第十話 市場にて
「いったいどういうこと…?」
蘭子一行は天朝国首都・延安の城下を当てどなくうろうろしていた。
「そう言えば、甘媽媽はどうしちゃったんでしょうね、小姐」
先ほどから暗い顔で黙りこくっている蘭子を見かねたのか、隣を歩く媚娘が話しかけてきた。晴れ渡る空に浮かぶ太陽がじりじりと体力を奪っていく。どう答えたらいいのか、そもそもどこへ行くべきなのかも分からぬまま、口にした言葉は自分でも嫌になるほど頼りなかった。
「……きっと、疲れが出たんだよ」
◇ ◇ ◇
遡ること半日ほど前。簡単に朝食を済ませた後、蘭子たちは延安都城の東、清明門から城に入った。見上げると首が痛くなりそうな高さの城壁に曙光がきらきらと満遍なく当たり、壁の上でせわしなく行き来する衛兵は玩具のように小さく見える。真上に三階建ての堂々たる望楼を備えた城門は、あたかも巨大な怪物の口のようにぽっかりと開いていた。
「いよいよだね」
春も半ばを過ぎ、朝の照り付ける日差しは暑いほどだ。蘭子は汗ばんだ手で車の手すりを握りしめた。隣では甘氏が雇い人たちと何やら交渉している。
馬車が城門の真ん中を通り抜けようとした、その一瞬。
「っ!」
戦慄が走った。まるで首筋から腰まで、背筋を氷の塊が滑り落ちていったような。声にならない声を上げて口元を押さえた蘭子の視界の隅で、甘氏の身体が糸が切れた人形のように傾いた。
「…甘さん?」
慌てて呼びかけるが、ぐったりとしたまま返事は無い。脈も微かだ。やっとのことで席に横たわらせると、額は燃えるように熱く、顔色は雪のように青白い。切羽詰まった声音に異常を察したのか、まだ残っていた使用人たちが次々に様子を伺いに来た。
「どうされました小姐」
「あの、某の給金をそろそろ」
「帰路の費えも支払って下さるお約束で」
蘭子は頬を引きつらせた。こんな時に何を言うか。
とはいえ、彼らが不周山の村からはるばる都まで来たのは甘氏に雇われたからに過ぎず、最も重要なのは約束通りの金銭が支払われるか否かだ。甘氏が居ないと勝手が分からないのは今でも同じだが、こうなっては蘭子の他に指示を出してくれる人はいない。
蘭子は腹を括り、いつも甘氏が厳重に管理していた小銭の嚢をいくつか取り出して口を開いた。
「…確かに延安には着きました。ご苦労様、ここまで一緒にありがとう。途中から同道しただけの人はもう行っていいわ。ただ目的の屋敷まで馬車が動かせないと困るし、甘さんも具合が良くないからお世話をしてくれる人も何人か残ってほしい。そうでない人はここで給金を払います。順番に並んで」
顔を見合わせた使用人たちはひそひそと何か話し合った後、ほぼ全員が報酬を受け取って去っていった。甘氏が倒れたのを目の当たりにし、面倒事に巻き込まれるのを避けたのは明らかだった。
燃え尽きた灰のように真っ白になった蘭子の下に残ったのは、若き馬丁の黎さんと媚娘の二人のみであった。
「媚娘?あなた都に着くまでって言ってなかった?美青年探しに行くって…」
「そりゃ言いましたけど、甘媽媽を看る人小姐だけになっちゃうじゃないですか。小姐ってうっかり薬草の種類間違えたり、悪徳商人におつりを誤魔化されそうで、何か放っておけないです」
そう言いつつ、視線はちらちらと黎さんの横顔を気にしている。正直だ。
「ああいう時はちゃんと名指しした方がいいんですよ。誰でもいいから残ってなんて言われたら、たいていの人は自主的に残ったりなんてしませんから。例外はこういう人だけで」
媚娘が指差した黎さんは、黙って頭を下げた。他の馬番や御者仲間から押し付けられたとみえる。
「それにあたしの勘ですけど、小姐の傍にいる方がかっこいい男の人に遇える確率が高そうなんです。というわけでまだまだお伴します。あ、ちゃんと甘媽媽の看病もしますから」
蘭子は小さく息を吐いた。先の見えない胸騒ぎの中、軽やかな玄鳥のようにぱたぱたと駆け回る媚娘が近くにいるだけで気持ちが静まってくる。
「ところで小姐はどちらへ行くんですか?」
本当のところを明かすべきか、ちらりと横たわったままの甘氏に視線を彷徨わせる。ここに残ってくれた以上、二人には黙っているわけにはいかないだろう。
「長楽宮へ」
ところが、思わぬ邪魔が入ることになった。少しでも甘氏が身体を休められるよう座席を譲って馬車の脇を歩いていた蘭子は、あちこちから耳に飛び込んでくる噂話にぎょっと脚を強張らせた。
「そういえば知ってるか。呂一族の生き残りを騙る奴が都に現れたって」
「いや、俺が聞いた話だと本物だそうだ。まだ若い男だとか」
「何言ってんの、妙齢の女の子だってさ。それも絶世の美女」
「私は仙人みたいな老爺だったって聞いたよ。本物かどうかは知らんけど」
――な、何が仙人みたいな老人よ!
