第十二話 李花の涙
どこか遠くで鶏が鳴いた。泣きながら眠りこんでいた蘭子は鈍く痛む頭をもたげ、牖から差し込む光の眩しさに顔を歪めた。いつの間にか夜が明けている。
――夢を見ていただけなら良かったのに。
甘氏がいなくなっても、朝は変わらず来る。現実はどこまでも現実で、いっそ不仁なまでに変わらなかった。その当然の非情さは、喪失の大きさをより鮮やかに照らし出す。
すべきことが山ほど有るのは分かっていたが、何も考えたくなかった。頭が思考を端から拒否している。食事や着替えどころか、指一本動かすだけでも億劫だ。
「小姐、すみません、すぐ起きて下さい」
涙を流しすぎたせいで腫れぼったい瞼を数回瞬かせる。よく見ると室の戸口に媚娘が立っているのが判った。
「何かあったの?」
「それが、小姐にお客様が…」
急かされながら最低限の身支度を終えて中庭へ降りると、物々しいほどの緊張感がみなぎっていた。貴人の護衛と思しき、武器を携えた屈強そうな男たちが一分の乱れなく整列している。その中に一人佇んでいる青年は官吏なのか、結んだ帯から下がる佩玉がちらりと見えた。
齢の頃は三十くらいだろうか。体格の良い護衛たちと比べるといっそ繊弱にすら見える痩身を落ち着いた松葉色の長袍で包み、蝉の羽と貂の尾をあしらった独特な黒い冠の隅からは纏めきれなかったと思われる遅れ毛が額にこぼれていた。こちらに気づくと、青年官吏は温雅な面に微笑を浮かべて一歩進み出た。蘭子に会いに来た客というのはおそらく彼のことだろう。
「初めてお会いしますね。呂家の小姐」
外貌に違わない、のびやかな広がりを持つ豊かな低音が耳に届いた。
「根も葉もない流言が広がっているようですが、百聞は一見に如かずとはよく言ったもの、噂よりずっと可愛らしい方で驚きましたよ」
「どなたですか」
見え透いた世辞に浮かれる気分ではない。表情を硬くしたまま、蘭子はようやくそれだけ言った。
「私は侍中を拝命している陸道紀と申します。孝心厚き皇帝陛下は太皇太后様の姪孫が発見されたと聞こし召し、たいそうお喜びあそばして、呂小姐を客人として引見なさりたいと仰せです。そこで不肖、臣がお迎えにあがりました」
皇帝陛下。太皇太后の姪孫。客人として引見。
道紀と名乗った廷臣の滑らかな口上の意味する所を把握した蘭子は、事態のあまりの急展開に真っ白になった。
――今上皇帝が私を招待!?ど、どうして!?
確かに呂氏出現の噂が流れていたが、皇帝がそれを聞いて蘭子の存在に辿り着くまでが速すぎる。素性は限られた者にしか口外していないし、帝都に入ったのはつい昨日だ。この屋敷に泊まったのも、予定の行動ではない。いったいどうやって、蘭子が呂氏であることを突き止め、迎えを寄越せたのか。
そもそも都に来た目的は太皇太后に会うことで、皇帝に謁見する可能性など夢にも考えていなかった。予想を遥かに超えた事態に、蘭子は何も言えずに立ちつくした。
「無礼な、陸侍中は皇上の勅使であらせられるぞ」
蘭子の無反応に業を煮やした護衛たちが目を怒らせ、腕を引っ張って無理やり跪かせようとした。だがそれより早く、道紀という官吏は鋭い叱声を放って彼らを制止した。
「やめなさい。この小姐は皇上が招聘なさる方ですよ。…どうしました?」
陸侍中のじっと探るような橡色の瞳と目を合わせていると、狼狽えている心の奥底まで読まれそうで、蘭子はとにかく何かを言わなくてはと焦った。
「申し訳ありませんが、私はここではない世界で育ったので、皇帝陛下の勅使に対する拝礼の仕方はまだ教わっていません」
「そうですか。…それでは、私のやったように真似してみてください」
身も蓋もない物言いにも大して気を悪くした風もなく、「ここではない世界」についても深く問わず、道紀は蘭子の前に立つと両手を胸の辺りで組み、そのままゆっくりと一礼した。
