第九話 Reasons
『―――以上でここ最近のことは話したかな。隼人君、大分駆け足気味だったけど、これで良いかい?』
「ええ、夜分遅くに報告ありがとうございました。充分貴重な情報でしたよ。手持ちのネタと合わせれば、かなり幅が広がるかと」
雑居ビルの屋上で、隼人は今スマートフォンで柔らかい声の中年男性と会話していた。相手は一般社会の住人であり、真影家の事情を知る外部協力者である。彼は魔術や神秘を知らない遠縁の親戚として、この赤月市に住んでいた。
辛うじて魔術が使える傍系の一族や、かつて呪術や魔術を真影の者から学んだ弟子とその子孫、そして一般社会へ溶け込んだ裏の事情を知る常人。隼人は自身が生死の境をさまよい、そして吸血鬼として衝動に飲まれていた間に起きた事に関して情報を集めていた。故にそのような古くからの伝手を駆使し、各所へ連絡を取っていたのだった。その甲斐もあって、彼はエリシアと行動を共にし始めた昨夜から―――凡そ二十四時間の情勢の変化を掴む事が出来ていた。
『それは良かった。ところで話が変わるけど、君の家、大丈夫だったかい?確か昨日、そっちの方で火事が起きたって小耳に挟んだんだけど』
「ああ、すみません。それで音信不通になっていたんですが、どうもご心配をお掛けしました。こちらは何も問題ありません、今起きている事態へも恙無く対処してみせます」
どの口で言うのかと、彼は自嘲する。だが、今この瞬間に対外的な対応を取ることが出来るのは隼人しかいなかった。父も母も死に、今や真影一派の魔術師を率いるのは次期当主だった彼の役目である。だからこそ、彼は末端の構成員に無駄な不安を抱かせぬように虚勢を張るしかなかった。
「それではこの辺りで。これから少々街が騒がしくなるかもしれませんので、以降の外出はなるべく控えてください。情報収集も打ち切ってくれて構いませんから」
『分かった、隼人君も気を付けるんだよ。ああ、そうそう。鷹矢―――君の親父さんは元気かい?』
「それは―――」
君の親父さんとは古い仲なんだと続けられた言葉に、少年は息を詰まらせる。父たる『真影鷹矢』は既に殺されていた。彼はその事を告げるべきか一瞬だけ迷い、すぐに元気だと答えていた。自身の役目を考えれば、今はそう信じさせておくべきだと判断したからだった。
「今は色々と忙しいそうなので、久しぶりに会いたがっていたと伝えておきます」
その台詞を、彼は無理矢理にでも絞り出す。努めて穏やかに、悲しみも怒りも出さず、ただ礼節の一環として隼人は口を動かした。対する男性はそれに気が付くことなく、普段通りに通話を終わらせる流れになっていた。
「情報提供、ありがとうございました。それでは、また」
少年は黒いスマートフォンの画面をなぞり、電話を切る。彼の瞳には涙が滲んでいた。それによってぼやけた視界には、丸く歪んだ街の灯りが眩しく咲き乱れている。それを指でさっと拭って、彼は携帯端末を眺める。
『―――行方不明者も続出しているのは知っているかい?昨日の夜からは、特に若い女性が急に増えていてね。警察はどうも遺体としてまだ発見されていない、路地裏惨殺事件の被害者という線で当たってるみたいだね』
隼人は様々な人物への電話のついでに、妹『優理』に電話を掛けようかと思っていた。それは先程の電話で、そんな不審な情報を得たからではない。それよりも前から、彼は電話をするべきだと考えていたのだ。だが、結局はそうしなかった。何故なら一度家に帰った際にも、そして教会へ攻め込みに行った際にも、事前に通話アプリで連絡を何度も入れていたからだ。無論、彼女は電話には出なかった。そしてメッセージにも、確認したという証のアイコンが付く事が無かった。
「あいつはきっと無事だ、死体が家に無かったんだからな。今は逃げた先で潜伏していて、返事を寄越す余裕も無いに違いない。そうさ、そんな訳があるものか。優理とて俺と同じ、真影の血と業を継ぐ者なのだから」
画面が消えた端末をただ見つめ、己にそう言い聞かす隼人。されどもそれはただの強がりに過ぎない。その証拠にスマートフォンを握る手は震え、鋭く変質した犬歯が唇から覗いていた。
「優理、お前は一体どこにいるんだ……肉親と呼べるのはもう、俺達二人しかいないんだぞ」
