第十一話 邂逅と別離
目的は果たせなかったが当面の食料は手に入れ、市場の外に待たせていた馬車まで戻って来た時。
「そこのお前。待て」
よく通る声に、蘭子は思わず飛び上がった。振り返ると、栗毛色の馬の手綱を引いた武人らしき男性が、こちらをまっすぐに見ていた。二十歳前くらいだろうか、すっと伸びた背は彼女より頭一つ分くらい高く、まだ少年の面影を多く残した精悍な顔立ちはきりりと引き締まって、厳しい印象を与えている。逞しい体躯を包むこざっぱりとした軽装は無造作だが品があり、腰に装飾の無い武骨な剣を帯びている。後ろに控えている数人の男たちは、この人の従者だろうか。
「うわぁ、男前。あたしの好みよりはちょっといかついけど」
「ちょっ…声が大きいよ」
さっそく美形発見、とぼそっと呟いた媚娘を小声で窘めていると、彼の不審そうな顔つきがさらに険しくなった。
「往来の真ん中で車を停めたままにするな。他の者の通行の邪魔になる」
どうやら決められた区画外に駐車してしまっていたらしい。蘭子は慌てて馬車を端に寄せてもらい、失礼を謝った。一礼して上げたその顔を目にした青年は眉をひそめて言った。
「お前、どうしたんだ?顔が真っ青だぞ」
咎めるでもなく問い質すでもなく、ふっと心の中に沁みてくるような声だった。不思議とそれを聞いた途端、都に入ってからずっと張り詰めていた蘭子の緊張の絃が緩んだ。
「…実は、連れが体調を崩して苦しんでいるのです。母も同然の人で…。医師に診せたいのですが、都に来たばかりで勝手が分からず、訪ねようとしていた方の屋敷に押し掛けることもできなくて。あの、ぶしつけを承知でお聞きしますが、どこか皆を休ませられそうな場所をご存じありませんか?」
――私、本当にどうしたらいいか不安だったんだ…。
自分でもよく分からないうちに、堰を切ったように次々と言葉が出てくる。知らない人なのに、目の前の青年はこちらの警戒心や構えた所を無意識に崩させる何かを持っていた。
「そうなのか?それは気の毒なことだ。病人を抱えて寝泊まりする場所が無いのはつらいだろう。もし急ぎでなければ、我が家で休んでいくといい」
蘭子は瞬きを忘れてまじまじと目の前の青年を見つめた。冗談を言っているようには聞こえない。彼女が口を開く前に、従っていた男の一人が確認した。
「公子、この者たちを太尉府に伴われるのですか」
驚いた。公子といえば貴族の子弟のことだ。見かけによらず、彼はどうやら身分の高い人のご子息であるらしい。後ろにいる媚娘が目を輝かせているのが見なくても分かる。
「いや、…青柳里の別邸に行くぞ。子廉、先に行って客を迎える準備を」
「かしこまりました」
公子とほぼ同年代くらいの男が軽く一礼し、ひらりと馬に跨ったかと思うとあっという間に駆け去っていった。
「府第の方が何かと行き届くだろうが、今日は父上がご在宅だろう。俺がまた勝手に拾い物をしたとお耳に入れば、話がややこしくなる。それに病人も居るなら静かな家がいいだろうしな」
「…公子はよく、拾い物をするんですか?」
思わず呟いた一言に、従者らしき年長の男性が大きく頷く。
「そう、棄てられた犬とか猫とか子供とかね」
犬猫に対するのと同種の親切でも、今の蘭子たちには天から降ってきたような幸運に違いない。だが言われた公子はちょっと渋面になり、うるさいぞ、と従者を睨んだ。
「ここまで聞いて、放っておけないだろう。医者を呼んで、療養する場所を用意するくらいは俺でもできる。そうだ、お前の名は?」
「え、ええと…」
まさか自分が噂の太皇太后の身内ですと言うのはまずい。せっかく屋根の下で夜を明かせそうなのに、騒動に巻き込まれると思われては追い出されるかもしれない。蘭子は迷った末、本名を名乗ることにした。
「甘橿、蘭子といいます」
公子は二・三度聞き返し、口の中で蘭子の名を何度か復唱しながら首を傾げる。
「変わった名だな。初めて聞く姓だ」
「遠い国から来たので、こちら風の名前を持ってないんです」