「これが、拝礼ですよ。あなたは女性ですから、手の組み方は左右逆になるので注意してくださいね」
終始貴族的で典雅な物腰であったが、その丁寧さにはどこか有無を言わさないものがあった。蘭子は大人しく言われた通り胸の位置で手を組み合わせ、道紀に向かって頭を下げた。
「…お目に掛かれて、光栄です」
「はい、よくできました。形式とはいえ、仕事ですから礼儀は守らなければいけません。お解りいただけましたか」
蘭子は小さく頷き、辛うじて喉から声を絞り出した。
「身に余る誉れですが、拝辞します。甘さん…私を都に連れて来てくれた乳母が、昨夜亡くなりました。正直私はお招きどころではなく、まだ混乱していて…こんな状態で拝謁しても失礼に当たるかもしれません」
こんな状況で、皇帝が蘭子に親近感を抱いて招待してくれた、と楽観するほど馬鹿にはなれない。蜘蛛の巣のように裏で何らかの思惑が張り巡らされているのだろう。罠に嵌ってからでは遅い。とにかく体よく断らなくては。
「それは困りましたね。私の命じられた任務は、あなたを宮殿に連れてくることですし、このままのこのこ帰るわけにもいきませんから…」
思慮深げな眼差しを伏せた道紀は整った短い鬚を片手でいじりながらしばし考え込み、やがて妥協案を持ち出した。
「では、このようにしましょう。今すぐこちらで甘氏の葬儀に関わる一切を手配します。本日の夕刻までに埋葬を行い、その足で掌客殿にお入りいただくのはいかがです」
あっけに取られた蘭子は異論を唱えるのも忘れてぽかんとした。儀礼に無関心な現代でさえ、亡くなった翌日に即刻葬式と埋葬などしない。皇帝の使いとはいえ、何という強引さだ。
「とはいえ喪服のまま宮中の門には入れませんから、一度どこかで着替えていただいて…」
「え…あ、あの」
「急ごしらえになりますが、昼までには明器も供物も揃えられるでしょう。柩を載せた車を牽く者も集めます。ただ柩の外箱までは手に入らないだろうしどうしたものか…ああ、そちらの馬車の車体を使って造らせても構いませんか?」
見ず知らずの青年により、あっという間に葬式の段取りが決まっていく。蘭子は慌てて声を荒げた。
「か、勝手に決めないでくださいっ。私はまだ承諾した覚えは」
水を打ったように辺りが静まり返った。髪の毛一本落ちても聞こえそうな沈黙を破ったのは道紀の衣擦れと沓音だった。
「乳母殿を喪い、哀しんでおられるお気持ちはお察しします。ですが、呂小姐」
流れるような自然な歩みで蘭子の前まで来た道紀は、憤りを隠せない少女の面に静かな眼差しを合わせた。間違っても話の腰を折られた不機嫌など感じさせない、大人のふるまいだった。
「…死を悪むは、弱喪にして帰るを知らざるがごとし。この句の意味は分かりますか?」
淡々とした口調に、蘭子はまるで過熱した頭に水を浴びせられたような気分になった。冷静になっていくのと並行して、覚えた経典の章句が脳裏を次々過ぎる。これでもし全く知らない出典だったらどうしよう。
――ん…?これ、どうにも儒教っぽくない言葉だよね。
儒家の徒は基本的に死後の世界への関心が希薄で、せいぜい魂魄が天へ上るとか鬼神が現世に禍福を為すとか、その程度だ。生死の問題について向き合うのは、むしろ道家の老荘思想に一日の長があったはず。
「人が死を忌み嫌うのは、譬えれば幼い頃に家を失くした者が帰る場所を忘れるようなもの…で合ってますか」
ようやく思い出した。やはり『荘子』斉物論篇の逸話だ。噛んで味わうように章句の解釈を言葉にするうち、蘭子はその含意に愕然と目を見開いた。
幼い頃に生家を失った者が異郷に放浪するうち、いつしか帰るべき故郷を忘れる。それはまさしく、現代に飛ばされてこちらの世界を知らずに育った蘭子の在り方そのものではないか。それなりに平和だった向こうの世界に居た自分は、都合よく忘れて過ごしていただけだろうか。人がいつか死ぬものであることを。