少年が思わずそう呟いたその時、黒い鏡に映った己の顔に妹の顔が重なる。しかしそれはすぐにぐにゃりと歪み、その半分が教会で見た謎の女のものとなっていく。そのフードの中から覗く唇からは、今の隼人と同じ鋭い犬歯が―――。
「違うッ!アレはあいつじゃないッ!!」
隼人の形相が憤怒に染まる。彼は衝動的に携帯端末を掲げ、力任せに地面に叩き付けようとして―――我に返った。どうしようもない怒りに任せて貴重な連絡手段を壊してしまうのは、全くの愚かな行為としか言えないからだ。
「優理は、優理は、あいつは人間のままの筈なんだ……だから違う、あの女は全くの別人だ。俺の眼の錯覚、まやかしに違いない。それに悪夢は所詮悪夢だ、引きずるんじゃない」
そう自らに言い聞かせるように呟いた所で、背後の方から足音が聞こえてくる。コンクリートを穿つように響くそれは、エリシアのヒールが奏でたものに違いなかった。隼人は振り上げた手を下ろして、慌てて何事も無かったかのように手元のものをポケットに入れる。
「何か進展はありまし―――」
錆びた鉄のドアが開かれる。そこから聞こえてきたのは、命の恩人である金髪の吸血鬼の声だった。それは丁度、少年が深海のような濃い青色のジーンズの右ポケットに、右手のスマートフォンを突っ込んだ瞬間だった。
「―――どうかしましたか、真影さん?」
首を傾げる彼女に対し、振り返った隼人は首を振って誤魔化すように言葉を紡ぐ。
「いや、何でもない。そちらこそどうしたんだ?もう少ししたら、部屋に戻るつもりだったんだが」
「……そうでしたか」
たった一言。それだけを口にして、彼女は口を噤む。何か言いたいことがあったのだろうが、聡明な少女は隼人が置かれている状況から心情を察して黙ったのだ。隼人は罰が悪そうに頭を掻いて、エリシアに謝罪を述べる。
「すまない、長電話が過ぎたな」
「いえ、気にしないでください。少し話したいことがあって、来ただけですから」
瞳を彼から逸らし、少女はそう口にする。彼女が見ていたのは寂れた街の暗い輝き。白い疎らな光と、丸く幽かな月明かりに照らされた横顔。隼人はそんな白磁の陶器が如き少女の顔を暫し眺めていたが、やがて同じように街の灯りの方へ向くことにした。
「あー、そうだ。このシャツとジーパン、買ってきてくれてありがとな。制服はもう使い物にならない位に破けてたらから、助かった」
「それもどうか、お気にならず。医薬品を買ったついでに、大手量販店に寄ってきただけですから」
再度訪れた静けさ。気まずさを打破するために隼人は雑談を振ったのだが、結局は元の木阿弥に終わってしまった。彼はもう一度頭を掻き、静寂に暫し身を委ねることにした。
今二人の目の前にあるのは、一桁では済まない数の人が無惨に殺された街、一夜に二度の火災が起きた地域。魔境と化してしまった、ごくありふれていた筈の故郷。そんな世界の夜景だった。
赤月市は少子高齢化の煽りと枯れ逝く地方経済を受け、我先にと沈む船から逃げるように若人が出て行く小さな都市だ。平成の始まり辺りから殆ど変わらないこの街では、そんな異常事態の中でも何時も通りの寂しい営みが行われている。ここ緋野ヶ丘から遠くに見える繁華街、紅大橋が見せる眩しさがそのなによりの証拠だった。隼人はふと、そんな感傷を覚えながらただ夜風に当たっていた。
「……その、もう分かっているとは思いますが」
彼女の申し訳なさそうな前置きで、唐突に話が始まる。少女が顔を合わせないのは兎も角、少年もまた声の方を向こうとしないのは―――やはり、やり場のない想いが強く重く心の内に影を残しているからだろうか。
「俺の身体のこと、だな」
「はい。真影さん、今のあなたは、もう―――」
「―――『人間』じゃない、そうなんだろ?」
息を呑んだ音がやけに大きく聞こえる。隼人は何げない口調でそれぐらい分かるさ、と続けた。
「俺は教会で殺された……ああ、いや。少なくとも、かなりの致命傷を負ったのは確かだった。でも、俺は生きている。昨日の夕方にはもう辺りを朦朧としながら、渇きと暑さに耐えかねて徘徊出来るぐらいには回復していた。けど俺は、あの時両方の肺を何かで貫かれた筈なんだ。最低でも出血多量で瀕死状態、最悪ショック死でもしてなきゃ可笑しいだろ、そんなの」
