促した。
邪気を祓う饕餮紋が施された頑丈な樫の木の扉を開き、流れるような歩調で部屋の中ほどまで進む。道紀は衣の裾を払って膝をつき深く叩頭した。皇帝に対する最敬礼の姿勢のまま、おもむろに口を開く。
「臣、陸商が復命いたします。本日夕刻、呂太后様の姪孫を称する件の少女の身柄を保護し、かねてのご指示通り掌客殿に迎えました」
「大儀であった。楽にするがいい」
ゆっくりと面を上げていく視界にまず入ったのは磨かれた大理石の床と、龍鳳の刺繍が施された裾。就寝前なのか、着ているものは袞冕の衣冠ではなくごくありふれた冠と朱色の長衣だったが、表情に眠気は微塵も無い。長い脚を組み、威風堂々たる体躯を椅子に預けた皇帝・公孫懐は、晨風という字のごとく、鷹隼のように鋭い眼光をしている。
勅使の任から戻った臣下が向かいの席に座ったのを見やり、皇帝は猛禽類に似た眼差しをほんの少し柔らかさにくるんで口の端を上げた。
「道紀、葬式まで付き合ってやるとはそなたもご苦労なことだ。…仁勇もこちらへ来るといい。そなたにも聞かねばならぬことがある」
二人を手招いた皇帝は手ぶりで他の侍中や女官・宦官を下がらせるや、待ちかねた様子で身を乗り出した。
「それで、本物か?」
隣に立つ仁勇が少し怪訝そうに眉を寄せたのを横目に、道紀は主君の尊顔を熟視して答えた。
「件の少女の真贋は、臣の眼力の能くするところではございません」
その応えは晨風も半ば予想していたのか、そうか、と短く呟く。吐き出されたため息に、口元と顎の美髯が揺れた。彼の顔の造りはやや童顔だが、この髯で年相応の威厳が付加されている。
「そなたでも判らぬか。何か決定的な証でもあれば話は早いのだがな。乳母とやらには会えたか」
「臣が着きました時、既に息を引き取っておりました」
「そうか。…直接問い質したかったが、惜しいな」
晨風が無造作に机上に置かれた一本の木板を放った。記された文字にざっと目を走らせた道紀は小さく頷く。宛先は柔らかな筆致で長楽宮・夫人審氏と記されている。
「かの乳母・甘氏の遺書を見てまいりましたが、同じ筆跡で間違いないかと」
「そうか。…仁勇」
皇帝と侍中の会話の全体像が見えずに当惑している護衛の武官に向き直り、晨風は事の発端から説明を開始した。
「二十日ほど前、予の諜報の網にその書簡が引っ掛かった。もし見逃していたら危うく出遅れるところであったわ」
「…それは?」
仁勇は不審そうな目つきで簡牘を指し示した。それこそ、甘氏が長楽宮に蘭子の帰還と上洛を告げた書信であった。日付は蘭子が不周山を発ち楚州に滞在していた時期だ。延安城門の検閲により皇帝の元へ運ばれ、事情が判明する契機となったのだ。
「かつて周興による呂氏粛清を逃れて生き延びた赤子が居たそうだ。その女児はこの十余年どこやらで身を潜め、先日、呂家に仕えて乳母をしていた女に庇護されたのだという。この書簡が真実だとすればな」
晨風の声音はどこまでも半信半疑であるようだった。無理もなかった。呂氏の難の時、晨風も道紀も未だ十代前半の童児で、仁勇に至っては生まれてもいない。
「甘氏の書簡によりますと、その少女は先の大将軍・博陸公であった呂奉の四女、嫡母は夏侯氏…」
「呂奉は太皇太后の甥の一人か?」
「はい、太皇太后様の次兄・呂仲遠の嫡子です。少帝陛下の御世、従兄弟の呂晏・弟の呂釈之と共に国政に参与、大将軍在任中に周興の乱に遇い、いずれも落命しています」
道紀は博学のみならず、権門貴族の人間関係に至るまで詳細に把握している。晨風の下問にもよどみなく答え、続きを読み上げる。
「此度の少女は、少帝陛下の十四年三月丁未生まれ。名は翠蘭、とあります。呂翠蘭ですね」