「黄老の書物までよく勉強していますね。お嫩いのにたいへんよろしい」
道紀は我が意を得たりと頷く。心なしか嬉しそうだ。
「乳母殿に限らず、彼も我も太古の昔からずっと存在してきたのではありませんね?万物はたまたま混沌の中から陰陽の気が結びついて生まれ、魂と魄とが離れれば死ぬものです。あなたの乳母殿はこの蒼天と大地を大きな寝室とし、生まれる前の形無き状態へ帰って、まさに眠りにつこうとしているのでしょう。そう思えば、まだしも心が鎮まりませんか」
彼こそ若さに似合わず、滔々と生死の理を諭してしかも不思議と嫌味がない。まるで齢を経た高僧の説法のようだ。
「寿夭は天の定めるところで、その長短は人の力では動かせないものです。この測り難きの生の中で、己に課されたもちまえに従って生きる充実を天命というのですよ」
長さよりも、中身の濃さ。何を成したかが大切なのだ。蘭子のために生きた甘氏の人生は、充実していたのだろうか。幸せ、だったのだろうか。
「本来はこのような説教をする柄ではないのですが。今のあなたを見ていると、どうもお節介をしたくなるらしいですね、私は。それにあなたも人の情として、乳母殿の葬儀もしないままではいられないでしょう。…そう悪い条件ではないと思いませんか」
つまり甘氏の葬式を行ってくれる代わりに、皇帝に拝謁せよということだ。どちらかと言えば、蘭子を勅命に従わせる代わりにおまけで甘氏を弔ってくれるということかもしれない。仮に拒んだとしても兵が居り、逃げ道は無さそうだ。甘氏の骸を置いたまま逃亡することもできない。
目の前の青年官吏は凪いだ水面のように静かに佇んでいる。僅かの時間に蘭子の他の選択肢を全て潰しておいて、こちらが唯一の「賢い選択」をするのを待っている。相手を投了まで追い詰めた名棋士のような風格に、蘭子は全面降伏する以外にすべが無かった。
◇ ◇ ◇
皇帝の勅使・陸道紀が配下に指示して二時間足らずで、青柳里の曹家別邸は葬式ムード一色になった。弔旗が立ち、白い幕が張られ、艶のある黒漆の棺が堂上に運び込まれる。
辺りから人がいなくなったようにやけに静かな屋内で、蘭子は用意された喪服に着替えた。無地の麻の衣は縁縫いがされていないが別に突貫で作られたからではなく、もともと喪服とはそういう造りらしい。額に白い三角の布がついた幘という鉢巻きを付けると、何だか自分が幽霊になった気がした。
「失礼します」
室の重たい引き戸を開けると、寝殿の広い堂の一角が幕で覆われている。その中に北枕で甘氏が棺に横たえられていた。そして東向きにしつらえた客人の席に、これまた喪服姿の道紀が座している。既に哭礼も済ませたらしく、薄い敷物の上に正座して媚娘が持ってきた茶を飲んでいた。その礼容は折り目正しいがことさらに緊張の色はなく、自然とくつろいだ雰囲気を漂わせている。
「ああ、どうやら逃げなかったようですね。賢明です」
第一声から蘭子は表情を引きつらせた。着替えと称して逃亡する可能性もあると思われていたようだ。慇懃だがある種の辛辣さを備えた道紀の物言いは、甘氏を亡くしたばかりの蘭子の心をざらりと撫でた。が、そこまで腹は立たない。
「先ほどは取り乱して申し訳ありませんでした。失礼をお許しください」
今は武関の時とは違う。蘭子が不遜な態度で勅使を怒らせても、今度は甘氏のように庇ってくれる人はいないのだ。
皇帝の使者たる青年は苦笑して、楽にしていいですよ、と蘭子に着席を促した。
「いえいえ、可愛いものでしたよ。他所に連れてこられて不安で毛を逆立てている子猫のようで」
子猫扱いか。立ち上がりかけた蘭子はその言葉で力が抜けそうになった。
「ん、この比喩は良くなかったかな…。知人がよく猫を拾うから、我が家にも毎年この時期は愛らしいお裾分けが何匹か来ますのでね」