そして―――そう言って言葉を区切った彼は、己の掌を空に翳す。そこにあるのは普段通りの人の手に他ならないが、彼には昨日の記憶にある異形の手がそこに重なって見えていた。
「それに昨日の戦いの最中、俺の四肢はまともなヒトのモノではなかった。皮膚は影みたいに黒くて、その上から外骨格のような赤い甲殻が被さった異常な姿。あの男がそれを見て口にした、『ヴァリアント・ダムピール』という言葉。それにこの長くなった犬歯も。なぁ、ミラカミラさん。俺は吸血鬼になったんだろ?」
「はい。あなたは後天的吸血鬼、ダムピール或いは魔人になりました。私が、そう変えてしまったのです」
隼人もエリシアも、未だに向き合わずにいた。だから隼人には少女の頬を伝う涙は見えず、エリシアには少年が月を潰すかの如く拳を握った事が見えない。それでも少年は、少女の声色から何が言いたいのかは察する事が出来ていた。
「でも―――」
故に隼人は、少女の震え声を遮らない。今は黙って、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「―――出来ることなら眷属なんて造りたくなかった。真影さんから人間としての生を、日常を奪いたくなかった。けれどあなたを、巻き込んでしまったあなたを死なせたくはありませんでした。死にかけた真影さんを生かすには、そうするしかなかった」
だから自らの醜いエゴであなたを同族にしてしまった―――エリシアは俯いてそう口にした。隼人は突き上げた右の拳を胸まで下ろし、左の掌で強く包み込む。そうして白いシャツ越しにぴたりと当て、倒れた十字架のような傷跡にそれを重ねる。
「ヒトとして死ぬか、ヒトであることを喪って尚も生き続けるか。そのどちらが幸せかなんて、生きている間には絶対に分からない」
「―――えっ?」
金髪の束が跳ねて、赤いケープの裾が金属の柵と擦れ合って幽かな音を立てる。少女は思わず隼人の顔を見つめていた。エリシアは昨夕の様子から、隼人は自分を許さないだろうと思っていた。
何故なら彼は、己から何かを奪う者へと激しい憎悪を向けていたからだ。故に己を攻める言葉が出てくるものとばかりに、彼女は瞳を閉じていた。そうやって罵声が聞こえてくる瞬間を待っていたのである。
「何が幸せか、何が生きる意味だったのか―――なんてさ、所詮は自己満足なんだよ。死ぬ間際になって、自分勝手に漸く気が付けたって思い込む。そんなものだと俺は思う」
しかし彼から聞えてきたのは、明確な断罪の意志ではなく大分哲学的な言葉。そんな予想外な言葉が聞こえて来たことに、エリシアは目を丸くしていた。わざわざ背けていた顔を向ける位に、彼女は衝撃を受けたのである。
「まあ、確かに。あのまま死ねれば、俺は人間として眠りに付けたかもしれない。辛い喪失感と共に、これからを生きて行かなくて済んだのだろうな。そういう意味では、俺は幸せを喪った訳だ。けれども、死人に探し物は出来ない。そうだ、出来ないんだ。絶対に大切なモノを再び抱きしめることは叶わず、奪われたことへの怒りも喪ったことへの悲しみも、全て残らず消えてしまう」
「で、ですが!あなたから様々なモノが奪われたことには、わたしにも責任が―――」
「―――眼には眼を、歯に歯を。前にそう言っただろ?奪い返すことが出来るのは、現に生きている者だけ。復讐をどれだけ望んでいたとしても、命が無ければそれは果たせない。勿論、罪の償いもな」
隼人もまた少女に向き直る。その顔には影のある微笑みが浮かんでいた。それは今の彼に出来る、精一杯の気遣いだった。決して責める気は無けれども、口にしたのも嘘偽りの無い本心であれども、少年は一度にあまりに多くのモノを喪った。怒りも悲しみも、最早彼に背負える許容範囲を超えていたのだ。それでも隼人が笑顔を見せるのは、一重に罪を独りで背負おうとする恩人へ少しでも報いたかったからだ。
「だから俺は、その点ではミラカミラさんに感謝している。俺を生かしてくれて、機会を与えてくれて、ありがとうってな」
「っ―――真影さん、あなたは」