「ああ、その名はまずいな。母上の御名と一文字被る。改名させろ」
この国では皇帝・皇后・皇太后・太皇太后・皇太子の諱を臣民が口にするのは恐れ多いため、彼らと同じ字を使った名を付けてはならない原則がある。特に当代の皇帝たる晨風の名「懐」は発音しても書いても罰せられ、公文書では「思」「念」「慕」などの同義語で代用されている。
人々は尊貴の者が付けそうな文字を避けるのが通例だが、即位や立后などでやむなく被った場合、己の名を変えなくてはならない。晨風の生母すなわち皇太后王氏の名は「翠嶺」というが、少帝の末年の段階では彼女はまだ臨淄王の妾の一人に過ぎず、翠の字は当時の避諱に当たらなかった。
「臣が伺ったところ、呂小姐は己の真の名を知らないそうです。この際ですから陛下が直々に佳名を賜るのがよろしいかと」
「それはいい案だ。翠が駄目なら青蘭、緑蘭…いや、呂緑蘭では語呂が悪いか」
木簡の切れ端に名前候補を列挙し始めた皇帝を、道紀がやんわり軌道修正する。
「呂小姐の名は今度の謁見の折までにご精考なさるとして、本題に戻りましょう。検討すべき点はいくつもあります。まずは陛下の仰った、呂小姐の真贋ですが、これは呂太后様に引き合わせてみて初めて判るかどうか、といったところでしょう」
「太皇太后はこの数日体調がお悪いそうだ。予でもご機嫌伺いができなかった。その女についても本物とも偽物とも示唆せず、今は会わぬ、というお言葉だけだ」
晨風は皇帝の務めとして呂太皇太后の住まう長楽宮と王皇太后の慈寧宮へ毎朝挨拶に伺う日課があるが、昨日から太皇太后に面会を謝絶されている。
「それでは、少なくとも彼女は太皇太后様の仕立てた偽者ではないのでしょう。自ら偽者を宮中に送り込んで何やらなさるおつもりなら、この段階で面会しないのは不利益しかありません。何せ、太皇太后様にとっては今や唯一の肉親なのですから。会いたがらなければ不審に思われます」
「なるほどな。可能性としては、まぎれもなく呂氏である場合、単なる個人の利欲で呂氏を騙っている場合、それから何者かに唆されている場合か」
晨風の見解に、道紀はやや考えて付け加えた。偽者であるにしても、当人が呂氏の血統をわざと詐称しているのか、本気でそう信じているのかでも対応が変わる。また、本物であったとしても誰かの指図を受けていないとは言い切れない、と。
「利益目当てにただの庶人が、よりによって呂氏の生き残りを自称するのはあまり考えにくいですね。都の現状に疎いか、よほどうまく立ち回る自信がある詐欺師か、あるいは偽者が己を本物だと信じこんでいるのでなければ」
道紀が観察した限りでは、呂小姐の言動は行き当たりばったりで必ずしも「利巧」とは言えなかった。また、多少の計算はあってもわざと正体を偽ろうとする様子ではなさそうだ。また、彼女は呂一門や当時の勢力図に関する情報をほとんど持っていない。例えば葬儀の直前に甘氏の遺書を見るまで、父に当たる呂奉の名も知らなかった。それらを教えられる前に乳母が亡くなったのだとしても、謀略の駒として作られたにしては拙劣すぎる。偽者を仕立てるなら、もっと時間をかけてそれらしく作ってくるはずだ。
――あれがもし私を騙すほどの演技だったら、途轍もない隠し玉ということになるだろうが。
道紀の推測としては、真贋はともかく、あの蘭子という少女は自身を呂小姐だと認識しており、亡き乳母を除いて特に誰かの指示で動いているのではないだろう。ただし、己でも気づかぬうちに利用されている可能性は捨てきれない。
「予が思うに、やはり背後に何者かが居るのではないか。事情を知る乳母が急死したのも都合が良すぎるし、その娘が帝都に入る前、唐突に呂氏の噂が都に広がったことも気になる。予ではない。太皇太后でもないとすれば…誰だ?」