「そうか。…それは、苦労したんだな」
甘氏の馬車を視て、若い公子は労うように蘭子の肩を叩いた。どうやら、辺境の田舎から生活苦のために病身の母を連れて上京してきた女だと思われたらしい。大きくは間違っていないので、蘭子は敢えて訂正しなかった。安堵したらどっと疲労が押し寄せてきて、そもそも訂正する気力も無かった。
「疲れた顔だな。乗っていくか?」
公子が栗毛馬を指さす。大人しく引かれている馬は優しそうな、けれど芯の強そうな目をしていた。
「すみません。でも私乗馬はやったことなくて」
「心配しなくても俺が乗せてやる。一人だと転がり落ちそうな顔してるぞ。…そっちの女はどうする」
「あ、あたしもお願いします。もう足が棒です」
彼は先ほどの年長の従者に、乗せてやれ、と命じた。彼は手慣れた風で媚娘を抱き上げて鞍に乗せると、からかうような口調で若い主人に言った。にやりと笑うと、妙に悪人顔になる男である。
「いやいや、びっくりですね。手も握れないほど女性が苦手な五公子が、こんな可愛い姑娘を二人も屋敷に連れてお帰りとは」
「は?二人?」
媚娘と蘭子を何度も見比べて、しばし沈黙した後、公子は蘭子の顔を穴が開きそうなほど凝視した。
「お前、女なのか?」
心底驚いた様子の公子に、蘭子は顔を引きつらせて頷く。妹と病の母を連れて都に来た「少年」だと思われていたのか。悪気は無さそうなだけに地味に傷つく。
「ほらやっぱり。公子のことですから兄妹と間違えてそうでねぇ」
「子充…!お前、何で判るんだ。というかもっと早く言え!そして握れないんじゃない、握らないだけだ」
「そりゃ分かりますとも。子廉でも気づいてますよ」
「な、第一こんな短い髪の女が居ると思うか?名も女っぽい名前じゃなかったし」
蘭子は毛先だけ茶色くなった自分の髪に手をやった。あ、小姐、自棄になったからってここで解いちゃ駄目ですよぉ、という媚娘の声にかぶせて、子充という従者の堪えきれてない笑いが耳に届く。向こうの世界でも肩までくらいの長さはあったし、こちらに来てからだいぶ伸びたと思っていたが。髪伸ばそう。いや、絶対伸ばしてやる。
結局男に二言は無いということで、蘭子は公子の馬に相乗りさせてもらった。他意は無いからなと念押しした公子はさっきからぶすっと黙りこくっている。とても気まずい。
沈黙に耐えかねた蘭子は意を決して彼に話しかけてみた。
「あの、延安の街はどうしてこんなにあちこち土塀で囲まれているのですか?」
聞こえたのか、子充の馬に乗っている媚娘がそうそう、と頷いた。
「あ、それ私も思いました。道を歩けば延々と塀、時々門、て感じですね。他の都市とはちょっと造りが違うなぁ、って」
馬の手綱を繰りながら、公子は少し考えてから答えた。
「防衛のためだろうな。太祖陛下の時代には延安の城壁が無かったから、里ごとに障壁で囲って賊の侵攻に備えたと聞いている。それがそのまま残っているんだろう」
「城壁が?え、あれは後から作られたんですか?」
意外だ。あの立派な城壁は、てっきり宮殿や街と一緒に造られたのかと思っていた。
「完成したのは睿宗陛下の御世だ。皇上のご即位の後、一部修復されたが」
建国当初は都に城壁を築く予算も人手も無かったらしい。もともとこの関中は守りやすい天険の地で、いくつかの城塞と関を押さえておけば関東の諸勢力とも軍事的に渡り合えたのだそうだ。
しかし、関中内部で起きた戦はどうなのだろう。
その考えを読んだように、公子は言葉を続けた。
「とはいえ、さすがに土塀だけでは丸腰も同然だ。当時は延安に南北二つの禁軍、併せて二万五千の兵が常に駐屯し、宮殿の警護を司っていた。廃帝の頃までな」
蘭子は顔を曇らせた。禁軍。確か、周興はそれを動かして、呂氏を粛清し、少帝を弑したはず。兵馬の権を奪われれば、近衛軍も時には皇帝を殺す刃になるのだ。
「けれどもう北軍は完全に解体された。皇上が践祚なさった時点でほとんど壊滅していたが」
「壊滅…?」