そしてその光の中にある暗さに木が付けたが故に、エリシアはその先の言葉を飲み込んだ。己のために無理して笑っている者に対して、その訳を聞くのは彼女にとって野暮な愚問だったのである。そうやって少女が黙ったことで、隼人は冗談めいた軽い声色で言葉を続ける。
「まあ、この先どうすれば良いんだろうなという悩みは尽きないが。先程試してみたが、前ほど魔術が上手く行使出来なくなっていてね。多分、体内の魔力を引き出せなくなっているらしい。だから昨日の―――初めて異形化した時には何気なく使えた術式も、今や通りが悪くなって発動しないんだ。感覚さえ掴めれば、どうにかなりそうではあるけどな」
「……門外漢なので推測ですが。それは恐らく体内の寄生生命体が増加し、肉体がより吸血鬼に近付いたからでしょう。先日も言った通り、外来種たる吸血鬼とこの星の理は、相性が悪いので。だから、魔力が上手に扱えなくなってしまったのだと思います」
「ああ、やっぱりな。道理で通話用の術式が使えなかった訳だ」
納得が行ったと彼が顔色を明るくすると、エリシアは逆に暗い表情を浮かべていく。彼がどうかしたかと聞くと、少女は震える声でそれに応じた。
「それもわたしのせいです。吸血鬼に変えられたことで魔術の才が失われたのも、全部わたしの―――」
「いや、それは違うな」
下を向いて放たれた自責の念を隼人は強く遮る。だがそれは、彼にとっても思いがけない位大きな声になってしまったらしい。少年は罰が悪そうに頭を掻いて、その先を落ち付いて話し出した。
「君に罪があると言うなら、俺だって同類だ。俺は私怨に身を任せて、多くの無関係な者を殺してしまった。それに君の忠告をきちんと聞かなかったから、結果的にこうなったんだ。ミラカミラさん、君は馬鹿な俺を助けようとしただけだ。そして運の悪い事に、そうするには俺を吸血鬼に変えるしかなかったというだけの話さ。人間で無くなったのも、魔術が使いにくくなったのも、それは俺に対する罰であって君のじゃない」
そこで再び口を閉じ、彼は身体ごとエリシアの方を向く。顔からは微笑みも苦笑も消え、ただ真剣なまなざしの中では不屈の意志が燃え滾っている。隼人が再びビル街に視線を戻せば、そこには彼が守るべき人の営みが小さくも煌々と輝いていた。
「そりゃあ、見つけようと思えば幾らでも罪状は増やせる。けれど、今やるべきことはそうじゃない。俺達は戦わなければならないんだ。そのためにはまず、俺は俺自身のことを知らなくちゃならない。吸血鬼として何が出来て、何が出来なくなったのか。吸血鬼相手にどう戦うべきなのか。だから―――」
「―――だから今は後悔している場合じゃない、そう言いたいんですね」
そして、それを目の当たりにしたエリシアの心にも光が戻る。元来責任感の強い彼女の中で、隼人への償いと人間を守るという使命の二つが前を向く為の力として増幅されていく。そうなれば後はもう、俯いていた顔は上がるだけだった。
「わかりました、罪の清算は全てが終わってからにしましょう。真影さん、わたしがこれからあなたに吸血鬼としての生き方、そして戦い方をお教えします。その代わりに、わたしたちの戦いに……どうか手を貸してくれませんか?」
「ああ、よろしく頼む。街のため、友のため、そして家族のために……俺と一緒に戦ってくれ」
そうして、どちらからともなく二人は手を差し伸べ合う。二日前に自己紹介を交わして行動を共にするようになったというにも関わらず、ここに来て初めて彼らは握手をしたのである。
「それと、その……ついでに、もう一つお願いしても良いでしょうか?」
「どうかしたのか?」
白い指で隼人の掌を握った少女は、そのまま小首を傾げる。若草のような色の曇りの無い瞳で、エリシアは隼人の黒い眼を正面から覗き込んでいた。
「わたしのことはどうか、エリシアと呼んでいただけませんか……?」
ミラカミラという家名は嫌いだと付け足されたその懇願に、少年は戸惑いを隠せない。何故なら彼は家族以外の相手を呼ぶ時に、代名詞か苗字しか使ってこなかったからだった。
それは何も、距離を置いた人付き合いをしていたからという訳ではない。何となく、彼にはその方がしっくりきたというだけの事。だから隼人は、己の狼狽ぶりに自分でも笑いたくなっていた。