どこかで聞いた気がしたが、答えが思い浮かぶより早く道紀が面白いものを見るように口を開いた。
「しかし驚きました。普通の婦人は皇上のお召しと聞けば、仮に喜ばぬにせよ、ああも真正面から斬って捨てるように断ったりしませんよ。よほど世間知らずか、矜持が高いか、あるいは宿怨を抱いているか…」
「宿怨!?私が?皇帝陛下にですか?」
思いがけぬ不穏な言葉にとっさに彼の顔を見た時、鏡のように静かな黒橡色の瞳に自分のぎょっとした顔が映っていた。蘭子の心の奥底まで見抜こうとする目に。
しかし数拍の間を置いて、満月を薄雲が蔽うように道紀の眼差しは和らぎ、先ほどの孟夏の太陽に似た厳酷さがまるで幻であったかのように優しく微笑んだ。
「冗談ですよ。あなたは、怨みを隠しているようには見えない。…それゆえ、どこでどのように育ったのか、とても興味があります。少しあなたの話を聞きたいですね。ここではない世界とは、どういう意味でしょう」
やはり蘭子の先ほどの「ここではない世界」発言を聞き逃していなかったらしい。
「…構いませんが、あまりに神懸っていて、荒唐無稽に聞こえるかもしれません」
「私はこれでもその手の話に対する理解はある方だと思いますよ。神仙や鬼神の類のね。…ではまず、あなたがその国に居た時期をお聞きします」
道紀の質問はおそらく上から聞き出すよう命じられているのであろう、蘭子の呂氏一門についての記憶や消息を絶った経緯、現代との往還方法のみならず、育った家庭環境に家族構成、日常の生活や趣味、友人との思い出など様々な話題に及んだ。現代から持ってきた荷物検査もされ、蘭子は袱紗の使い方や銘仙の織りの特徴に至るまで解説する破目になった。
――この人、すごく頭のいい人だわ。
話し始めてたちまち蘭子は瞠目した。この道紀という官吏は弁が立つだけでなく、知識の幅が広くて深い。どんなに口の重い人でも、彼相手では時を忘れて話し込んでしまうだろう。蘭子が説明に困るとすかさず的を射た譬えを持ち出し、矛盾や疑問の指摘も抜かりない。適当な作り話が通用しないことはすぐ解った。一瞬たりとも会話の接ぎ穂が途絶える気配がないため、常に頭を目いっぱい回転させなくてはならなかった。
また彼は饒舌に喋りながら言葉択びが周到で、伏せておきたい内容はのらりくらりと躱して決して言質を取られない。蘭子を呼びつける皇帝の思惑について探りを入れてみたが、徒労に終わった。
「五歳からは養い親になってくれた人のお寺で…」
「寺?」
どうやらこの世界にはまだ仏教が入ってきておらず、体系的な民間信仰としての道教も成立していないことが解った。したがって蘭子は「仏」「寺」「僧侶」といった概念を説明するのに難儀したが、幸いなことに道紀は博識で老荘の哲学に精通していたため、案外すんなりと仏教の何たるかを理解してくれた。むしろ知識の間隙を容赦なく突いてくる彼の問いに適切な答えを返すことが難しい。
「仏教のお寺で育った経歴は、こちらではあまり良くないことですか?」
「そうですね…残念ながら。朝廷から淫祀邪教とみなされるかどうか、微妙な線でしょう。ひとまず荘子学派の一種で、皇上に対する叛意は認められないとご報告しておきます。これほど興味深い説が埋もれていたとは勿体ない限りですから」
蘭子はとりあえず胸をなでおろした。得体のしれない叛徒の一味などと讒言された日には、太皇太后に会うどころではなくなる。
「それにあなたは、必ずしも仏の教えを信じきっていないのではありませんか」
道紀は蘭子の鞄の中のスマホを目で示して、少し考えてから述べた。
「私が見る限り、あなたには少なからず機心がある。機心は渾沌氏の術のみならず、仏の教えに於いてもきっと障害となるものでしょう」