「さて、何の目的かにもよりましょう。僭越ながら、臣は当初曹太尉が関わっておられるのかと疑っておりましたが…」
天朝国では、百官を率い万機を決裁する丞相、刑獄司法のことを一手に握る御史大夫、全ての軍隊の管理運用を取り扱う太尉が三公と称し、皇帝さえも礼節を以て待すべき不臣の臣として臣下の筆頭に在る。現太尉の曹萃は七十代半ばの宿老で、軍事のみならず地方行政においても治績を重ねてきた功臣だ。彼の五男が仁勇である。
もちろん、父を名指しされた仁勇は激怒した。
「ど…っ、陸侍中、勝手な憶測で太尉を誹謗するとはどういう了見か!何を根拠に…」
さすがに御前で剣を抜くほど激昂してはいないが、掴みかからんばかりに抗議する。それを聞いていた晨風が不意に重々しく問いを発した。
「ならば聞こう。仁勇、なぜ呂氏の女はそなたの別邸にいた?」
落雷に打たれたような驚愕で、仁勇は全ての動きを止めた。その驚きが覚めやらぬまま、ようやく声帯が二言分震えて己の聞き間違いではないか確認する。
「今、何と?」
皇帝に尋ね返すのが非礼であることもすっかり頭から消えているようだ。主君の代わりに、道紀が事情を補足した。
「私が迎えに行ったのは、昨日の君の拾い物だよ。子充が怪しんでね、馬番に探りを入れたらあの小姐は長楽宮に行く予定だったと言う。昨夜のうちに私に密書をくれたんだ」
目端の利く曹家の舎人・子充は若い主人が何の気なしに助けた一行とちまたの噂をすぐに結び付け、黎という馬丁から奥で休んでいる少女の身分を聞き出した。そしてこのままでは曹一門に要らぬ疑いが掛かると察し、老獪で何を考えているか予測不能な太尉にも善良だが突っ走りすぎる五公子にも一切報告せず、皇帝の身辺に仕える道紀に直接連絡を付けたのであった。
「そんな馬鹿な!…何かの間違いでしょう。臣が保護したのは甘橿蘭子という辺境から来た少女で、母が病だというので哀れに思い屋敷で療養させたのです」
仁勇にとっては、都に不慣れなただの少女が困っているだけに見えたのだ。あの女が己より年上だったことも驚きだが、よりによってあの悪名高い呂太皇太后の親族だったとは。
――よくも俺を騙したな。人を人とも思わぬ呂氏の雌虎め。
全身を恚怒に包まれた仁勇は跪いたまま俯き、不用意な行動であったと謝罪した。その手がわなわなと震えているのは、むろん恐怖のためではない。その不穏さを危惧した道紀が窘めようかと口を開きかけた時、皇帝が面白いとばかりに笑声を放った。
「やはり知らなかったのか。仁勇が呂氏の女の窮地を助けるなど万に一つもありえぬと思っていたが、その娘、よほど運がいいらしいな」
まだ面白そうに笑いを口元に残している晨風に、笑われた者は苦菜を噛んだ顔で申し上げた。
「臣の独断です。曹家は関わりありません」
「分かった、そなたの言葉を信じよう。別に罪に問うつもりで聞いたのではない。むしろそなたがいち早く庇護してくれて助かった。張丞相の下に送られていたら今頃目も当てられぬ惨事が起きていただろうよ」
機嫌良く、立つがよい、と起立を促す晨風に向かって、最年少の散騎郎は跪いた姿勢を崩さず眦を決して直言した。
「陛下、恐れながら呂氏の娘を招聘なさったのはいかなるお考えか、お聞かせください」
引用詩
『詩経』秦風より「晨風」
※「晨風」は早朝に吹く風のことだが、古注・新注ともに隼か鷹と解している。一羽のはやぶさがさあっと北の繁林の中へ飛んで行った、という情景。北という方角は陰寒凄涼、暗さや薄ら寒さ、不安を表現するもので、この場合は「憂心欽欽」たる詩人の思いをたとえている。