「それは……何というか、そう、あれだ。出来る限りの善処をしよう、ミラカ―――失礼。エリシア、さん」
「ふふっ、おかしな人ですね。本人がそう呼んで欲しいと言っているのですから、何の気兼ねなくそう呼んで下さいな―――隼人さん」
「揶揄うのは止してくれ。これでも大分頑張った方なんだよ」
上品に口元へと手を添えて笑う少女と、赤みの差した顔を背けた少年。今この瞬間だけは修羅の道を共に行かんと決めた者ではなく、親しき友としての空気が彼らの間を流れていた。それは晴れた真冬の窓際で感じられる、束の間の暖かさに似た安らぎだったに違いないだろう。
対等な環の繋がりがなかったエリシアと、その内側で独り疎外感を覚えていた隼人。お互いにとって、初めて同等の目線に立って接する事が出来る相手だった。
「んんっ―――早速で悪いが、吸血鬼に関することで質問があるんだが」
「ええ、どうぞ。なんなりと聞いてください」
隼人が気恥ずかしさを誤魔化すようにわざとらしく咳を払うと、エリシアはくすりと微笑み軽やかな口調でそれに応じる。それが余計に彼の羞恥心を擽り、尚更彼は早口に一息で言葉を口にする羽目になっていた。
「君も俺も、夕日の中で普通に動けてたよな?俺は少しだるいぐらいだったが、本来吸血鬼は日光を浴びたら死ぬんじゃなかったか?」
それは自身の弱点の確認だった。今の隼人は後天的吸血鬼たる魔人、その中でも特異事例の異形変異態と化していた。だが、その体質が吸血鬼のものへと変化を遂げたことに変わりはない。始めの動機はともあれ、それは知っておかねばらない情報である。それ故、少年は最も有名な吸血鬼の弱点―――日光について聞いたのである。
「それも中世頃までの話ですね。力が弱まる事はあっても、流石に日差しだけで灰になるような同族はもういませんよ」
隼人はその説明に既視感を覚え、一瞬顎に手をやって己の記憶を想起させる。デジャヴを感じた原因は、すぐに思い当たった。それは両親の死と我が家の焼失の直後に聞いた、聖秘術と魔術が吸血鬼に通用するかどうかの講釈の事だ。
「ああ、前に言っていたな。確か人間の遺伝子で進化したという」
「はい。他にも流れる水が駄目だとか、ニンニクが魔除け代わりに使えるというのも、同様な理由からもう聞きませんね。まあ、ニンニクは食べたくないという声は未だにありますが」
艶やかな唇に人差し指を当てて、彼女はそこから言葉を続けていく。純粋種の吸血鬼曰く、聖秘術や光属性の魔術、心臓の破壊と断頭の組み合わせ、そして再生能力を上回る程に著しい損壊といった手法は未だに有効とのことだった。
「案外脆いものなんだな―――あ、いや。首や心臓は人間でもアウトだし、魔術で死ぬのも同じか。寧ろ、それ以外の傷では殺し切れないしぶとさを評価するべきだな」
「そうかもしれませんね。あとは血―――それに含まれる特定のタンパク質を摂取しなければ、栄養を得られないことも欠点でしょう」
「吸血か。だが、それには代替手段があると言ってなかったか?」
「ええ。重要なのはそのタンパク質を得ることであって、血そのものである必要性はないんです」
ただし、と口にして言葉を区切ったエリシア。その顔には、何処か影が差し込んでいた。
「人類の血液のソレは、他から摂取できるソレと比べて栄養価がかなり高いんです。わたしは血を吸わない―――正しくは吸えない体質なのですが、人間で言う所の貧血のようなものをそのせいで患っています」
「血を吸わないじゃなくて、吸えない?それは、一体―――」
隼人はその言い回しに訝しんだ。吸血鬼とは、読んで字の如く血を吸う鬼のこと。鬼とはこの場合、人外の異形全般を指している。ならば血を吸えない異形の者は鬼であっても吸血鬼に非ず。それ故に矛盾の塊だと彼は思っていた。
だが事実は小説よりも奇なればこそ、時に例外が産まれる。隼人の目の前にいる少女は、まさしくその生ける典型例。エリシアは白い顔に昏い笑みを浮かべ、自嘲しながら口を開いた。
「サングィス・フォビア、吸血鬼が極稀に発症する先天性の病のことです。血を摂取すると、強い吐き気が生じるのが主な症状ですね。普通ならば抗い様の無い快楽を得られる筈なのに、わたしはそれと共に苦痛も感じてしまうのです」