機心とは道具や機械に頼る心、つまり効率主義のことだ。素朴さを尊ぶ老荘思想や仏教の価値観では確かに否定的に描写されている。一台で何でもできるスマートフォンなどは、まさしく遠ざけるべき機械になってしまうだろう。
だが、こちらではほぼ役に立たない銀色の板になりさがったとはいえ、蘭子にとってこのスマホは心のよりどころだ。
「そうですね。現代はほぼ全ての人が便利さを追求する生活に慣れてましたから。たいていの物は自分で作らなくても買えますし、常に新しくてより優れた品物が開発されたり…」
バッテリーが残り少なくなったスマホを見つめていると、じわりと目頭が熱くなった。
「甘さんと一緒に写真撮っておけばよかった…」
この世界に来てからスマホで撮影した画像が何枚か有るが、甘氏と一緒に映っているのは一枚も無い。旅に出てすぐは車酔いで周りを見回す余裕もなく、甘氏とも距離を保とうとしていた。武関の事件の後は甘氏は臥せっていて、写真どころではなかった。
「写真とは何ですか?」
この丸いレンズを通して映した光景を一瞬で絵のように記録して保存しておける機械とだけ説明すると、彼は目を丸くしてまじまじと画面を凝視し、指先をそっと滑らせる。
「興味深いですね。いずれまた、この道具の仕組みを教えてください」
まだあれやこれや質問したそうな顔をしていたが、空気を読んだのか道紀は微妙に名残惜しげに蘭子のスマホを返した。
「撮っておきますか?乳母殿のお顔を見られるのはこれが最後の機会ですよ」
蘭子は小さくかぶりを振った。沐浴して死に化粧を施した甘氏の表情は安らかで、静かに眠っているだけにも思えなくもない。しかし、二度と目を覚まさない彼女の姿を写真に残すのは気が進まなかった。きっと見るたびに泣くだろう。
「心の中に残っているから、いいんです」
何十年か後には、甘氏の顔も記憶の中に埋もれていくかもしれない。それでも決して思い出せなくなることはないと蘭子は信じている。僅かひと月に満たない間だったが、甘氏はこの世界に来たばかりの蘭子を乳母として守り抜いた。そこに呂氏への忠誠心や、義務感や、生き延びた罪悪感がどれほど混ざっていたかは、もはや分からない。蘭子に解るのは、暖かい羽交いに包まれるような、まるで本物の母親のような深い情愛だった。それは心から欲しかったものに違いないのだから。
◇ ◇ ◇
葬儀は一部の礼を簡略化したとは思えないほど丁寧に行われた。最初から最後まで道紀が進行を取り仕切ってくれたので、蘭子は座って哭く以外に特にすることがなかった。
昼過ぎに終わると、今度は棺を車に乗せて葬列を組み、全員で挽歌を歌いながら城門を出た。埋葬場所は甘氏のかねての希望通り、帝都郊外の終南山である。うららかな春の日差しを受けて延安城が遠ざかるにつれ、南に小高い丘と山の中間くらいの起伏が迫ってきた。
「終南山は古来より、西のかた崑崙山へ向かう魂が一時憩う山と言われています。こちらを埋葬の地に選んだ乳母殿は思いやり深い方ですね」
道紀は自分の車で葬列の後からついてきた。いくら何でも勅使を歩かせるわけにもいかない。小姐も一緒にどうぞ、と温顔で勧められ、蘭子は一度は辞退したものの結局こうして道紀と同じ馬車に乗っている。
「あの、お葬式のこと、何から何までありがとうございました」
ちゃんと礼を言っていなかったことを思い出し、今さらながらに道紀に向かって深く頭を下げた。
「どういたしまして。皇上のご命令とはいえ、私は無理に連れていくのを好みません。あなたに納得して来ていただきたい。必要であれば葬儀の手配くらい易いものです」
車が山路を登り終えた所で停まった。甘氏の棺を運んできた人たちは既に到着していて、墓の敷地に穴を掘ったり木を植えたりしている。この墓地も道紀が費用を立て替えてわざわざ買ってくれた場所だ。本当に頭が上がらない。
埋葬の準備を見るともなく見ながら、道紀は心苦しいのですが、と前置きして宣告した。