当の「呂一族の生き残り」である蘭子は聞き込みをする媚娘の隣で平静を取り繕いながら、内心ひどく動揺していた。どうして、そしてどこからこんないい加減な情報が広まったのか。
「すごい噂になってますね。ここにいる人たち皆、呂小姐が長楽宮に入るのを見物に来たみたいですよ」
「どれだけ暇なのよ…」
――「呂小姐」が現れたら騒ぎになるって、本当なのね…。
遠くに聳え立つ長楽宮の大門の周囲は強面の衛兵が何人も巡回し、噂好きの老若男女が遠巻きにしている。とてもうかうか近寄れる雰囲気ではない。
甘氏の容体を考えれば無理を押して声を上げるべきかもしれないが、そもそも呂一族の女だと証明する根拠を蘭子は持っていない。唯一証言してくれる甘氏が意識を失っている状況で、太皇太后への面会を求めて容れられる自信はなかった。そこに加えてこの流言飛語である。とうてい信用されるわけがない。
蘭子は力なく首を横に振り、黎さんに合図してその場を後にした。
「弱ったな…」
片側四車線くらいありそうな広い並木道が街を縦横に走り、右にも左にもひたすら土塀がまっすぐ続いている。ところどころに造られた門の前では、着飾った門番がある者はしゃきっと佇み、ある者はまだ眠そうに掃除をしている。時折すれ違う馬車や牛車は大きく贅沢で、お付きの者たちを大勢従えていた。媚娘によると、この辺りは尚冠里といわれる高級住宅街らしい。
延安城内は里という街区ごとに塀で囲われており、役所や商店もそれぞれの区画の中に集められて、やはり門からしか出入りできないようになっている。蘭子の知る都市のように、大通りに面して住宅や店舗が並んでいる光景は全く見られない。道に案内板や標識もないため、迷ったら歩いている誰かを捕まえて尋ねるしかないだろう。
「これだと、どこに行けば何があるのかさっぱりなんだけど」
どこか宿泊施設に入って甘氏を休ませたいのだが、この国の首都は宿らしき設備が無い。そもそも観光客というものを想定していないようだ。
鴨が泳いでいる水路を渡ってから、急に街の雰囲気が雑然としてきた。庶民の生活圏に入った途端、道行く人の装いも顔つきまで違う気がする。さっき通った橋の下には何日も着替えてなさそうな子供が荷物ひとつ持たずに寝転がっていた。何人も。胸が痛んだが、このままでは蘭子たちにとっても他人ごとではない。日が暮れるまでにどこか屋根の下に入れなければ、都の中で野宿確定だ。
「都って、泊まる所ほんと無いのね…皆どうしてるの」
「ええと、市籍を持ってる商人は市場の中に宿泊するんです。公務で上京した官吏は郡邸っていう寮があって…」
「普通の人は?」
「ええと、あたしが昔来たときは父の知り合いの家に泊まりました。皆そんな感じだと思いますよ」
その人の家でしばらく滞在させてもらえないかと言いかけ、すんでで言葉を呑み込んだ。家出した媚娘に父親の伝手を使わせるわけにはいかないだろう。
「帝都に親戚も知人も無い人は、住み込みで働ける家を探して雇ってもらうんです。市場に行くと雇肆っていう紹介所が在って…あたしもそのつもりでしたけど」
求人の応募を仲介する店らしい。ハローワークみたいなものだろうか。
「じゃあ、そこに行ってみようか」
だが結論から言えば、収獲はなかった。
「…媚娘、どうだった?」
「こっちも駄目です。こんな条件が厳しいなんて」
黎さんと甘氏を馬車に残し、手分けして片っ端から雇肆を覗いてみたが、全滅であった。商家や下級官吏の使用人募集は多いが、病人を抱えた少女を受け入れてくれそうな家は無い。経済的余裕がありそうな高官の屋敷からの求人は身元検めが厳密で、素性をぼかす家出娘と呂氏の生き残りにとってはきつい。特に媚娘は危うく南陽の実家に通報されかかり、血相を変えて鄧家とは無関係だ赤の他人だと否定していた。
ため息も足取りも重いまま、二人の少女は物売りと買い物客でごった返す雑踏を抜けて、市場の門へ向かっていた。