「ラテン語と英語の組み合わせだな。何でそんなチャンポンな命名をしたのか知らんが、日本語で言うなら『嫌血症』と言った所か。それはまた、随分と難儀な体質―――」
そう言って、隼人ははっとする。他人のコンプレックスを茶化したのは、我ながら無神経が過ぎるという道徳観念が脳裏を過ったからだ。そのことに対して慌てて謝罪を口にするも、彼女は気にしていないという素振りをその白い手で示した。少年はそれに胸を撫で下ろすと、一呼吸間を置いてから口を開く。
「それで、起きるのは吐き気だけか?アナフィラキシーショックみたいに、死にそうになる訳ではないと」
「ええ、死にはしませんが……快楽はそのままなのです」
肯定の後の否定。一旦は頷いた彼女だったが、視線を下ろすことで寧ろそれこそが一番の問題だと言外に主張していた。
「血から得られる一瞬の快感と、その後に来る久遠の苦痛。内側からこみ上げてくる熱と、それを今すぐにでも外へ捨て去りたくなるような不快感。たった数秒間の前者と、持続して味わわせられる後者。それを避ければ常に餓えや渇きに直面し、疲労は蓄積するばかり。血を飲みたくて堪らない人達には―――その苦しみは、絶対に分かりませんよ」
「それは……そうだな。確かに、死ぬよりも辛いかもしれない。生きるために必要な行為で、苦しみを覚えるなんてさ」
「皮肉なものでしょう?吸血鬼の癖に、血を受け付けないなんて。純血の恥晒し、貴族の鼻つまみ者、出来損ない、一族の汚点。そう後ろ指を指されて我が身を呪って……そんな風に同族の世界で過ごしていたのは、もう百年以上も前のことです」
隼人は同情の意を示したが、対するエリシアは己を蔑む嗤いを浮かべていた。そこから俯いたまま綴られる言葉は、彼には何処か震えているように感じられた。
「……それが君の原点か。人との共存という理想を叶える戦いの裏には、自らが血を吸わなくて済むようにという理由があったんだな。反戦線派をまとめ上げたのは、己が利益のためでもあったと?」
「はい。最初に立ちあがった理由は、隼人さんの言う通りのものでした。でも―――」
「でも?」
隼人が聞き返すと、エリシアは一度口を閉ざす。訪れた数秒間の沈黙に、隼人が再び彼女の方へと視線を戻すと―――少女は瞳も閉じていた。
「―――それがやがて、同じ姿形をした別種の生命を傷付けたくないという想いに繋がりました。血で得られる二律背反の感覚だけでなく、血を吸うという行為そのものへと嫌悪感を抱くようになったのです」
「ひょっとして、その体質の者は君以外にも……?」
「勿論、少ないながらもいますよ。だから、始まりはそうした人達との助け合い……互助会のようなものでした。それが吸血鬼戦線への反抗勢力に変わったのは、わたしたちが大規模な迫害を受けたのが大きな理由でしょう。服従を選んだとしても、一生を苦しみの中で生きる事になるなら……と、抗う道に舵を切る事になったのです」
そう言うとエリシアは瞳を改めて開き、彼の両目を確と見つめる。鮮やかな緑の輝きを直視した隼人は、その内にある揺るぎない覚悟をその光源として感じ取っていた。その眩しさと己の胸の内の炎の明かりを比べて、彼は息を吐くように自嘲する。
「強いな、君は。もしそれが俺だったのなら、きっとそんな大義には辿り着けなかっただろうさ。精々、報復を代弁するのが関の山だな」
「ふふっ、隼人さんだって充分強いですよ」
だが、少女はまるで女神のように微笑んだ。隼人はそれに驚きを隠せず、思わず目を丸くしてしまう。エリシアはそれが面白かったのか、より笑みを強めて言葉を続ける。
「他人の怒りや悲しみを背負う象徴になるのでしょう?それはわたしと同じで、誰かのために立ち上がるということではないのですか?」
「それ、は―――ああ、一本取られたな。やはり君の方が強いよ、俺の何倍も」
二人は互いに見合わせて、ささやかに笑う。それは地獄の中に咲いた一輪の花、或いは砂漠で見つけた小さなオアシスのように―――彼らの心に暖かさと安らぎをもたらしていた。
天より降り注ぐ月光の下で、少年と少女はそれから暫し談笑を続けて精神の疲れを癒した。艱難辛苦に満ちた戦いがすぐ傍に迫っていることを、隼人もエリシアも肌で感じていたからだ。