第八話 夢現ノ刹那
『真影君の将来の夢ってなに?』
かつて、雑談の種として友から投げかけられたその言葉。少年、真影隼人はそれに返す明確な答えを持っていなかった。何故なら彼が魔術師だからだ。魔術師にとっての夢とは、魔道を究めることである。即ちこの世界の神秘を解明し、一族が編纂する魔導書にその成果と名を記すこと。或いは継承してきた叡智をより磨き上げ、次代へと託すこと。魔術師の一生は、そんな先祖代々からの大願を成就するためにあると言えよう。
そこに個人としての願望は無く、『夢』などという青い理想が介在する余地すらも無い。いや―――その悲願の原典が夢であったとしても、家の名と共に親から子へと縛り付けられた瞬間から、それは最早達成するまで逃れられない宿命となる。魔術師の血は呪いのようなものであり、蓄積によって濃縮されていく淀みでもあるのだ。
『さて、何だったかな。あまり真剣に考えた事がないから、忘れてしまったよ』
故に、少年は言葉を濁した。神秘渦巻く裏社会で生きねばならない彼と、科学に基づく表社会を生きる一般人の友。裏の事情を表に知らせる訳にはいかず、隼人は己の忘却を理由に誤魔化したのである。その間にある壁は、正しく世界を断絶させる規模のモノ。魔術師の中には一般人のいない、魔術師だけの学校に子息を通わせる者もいる。されど、真影家は表社会において地主の一族という側面も持っている。それ故、表社会の常識を知っておく必要があった。だから隼人は、大きな秘密を抱えて異なる日常に交わらなければならなかった。
そしてそれは、何も夢に限った話ではない。日常で普通に行われる会話全般において、隼人には嘘を口にせざるを得ない局面が多かった。彼の周りには少ないながらも友人がいたが、常に孤独を覚えていた。しかし、それでも普通の日常が持つ温かさを知れる数少ない瞬間ではあった。自分が人間らしくいられる、僅かな一時だったのだ。魔術師でない人々との交流は、彼にとって平穏の価値を教えてくれた尊いものであった。
だから少年は戦えた。根差した土地の裏を管理する魔術師としてだけでなく、故郷を愛する『人』として隼人は刃を抜けたのだ。何時だって、彼は魔術も神秘もない平凡な人生を壁の外からありがたがっていた―――それこそが自分の欲するものだと、己の身の上を嗤いながら。例えそこに居場所が無くても、ありふれた日常が見える場所に身を置けるだけで彼の心は満たされていた。そう、それだけで良かったのだ。故に隼人はその時の記憶を胸に、そんな光景を魔術師として守らねばならぬと決意していたのである。
『―――君、真影君。ねぇ、真影君ってば!』
己を呼ぶ声に、少年は瞳を開ける。そこにはありふれた日常があった。ここは学校、隼人が通う唐暮高校の三階、二年五組の教室。その窓際列の中腹にある自身の席で、彼は三人の友に囲まれていた。教室の入り口近くにある時計を見やれば、時刻は四時五分前。どうやらホームルーム後にしていた雑談の途中で居眠りをしていたらしい―――と、少年は内心で苦笑する。
「さてはお前、徹夜でゲームでもしてたな?」
「大丈夫?」
君じゃああるまいし、それはないなと隼人が返したその先は『日野京司』。そして彼の体調を案じていたのが『葉月香織』である。日野は男子生徒の中で隼人と一番仲の良い親友であり、入学当初から付き合いのある相棒であった。葉月という茶髪の女子生徒は隼人と同じ図書委員であり、よく読書に関する雑談に興じていた。
「そう……他人がどう過ごそうと私には関係ないから、どうでもいいのだけれど。あなた、目の下に濃い隈があるわよ。案ずるなと切って捨てるなら、体調管理は怠らないことね」