「あれ、また人だかりができてる」
人気商品の売り出しでもあるのだろうか。何気なく近づいた蘭子は最初何が見えたのか理解できなかった。
「死刑が行われるみたいですよ、小姐」
竹柵を取り囲む見物人の隙間から、髪を振り乱した粗末な服の男が一人、台の上で腹ばいに押さえつけられているのが見えた。ごっそりと肉が削げ落ちて年齢も判然としない顔は、観念したのか叫び声一つ上げない。それが不満なのか、観衆が口汚く野辞を飛ばす。
「皇上が御位に就かれてからだいぶ減ったみたいですけど、やっぱりあるんですね」
「ど、どうして…死刑なんて、刑場で…こんな市場の中で…」
混乱したままの蘭子を不思議そうに窺った媚娘は、大して興味もなさそうな目で哀れな死刑囚を一瞥した。
「公開処刑は、だいたいどこの街でも人がいっぱい集まる市場に刑場が作られますよ?娯楽代わりに毎回見物に来る変人も居ますし」
目の前の刑場は一軒の家が余裕で建ちそうな敷地で、ぽつんと一つだけ置かれた処刑台には不釣り合いなほどだだっ広い。数十人の兵が矛を携えて辺りを鋭い目で警戒しているにも関わらず、柵の外の見物客はまるでパレードが通るのを待つような感覚で群れている。
「…今日のは殺人犯でも盗人でもないってさ」
「あれでも元お役人様だとよ。賄賂取って丞相府の機密を横流し…」
「御史台の監察が入る前に発覚したそうな。張丞相はやり手だから…」
「…へえ、さすが父親譲りの辣腕家だな」
「そうか?どうも肝心の黒幕までは丞相でも追及できなかったらしいぜ。こいつぁ蜥蜴のしっぽ切り…」
「しっ、滅多なこと言うなや…始まるぞ」
蘭子は足が縫い留められたように立ち尽くした。野次馬の無遠慮且つ無責任な会話が切れ切れに耳に入ってきたが、まるで意味が分からない。一目散に逃げだしたいのに、どうしても目を背けることができなかった。隣にいる媚娘の声さえも聞こえなくなる。
汚職官吏だったという男は踏みにじられたぼろ布のような姿で、頭上に振り上げられた大きな鉞を見上げた。途端、男の目が恐怖に見開かれ、獣じみた奇声を迸らせる。
「っ!」
一瞬だった。暴れる間もなく、死刑囚の首が断末魔ごと断ち切られた。
赤い血が跳ね、頭部が転がった時、何か全然違う光景が見えた。泣き叫ぶ声、苦痛と恥辱に歪んだ顔、獄吏の手で次々首を落とされていく老若男女。薄曇りの冬空に翻る旂に書かれた字は、「誅戮呂賊」。
…お父さんもお母さんも兄姉も、あの中に居る。
「小姐!?ちょ、しっかりしてください」
媚娘の声ではっと我に返る。晴れた昊の下の刑場に横たわる死体は、一つだけだった。
「いや…こんなの、や、め…て…」
怖いほど生々しい、白昼の悪夢。何も見たくない、聞きたくもない。足から力が抜け、蘭子は頭を抱えたまましゃがみこんだ。目を閉ざすと先ほどの光景が甦り、吐きそうなほどぐるぐる眩暈がする。
ふと気づくと、傍に座った媚娘がぎゅっと手を握ってくれていた。
「大丈夫、大丈夫です。朝ご飯が早かったから、きっとお腹が空いて気持ち悪くなっちゃったんですよ。たくさん歩きましたし」
「媚娘は…平気なの」
やっとのことで絞り出した声に、媚娘は困ったように目を伏せ、あたしは少なくともあれよりも嫌なものを知ってますから、と呟いた。これまで見せたことのない表情だった。蘭子は瞠目して、どう言葉を掛けていいか迷った。
しかし気持ちを切り替えるのが早い媚娘はすぐに明るく笑って、腰が抜けたままの蘭子を助け起こす。その手が今は心強かった。
「媚娘。私…あなたが一緒で良かったわ」
独りだったら、刑場の前から誰も居なくなってもこのまま立ち上がれなかったかもしれない。
「やだ、小姐、いきなり何言うんですか」
照れるじゃないですかところころ笑いながら、媚娘は財布の中の小銭を計算している。
「あたしもお腹空きました。とりあえずご飯買って、車に戻りましょう。後のことは後ですよ」