「北軍は、廃帝の最も忠実な手足だった。手練れが多く、鉄の規律があったと聞いている。皇上が都に入られた折、周興の指揮下で最後まで頑強に抵抗した連中だ。降伏を拒んで殉じた者も…ああ、着いたぞ」
公子が示した屋敷は水路に面したこじんまりとした家で、門前に大きな柳の木が枝をしだれさせていた。この世界でよく見かける中庭と寝殿を長屋でぐるりと囲んだ四合院型の造りで、四隅に見晴らしの良さそうな楼閣がある。子廉と呼ばれた舎人の指示で馬車を中庭に停め、蘭子たちは切妻屋根を冠する寝殿に案内された。
「今医者を手配した。母君は奥の室へ寝かせてやれ。傷が癒えるまでこの院の内は自由に使っていい。困ったことがあれば、その辺に居る者に言うといい」
「何から何まで、ありがとうございます」
感謝してもしきれない。これで甘さんも元気になってくれるだろう。体調が良くなったら長楽宮への訪問の仕方を改めて考えればいい。
「では俺はもう行く。今日は日暮れから禁裏で宿直の仕事があるんだ」
宮仕えの官吏だったのか。そこで初めて、蘭子はまだ彼の名を知らないことに気づいた。無駄のない動作で立ち上がった彼の背に声を掛ける。
「あの、公子のお名前は何ですか?」
扉に手を掛けたところで一瞬立ち止まり、彼は言った。
「曹、仁勇だ」
◇ ◇ ◇
微かに身じろいだ気配で、蘭子ははっと顔を上げた。見回すと辺りはすっかり宵の帳が降りて、青銅の燭台に煌々とした火が灯っている。
「甘さん、気が付いたんだね。具合はどう?これ飲める?」
あれからすぐ曹家のお抱えの医師がやってきて、甘氏の傷の手当てをしてくれた。処方された薬湯を椀に注いだ蘭子は慌てて、身を起こそうとする甘氏の肩を支える。
「お手を患わせ、申し訳ありません」
「ごめんね、ここまで怪我が悪化してるなんて思わなくて…倒れるほど無理してたことに早く気づけばよかった」
大丈夫だから気にしなくていいと言ったのは甘氏だが、やはり配慮を怠ったのは良くなかった。この気丈な乳母に甘えて、自分のことばかり考えていた。甘氏が怪我を負ったのは、蘭子のせいであったのに。
ところが、甘氏が告げたのは意外な言葉だった。
「いいえ。私が意識を失ったのは、先日の負傷とは無関係ですわ」
「え?」
「小姐はお解りになりませんでしたか?…いえ、あなた様が『拒まれる』はずはありませんわね。正直に申しますと、私が延安の都に入ることができるか否か、最初から五分五分だと思っておりました」
たとえこの怪我が無くとも、と、甘氏は自嘲気味に口の端を歪ませる。
「かつて太皇太后様がこの都の城壁を築かれた時、全ての城門に呪物を埋め込んで、害となる妖物の侵入を拒む結界を巡らしたのだとか。…やはり今でもあの方のお力はご健在です。まるで雷霆のような、結界の弾き出さんとする凄まじい力…。情けないことに気を失ってしまいました」
思い出した。清明門を通った瞬間、背中がぞくりとした。気のせいかと思ったが、甘氏が倒れたのはその直後だった。
「ど、どうして妖除けの結界に甘さんが弾かれるの!?そんなのおかしい」
それではまるで甘氏が人ならぬもののようではないか。
「…巫覡とは、仕える神霊の光を映す鏡のようなもの。この完成された都城の中に存在してはならぬ不可思議の力なのでしょう。私は少し巫女である時間が長すぎました」
微かに花の香りを漂わせる灯りが、頼りなげに揺らめく。その光が生み出す陰影は、どこかこの世のものではないような冥さを宿していた。
「あの瞬く間に、体内の精気を残らず吸い上げられました…こうしてほんの一時、息を吹き返しただけでも…奇跡のようなものです」
たっぷり息を吸い込んで吐き出す。水が砂に沁み込むように、言われたことが徐々に分かってくるや、蘭子の手が小刻みに震え出した。
「言い忘れておりましたわ。もし私が城門を通った瞬間にこと切れでもしたら、小姐がお困りになると思って…長楽宮宛ての書簡を記しておきました。私の荷物の底に白絹で包んだ簡牘がございますから、それを…」