長い黒髪と眼鏡が印象的な『星谷沙耶』は、何時もこうして耳に痛い忠告を述べていた。故に、隼人も最早慣れたものだと言わんばかりに軽口で応じる。
「ご忠告、毎度痛み入るとだけ言っておこうか」
「どういたしまして、とでも返しておけば良いのかしら?」
嫌味と皮肉の殴り合い、正論と詭弁の応酬。それがこの二人にとっての『普段』であり、日々の挨拶のようなものであったのだ。
「また始まったよ、同族の争いが」
「あはは……こういうの、仲が良いって言うんだっけ」
そしてそれを眺めてため息を吐く者がいて、苦笑いを浮かべる者がいる。それもまた、何時ものやり取りの一環。ありふれた友人との会話の一部にして、魔術師『隼人』が焦がれる普通。彼らと共に過ごしている時だけが、少年が少年らしく居られる時間であり、己の責務を忘れていられる安らぎの一時だった。
「おっと、そういや隼人」
「何だ?」
「お前、結局次の日曜日って空いてんの?」
その一言を聞き、隼人は顎に右手を当てる。彼には心当たりがすぐに浮かばなかったが、黒髪の少女の溜息ではたと思い出す。
「ん?ああ、そうか。確か、このメンバーで遊びに行くんだったな」
「今まで忘れてたんかい。で、どうなんだよ」
少年は刹那に考える。参加自体は出来るが、両親はあまり良い顔をしないだろう―――と。しかし折角誘って貰えたのだから、隼人は参加したいと思っていた。幸い、魔術師としてするべきことは片付いていた。真影家の者としての実験や研究成果の報告や、管理している赤月市のパトロール。それらの中で自身が受け持っている領分に関して、彼は大分余裕のあるスケジュールを組んで取り掛かっていた。故に、彼を阻む障害は『親』だけだった。
「―――その日予定は無いから、俺も参加するよ」
「オーケー、オーケー。それならそうと早く言えよ?お前が今日答えを出すって言ったんだからな」
「それもそうだったな。すまない、少々抜け落ちていたらしい」
少々どころかお前はかなり抜けているとの親友からの返しに、隼人は閉口せざるを得なかった。事実として、彼が失念していた事項はこの時点でそれなりの数となっていたからだ。日々の忙しさにうっかり何かしらを忘れそうになった隼人が、慌てて挽回に取り掛かるというのも風物詩みたいなものであった。
「じゃあ、これで全員勢ぞろいだね。何時も誰かが抜けているから、珍しいね」
「そういやそうだな。毎回誰かしら抜けてたし、男女分かれてることも多かったしな」
「ええ。誰かさんの付き合いが悪くなければ、もう少し増やせたんじゃないかしら」
和やかな二人に続いたのは、冷たく辛辣な一言。自覚のある隼人には、やはり苦笑して返すことしかできなかった。
「……悪かったな、付き合いの悪い奴で」
「ううん、気にしなくていいよ。ね、日野君?」
「そりゃあ、な。誰にだって用事で無理って時はあるもんだし」
「沙耶ちゃんだって、いつも口では真影君に冷たいけど―――」
「シャラップよ。葉月さん、別に私は常識的な人付き合いの仕方というものを彼に説いているだけで、そこには何も他意はないのよ」
―――ああ、これが『普通』というものなのか。決してこの手で掴めない、素晴らしいもの。それがこうして目の前にあるというだけで、俺の中に責務を果たすという火を灯す事が出来る。
少年は喧噪の只中にあって尚も、自身をそこから俯瞰させる。まるでそこに自分はいない―――いや、存在しなくて良いと言い聞かせるように、彼は一線を己の足元に引く。実際には隼人を中心にして団欒の輪が築かれているというのに、その外側にこそ自分は居なければならないと定めているのだ。自らが魔術師という、決して表の社会とは交わらない裏の世界を知る神秘の探求者であるが故に。