「正直に申せば、どれほどの滞在になるか断言はできません。皇上があなたにどのような処遇を賜るのかもまだ明らかではない。太皇太后の御意もです。それでも、来てくれますか」
限りなく「来てくれますね」と同義だったが、道紀は敢えて「来てくれますか」と尋ねた。他の道を全て塞いでも最後の選択は蘭子に与える、意地が悪いとさえ言える智謀。それこそ彼が若くして皇帝の側近たる所以なのだ。
「分かりました。参上いたします」
蘭子は今度は逆らわなかった。きちんと葬儀を行うという約束を守ってくれた以上、こちらも逃げるわけにはいかない。もはや勝算の有無を云々する段階ではないのだ。腹を据えて、次の環境で最善を図るべきだ。
――私は生贄の牛や霊亀の甲羅にはならない。必ず生きて元の世界に帰るんだから。
道紀はどこかほっとした面持ちで、棺が土の中に収められるところに目礼した。車から降りた蘭子は雛人形の小道具のような明器を手に取ると、ひとつひとつ墓中に並べていく。
「あの屋敷の公子にも、心から感謝していますとお伝えください」
仁勇はまだ仕事から帰ってきていない。世話になったのに、お礼も言わずに出ていくのが申し訳なかった。そう告げると、道紀は何とも言えない表情になる。
「呂小姐、彼には名乗らなかったのですか?」
「甘橿蘭子、とだけ」
「…ああ、なるほど。道理で」
おそらく無意識に、道紀は口角を上げた。仕方ないなと言わんばかりの笑みは、赤の他人に対するものとは思えなかった。蘭子は怪訝な顔でおずおずと聞いてみた。
「もしかして以前からお知り合いですか」
「ええまあ。…さぁ、乳母殿の魂魄が迷わぬように祈ってさしあげてください」
ていよく話を逸らされた気がしたが、蘭子は深く考えることなく埋められていく棺を見つめて手を合わせ、心の中で念仏を唱えた。仏の慈悲は三千世界の草木さえ救うというのだから、この世界の甘氏のこともきっと迎えに来てくれるだろう。畚を手にした黎さんが最後の一掬いの土を盛りかぶせる。名残惜しげな黄昏の風に乗ってどこからか梵鐘のような音が聞こえてきた。
「呂小姐。もう参りますよ」
城門が閉まる時刻が近い。道紀が遠慮がちに出立を促す。蘭子は頷くと、差し出された綏を握って車の踏み台に足を掛けた。
延安城の南郊を埋め尽くす李の花が、吹き止まぬ春風にざわざわと揺れ動いて雨のようにはらはらと散っていく。
――私の代わりに、甘さんのために哭いてくれているみたい。
ここで泣いていてはいけない。目を上げると、李花の雲海は傾いていく西日を受けて、金色の波濤を輝かせていた。阿弥陀如来の来迎も斯くやとばかりに。
胸の奥が引き絞られるほど、美しい景色だった。
【注】
・「予悪んぞ生を説ぶことの惑いに非ざるを知らんや。予悪んぞ死を悪むことの弱喪にして帰るを知らざる者に非ざるを知らんや。驪姫は艾の封人の子なり。晋国の始めてこれを得るや、涕泣して襟を潤せり。其の王の所に至り、王と筐牀を同にして、芻豢を食らうに及びて、其の泣きしを悔いたり。予悪んぞかの死者の其の始めの生を求めしを悔いざるを知らんや」『荘子』斉物論篇より
長悟子(架空の人物)の台詞。「生きることを喜ぶのは、あるいは惑いなのかもしれない。死を嫌うのは、あるいは幼い頃に故郷を離れた人が帰郷を忘れるようなものかもしれない。例えば驪姫は艾という街の国境を守る役人の娘だった。晋の君主が彼女を攫った時、驪姫は襟が濡れるほど号泣した。しかし王と寝所を共にし、牛肉や豚肉といったご馳走を食べる暮らしに慣れると、どうして連れてこられた時に私あんなに泣いたのかしら、と恥ずかしく思った、という。つまり、死者だって死ぬ前の生きていた頃に戻りたいなどと思っていないかもしれないよ」
第一章読了ありがとうございました。
次話より第二章「佳人たちの宮裏」に入ります。ご期待ください。