「やめて、そんなことは聞きたくない」
強い口調で遮る。嫌だ、聞きたくない。絶対に認めたくなかった。
甘氏が、もうすぐ、死んでしまうなんて。
手を伸ばして壁際に置かれた水差しを取り、水を杯に注ぐ。一口飲んだが、美味しいのか不味いのか判然としなかった。
「都には会いたい人とかいないの?家族とか親戚とか…」
これまで考えたこともなかったが、乳母に選ばれたのだから蘭子と同じ頃に生まれた子供が居るはずだ。甘氏は微かに嘲って、それでも律儀に答えた。
「家族は蕭家に務めていた妹一人です。…倅とは縁が切れました。今もどこかで生きておるやもしれませんが、小姐がお気にかける必要はございません」
「そんな」
どうしてそこまでして私を、と言いかけた蘭子を制して、甘氏は微かな、それでも強い意志を込めた声音で答えた。
「どうかお間違えなきよう。私は、私の務めを果たすことを選んで親族と別れたのです。その時固く誓いました。これから先、我が子に与えるはずだった全ての情を、小姐お一人に捧げよう、と。悔いよりも、満足がずっと大きい一生でしたわ」
螺子が切れたように牀台の枕元に座り込んだまま、蘭子は甘氏が既に己に刻々と迫る死を受け止めているのが分かった。後悔よりも満足している。そこに何の気休めも負け惜しみも無いことが、余計に悲しかった。
何か一つの選択でも違えば、生きられたかもしれないのに。
「わた…しが、こっちの世界にきて、都に、行くって、言った、から…蕭宗正にも、勝手に口答え、したり…」
「そのように仰ることなどございません。それに…」
氷のような指が、優しく蘭子の涙をぬぐう。温かかった甘氏の手。いつの間にこんなに冷たくなってしまったのだろう。
「お解りになりますか?」
懐から黒い何かを取り出す。ほの暗い光の下でそれをよく見て、蘭子は首を傾げた。
「これ、蜜柑の、皮…?」
なぜか墨で塗り潰したように真っ黒に変色していたが、微かに残る柑橘の香りでそれと分かる。
「柑子は、楚州では神事に用いられる呪力を持つ果実なのです。もしやと思って身に着けていて正解でした…結界を通って即死を免れたのは、小姐がこれを下さったからですわ」
…小姐は気づかぬところでちゃんと私をお守りくださったのですよ。
「わ、たしが…?」
「それでなくとも、小姐の優しいお心がこめられた、私の宝物ですわ。…短い間でしたが、再びお仕えでき、何よりの喜びでした」
半分こしよう。そう言って一緒に食べた蜜柑。おいしゅうございます、と言った童女のような笑顔。価値も分からぬうちに過ぎ去り、もう二度と取り戻せない日々。
「小姐、…どうかもう一度、私にお顔をよく見せて下さいますか」
最後に残った力を振り絞って、甘氏はゆっくりと手を伸ばした。この上もなく愛しげに、身じろぎも忘れて涙を流している蘭子の頬を両手で包み込むように撫でる。
「かつて呂三娘様は、あなた様が生き延びて呂氏の血が続くことがこの天下を救うのだと仰いました。私は思うのです…小姐が今こちらにお帰りになったのは天命であると…」
「天、命?」
言われたことが呑み込めず、鸚鵡返しに呟く。何かの偶然で巻き込まれただけではなかったのか。第一、天下を救うとはいったい何をすることを指しているのだろう。
「まさか。私はただの人間で、そんな大それたことが…」
「いいえ、きっと、あなた様にしかできないことがあるのでしょう。それが何かは、まだ、分かりませんが…」
優しく前髪を梳いていた手が、力尽きたように落ちた。
「私はもうお伴できません…どうか、お心を強くお持ちください」
――太皇太后様が、きっとあなたをお導き下さいます。
微笑んだ唇が動いて、そう言い残したのが最期だった。蘭子が手を握りしめて何度呼びかけても、もはや甘氏は目を覚ますことはなかった。
「甘さん…嫌だ…目を開けて…お願い、だから…」
油が尽きた燭台の灯がふっと消えた。微かな星明かりさえ届かない暗闇の室で、蘭子は乳母の亡骸に縋って号哭した。