「―――って、おい。隼人、何呆けてんだよ。これで二度目だぞ、二度目」
「いや、今のは呆けていた訳じゃない」
「どうかしら?あなた、授業中もよく窓の外を眺めていたわね。ご老人のように、頭に靄が掛かってきているんじゃなくて?」
隼人は腕組みをしている星谷に対し、失敬なという一言だけを返した。そして机の横からリュックを手に取り、そのままそれをするりと背負う。荷物は既にまとめ終えていたのである。
「さて、と。悪いが俺はそろそろ帰るよ」
「そっか。じゃ、またな」
「ごきげんよう……約束したことは、きちんと守りなさいよ」
日野の軽い挨拶と星谷のぶっきらぼうな声を後に、彼は教室の出口に向かって歩き始める。
「真影君!」
そして廊下に隼人が出た時、追い掛けて来たらしい葉月が声を掛けていた。名をただ口に出しただけだというのに、その音がやけに大きく木霊していた。
「真影君……」
少年は振り向かない。足を止めはしたが、彼は彼女の方を向きはしない。茶髪の少女の声はか細くなっていて、普段の学校内のざわめきの中では耳をすまさなければ些か聞き取りにくい位のものであった。だが、今はどうしてかはっきりと聞こえていた。
「また明日も、会えるよね?」
隼人は右手を挙げたことを返事として、その場を立ち去る。彼の背を染め上げるは、橙色の光。まるで良く熟れた柿のような色合いで、彼を照らしていた。
「日曜日、そういや久しぶりだな。学校以外であいつらに会うのも」
少女の瞳が遠ざかる中で、隼人は誰に語る訳でもなく言葉を漏らす。顔に浮かんだ友たちを想う笑みには、何処か寂しげな影が差していた。
「また明日、か。そんな未来のことは知れないが、何時までもこんな日常が続けば良いのにな。そう、続いてくれたら……どれだけ良い事か」
喪ってはじめてその価値に気が付けるのが人間ならば、最初から手に入らないものを美しいと感じ、届かないものに焦がれるのもまた人らしいあり方だ。
「また、会える?何故だ。明日、俺は明日もここに来る筈―――」
しかし、そう納得したところで少年は一つの違和感に辿り着く。これは何時もの日常、その風景の一つである筈だという事に。それにも関わらず、友人である葉月は彼に何と言っていただろうか。
『分かっている筈だ。そんな時はもう二度と、訪れはしないのだと』
隼人が突如聞えてきた声にはっとした時、唐暮高校に満ちていた静けさが変質する。
「何だ、これは」
先程までオレンジ色だった空は真っ赤に変わり、廊下を血の池地獄のようにおぞましく染めていた。いや、それだけではない。人の気配を感じさせる程度には音がしていた世界は、今や全くの無音状態である。
「一体、何がどうなっているんだ」
隼人は振り返る。自分の記憶が正しければ、先程までそこには友人がいた筈だと認識していたからだ。されど、そこには誰もいない。ただ赤い水溜まりがそこに出来ており、そこから先のとある教室まで何かを引き摺ったかのような痕跡が続いていた。
「何故だ、何故学校に血痕があるんだ!?」
少年はそう叫び、走り出す。行先はその真紅の線が伸びている場所、即ち隼人が先程まで居た自身の教室。開かれたままのスライド式のドアを超えると、そこには何時もの二年五組が―――広がってはいなかった。
「ッ!?」
壁や床に飛び散ったかなりの量の赤い液体と、黒い杭で掲げられた人体のパーツ。それらが隼人の視界に入ってきた時、彼は思わず吐き気を覚えた。このような光景を目にすることなぞ、日常ではまずありえない。事故や事件に巻き込まれたにしても、これほどの地獄絵図はお目に掛かれないだろう―――それこそ、路地裏で目にした全ての発端であるあの光景ぐらいなものだった。
だからこそ、彼は強い衝撃を受けたのだ。魔術師として死体なぞ見慣れている彼であったが、ある筈の無い光景を急に見せつけられたのだから。有象無象の他人の死には心を揺さぶられはしないが、見知った者達がそれに巻き込まれたとあれば、人間である以上動揺するのも当然のことであった。
隼人の視界を占めるは千切れた腕と足、切り離された頭部、そして臓腑を零した身体。だが、何よりも隼人を揺さぶったものはそれらではない。それは黒板の前にしゃがみ込み、倒れ伏した教師の屍を貪る二人組。その内の一人は少年であり、もう一人は少女の姿をしていた。
「何を、している。おい、日野、星谷―――何で先生を喰っているんだ!?」
震えた悲鳴にも似た声で、隼人は友人だったモノたちを糾弾する。ソレらは死体から口を離し、液体を滴らせたまま言葉を発する。
「Aaaa……何ダ、隼人ジャナイカ。オ前モコッチニ来イヨ、コイツハスゲェゴ馳走ダゼ?」
「ソウネ、アナタモ食ベテミレバ分カルワ。キット、気ニイルト思ウノダケド」
隼人の方を向いて立ち上がったソレらは、一目で分かる位にはおぞましかった。肌は死体のように青白く、瞳は血走り、口からは泡みたいな涎と捕食時に付着した血を滴らせる。間違いなく、彼らは人では無くなっていたのだ。
「嘘だろ……何で、何でこんな事に。何で君達が!?」
「旨イナ。トッテモ旨イゼ、人間共ノ肉ト血ハ」
「フフ。愚カナ人類ハ、ワタシタチノ餌ニナルノガ相応シイワネ。家畜トシテ飼イ慣ラシ、貪リ続ケテアゲマショウ」
目の前に居るモノたちの姿は、間違いなく彼の良く知る二人である。だが、隼人にはその声がどこか歪で、ねじ曲がった不愉快な雑音に聞こえていた。そして尚も、彼は目の前の光景を信じたくはない様子を見せていた。
「なぁ日野、葉月は何処だ。何処へやった!?星谷、君も聞いているのか!?」
そう呼びかける声は虚しく、ただ異質な教室に木霊するのみ。最早彼らは隼人のことなぞ知らぬと言わんばかりに顔を下げ、再び遺体に噛みつき、肉を引きちぎっては口にしていた。
「何とか言ったらどうなんだ!」
少年は友だったモノたちへ苛立ちをぶつける。それが既に無意味なことだと、隼人も理解していた。されど理性で分かっていることと、感情で受け入れられるかは別のこと。己にとっての日常の象徴が、喪われてしまったという事実を認めたくないのである。
「クソ……こうするしか、ないのか」
けれど、隼人は拳を握り締める。目の前の友が人ではなく、怪物になってしまったと言うのなら―――せめてその生を終わらせてやることで、人としての尊厳をこれ以上損なわせはしない。それが受け入れられない中で少年の下した、決断だった。
「なら、せめてもの情けだ。一太刀で終わりにする」
いつの間にか掴んでいた呪刀『骨貫』を両手で構え、振り上げる。紫掛かった刀身は夕日を受けて赤紫に輝き、そして一文字を虚空に描いた。血飛沫と共に飛んだ二つの首が、やけにゆっくりと落ちる。屈んでいた身体はそのまま後ろに倒れて、地獄絵図の教室に顔の無い仰向けの死体が二人分追加されることとなった。
「ッ―――君達を守れなくて、殺すことしか出来なくて、すまない」
彼は涙を流さなかった。ただ静かに、肩を震わせることも無く、隼人は項垂れていた。それから遅い手付きで懐から四枚の札を取り出し、彼はそれらを日野と星谷の身体や頭へと放る。
「許さなくて良い。だけどな、日野、星谷。俺にはこれ以上、そんな姿を見続けることが耐えられなかったんだ」
呪符は描かれた文字を青紫色に光らせ、張り付いた先の物体へ同じ色の炎を広がらせていく。ガスバーナーの火炎、或いはジャワ島のイジェン山を流れる硫黄ガスの焔。鬼火が如き焔が、犠牲者達の末路を包み込んでいた。
東洋呪術における呪符は、作成時に予め血の墨によって魔力―――この場合は呪力、或いは霊力とも―――を込めておくため、魔力の注入という過程を省略して術式を起動出来る。彼が亡骸に対して使ったのは、発火と延焼の術式が書き込まれたもの。詠唱も無く放たれた蒼い炎はただ燃やすに留まらず、直ぐ隣の死体にも広がっていく。故にやがてその炎は、周囲の晒し者にされている遺体全てを焼却するだろう。
友人以外にも、そこにはクラスメイトや先生だったモノがあまりにも転がり過ぎていた。隼人には、それらを放置して去ることなぞ出来なかった。だから彼は火葬代わりに、教室ごと遺体を焼き払おうと思ったのである。
「―――そうだ、探さないと。俺は探さないといけないんだ。葉月は、優理は、一体どこに」
呆然と踊る炎を見つけていた魔術師は、そう力のない声で呟く。そこにあったのは最低限の義務感であり、決して誰かの身の安全を祈るものではなかった。耳を澄ますまでも無く、一つ一つ教室を見るまでも無く、隼人には分かっていた―――もうこの学校に、まともな命など殆ど残っていないことが。ただそれでも、塵のように微かな希望に縋らずにはいられないのである。
独りで歩く。彼は紅く暗い廊下を歩き続ける。その間、隼人が横を見ることはない。名も知らぬ元生徒たちが教室の中で発する獣らしい喧噪を感じては、半開きのドア目掛けて呪符を放るか、向けた掌から炎の魔弾を撃ち込むのみ。その瞳に悲しみは浮かばない。冷徹な魔術師として、真影隼人は淡々と状況を処理していた。
そうやって三階全ての教室を火の海に変えた所で、彼はまたもはっとした―――己がいつの間にか校舎を出ており、体育館の扉の目の前にいたことで。そう、隼人の視界に突然現れたのは、錆び着いた薄緑色で金属製のドア。厚いそのスライド式の扉がいきなり目に入った事で、彼は気が付いたのだ。
隼人は少しの間訝しんだが、どうでも良いかと吐き捨ててそれを開ける。錆びついた金属が擦れ合う音がして、彼に不快感を覚えさせていた。そうして見えてきた光景に、隼人は―――表情を歪ませる。
「葉月……」
そこにあったのは、無惨に喰い散らかされた友の末路。露出した緋色の肉と白い骨、垂れ下がる臓物。そして、五本の黒い槍のようなもので串刺しに掲げられたその姿。冒涜的なオブジェクトに成り果ててしまった彼女の最期に、彼は目を伏せる。
「そうか、君は……君は最後まで、そうならなかったんだな。とても痛かったよな、今そこから下ろしてやるよ」
そう言って隼人は、枯れ枝が如き漆黒の杭を斬り伏せた。両手で握るが相応しい長さの柄を持つ、長巻のような形状の刀。中華系の文化圏で用いられてきた、反りが少ない苗刀が如き刀身の刃物。古の呪いを宿す刃が、晒し者にされている少女を解き放った。そうして落ちて来たその身体を、彼は左腕で何とか受け止める。黒い学生服に肉片や血が付くことを厭わずに、隼人は友人の亡骸を抱いていた。
「間に合わなくてすまない。でも、もう大丈夫だ。君をこれ以上、傷付けさせやしない」
彼は刀を床に置き、右手で虚ろな目をした少女の顔をそっと撫でる。指が過ぎ去った後には、先程よりは幾分か安らかな死に顔があった。
「だから眠れ、どうか眠っていてくれ」
その遺体を下ろしながら、隼人は叫ぶようにつぶやく。その祈りは、彼女だけに向けられたものではなかった。
「……死人ならば眠っていろと言った。それともあんたらは全てを喪った彼女から、死者の尊厳すらも奪おうと言うのか!」
顔を上げた隼人の瞳に映るは、数多もの動く死体たち。葉月香織を捕食し、串刺しに処したおぞましき怪物の群れが彼らを波状に囲んでいたのである。
「そうはさせない。俺の友人たちを喰い殺し、その死を弄んだ奴らを―――俺は絶対に許さねぇッ!!」
愛刀たる骨貫を手に、隼人は勢い良く立ち上がる。そして葉月の遺体に背を向けて、迫り来る悪鬼の群れに対して彼は刃を向けていた。
「例え級友や知り合いの姿をしていても、俺は敵対者に容赦はしない。一匹たりとも逃がさず、ここで縊り殺してやる!」
病的なまでに白い眼球と、口から漏れる涎、そして延々と漏れる呻き声。そんな有様の人間だったモノたちが、ぎこちない動きで少年の間合いへと歩みを進めて行く。対する隼人は右手で刀を地面に突き刺し、空いている左手に魔法陣を浮かべていた。迸る魔力の球体は緑色に輝き、大気を震わせる。
「我が手より走るは不可視の大顎。唸り、飲み込み、噛み砕くは風の牙。駆けよ疾風、来たれ怒濤―――制風術式、『暴食なる鎌鼬』ッ!」
詠唱を終えると、彼は渦巻く風の球を屍の群れ目掛けて力強く投げ付けた。すると着弾地点の床で球体が炸裂し、そこを起点に竜巻が生じる。現れた空気のうねりは、正しく巨大な獣の如く体育館を這い回る。それは少年を囲っていた亡者たちを喰らい、暴風の力と真空の刃が青白い死肉の身体を切り刻み、引き裂いていった。その光景はさながら、血の通う肉を巨大なミキサーに入れて起動したかのようだった。
「そうだ!死ね、死んでしまえ!俺から奪う輩は全て、何度でも、殺してやろう!」
風が轟き、肉と血の雨を降らせる地獄絵図。その中で高笑うは、人の姿をした悪鬼に他ならないのだろうか。学生服の裾をはためかせ、少年は残虐さを隠そうとせずに随喜と快感に浸っていた。
「―――ははっ、可笑しいな。悲しい筈なのに笑ってやがる。怒りしかないのに、どうして俺は笑えるんだ?」
緑色の竜巻が止み、肉片の屑と赤いマーブル模様だけが残された体育館。その中心で、獣は己に問いかけ、嘲笑う。今度は空虚で乾いた笑みを口に浮かべて、天を仰いでいた。
「親しい友は死んだか、それか学校の奴らみたいに化物になったか。そんな有様だと言うのに、俺は、俺はどうして……泣きもしないんだ?」
『それは失うことが当たり前だから』
「誰だッ!」
『手に入らないことが必然だから』
「さっきから何を言ってやがるッ!何処だ、姿を見せろ!」
『だから目の前で踏みにじられても、心の奥底では何も感じてない。寧ろ、自分が相手から奪う瞬間を何よりも待ちわびている。奪われたくない癖に、そうしたいと渇望している』
「黙れッ!黙れ、黙れ、黙れ、黙れッ!!言いたいことがあるなら、直接言いに来やがれ!」
隼人は周囲を何度も見渡し、はっきりと聞える不明瞭な声に叫び返していた。それは校舎の廊下で聞いたものと、違うようでいて同じモノだという印象を彼に与えていた。
「―――そこかァッ!」
長刀を勢い良く引き抜き、少年は振り返り様に見えた人影へと突き付ける。敵意を込めた切っ先が指し示していたのは、逆光が差し込む体育館の出入口。二十メートル程離れたその場所に立っていたのは、あの『燃え盛る教会の敷地』で最後に見た者。黒いコートのフードで顔を隠した、謎の少女。
「あんたの仕業だな!よくも、よくも俺の友達を、学校を―――滅茶苦茶にしてくれたなァァァァァッ!」
隼人は己が魔術師であることも忘れて、怒りのままに斬り掛かる。負の激情を受けて輝く呪刀を頭上で構え、彼が狙うは脳天からの一刀両断。喊声響かせ、復讐者は両の手で振り上げたる刃を全力で叩きつけた―――筈だった。
「何ッ!?」
それは真剣白刃取り。隼人の渾身の一刀を彼女は青白く細い指で挟み込み、静止させていた。微かに震える刃が、両者の力の拮抗具合を示してくれる―――が、しかし。片や両手で押し込んでいるのに対し、目の前の不審な女性は片手の人差し指と中指だけで抑え込んでいた。
「ねぇ―――そうでしょ?」
そして彼女が発した声に、隼人は動きを止める。その声色は、間違いなく彼のよく知る人物のものだったからだ。骨貫を握る手は緩み、怒りで紅くなっていた顔に青さが走る。
「な、何故だ。どうして、どうして……まさ、か」
「ねぇ、聞いているの―――兄さん?」
女が首を傾げると、フードがずり落ちる。露わになったのは隼人と同じ色合いの黒髪と、よく似た形の目付き。それは彼がずっと探していて、その身を案じていた人。唯一生き残った肉親にして、血を分けた兄妹。
「優理、まさかお前まで……そうなのか」
真影優理―――隼人の妹にして、真影の呪術を学び修める予備の後継者。少年の一刀を受けたのは、他ならぬ彼が大事に想う家族であった。
―――瞬間、フラッシュバックする紅の光。再生されるは『人間』としての最期。己の胸を背後から貫いた黒き杭、倒れた己に近付いてくる二つの人影。そして、黒い外套を纏った謎の女。そのフードが一筋の風に揺れて、その顔が瞳へ幽かに映り込む。
「あ、ああ……嘘だ。これは嘘だ、そうだ、嘘だ」
「何を言っているの、私はここにいるよ。ほら、兄さんの目の前に」
力なく隼人の腕が下がる。それと共に刀も下がり、切先が床に当たってからんという音を立てる。優理らしき人物は、既に刃から指を離していた。その代わりに彼女の腕は、少年の首へと伸ばされていた。
「うぐ――――っ!?」
「見て。ねぇ、兄さん。こっちを見て。兄さんの眼と鼻の先にいるでしょ」
五本の指がきつく締まる。隼人の両足は床から離れ、ただ宙で藻掻くのみ。彼はすぐさま彼女の手首を掴むが、振り解けずにいた。少女はそんな有様を目にして、虚ろな黒目で妖しく微笑む。
「確かに見たよね、兄さん。あの時、私の顔を。私があの場にいて、兄さんを殺そうとした張本人だって、見てたよね?」
『だから言ったでしょ?もう元には戻らないって』
三度聞えて来たその声。頭の中で鳴り響く鐘のようなそれと共に世界が砕け散り、何時の間にか少年は暗闇の中に立たされていた。その目の前に居るのは、赤い甲殻に包まれた悪鬼。妹の姿をした化物ではなく、血濡れた髑髏が嘲笑いながらそこにいた。望むものは永遠に手に入らないと、求めるものは遠ざかり、掴んでも砕けるだけだと―――嫌らしい笑い声を短く上げていた。
「奪われたものを欲するならば、今度は自分で奪い盗るしかないんだよ」
隼人の首を鷲掴みにしていたのは死体のように冷たい女の手ではなく、真っ赤な異形の腕。そして怪物が囁くその声もよく聞きなれたものではあれども―――決してそれは優理のものではなかった。それは何時の間にか、紛れも無く己の声となっていた。
「だから委ねろ。獣性に、怒りに、憎悪に!己に流れる本能へ全て明け渡せッ!」
強まる力、戦慄く怪物の手。骨が砕けんばかりの力で首を絞めつけられている隼人には、最早反撃は愚か反抗の意志を見せることすらも困難なことだった。それ故彼は酸欠で指先を震わせ、唯一使用可能な武器を手放しそうになり―――逆に意識を鮮明に取り戻す。
「ッァァァァァァァァァァァァッ!!」
肺に残った酸素にて声にならない喊声を上げ、少年は刀で以て紅の異形を斬り付ける。刃越しの感触は、少年に確かな手ごたえを感じさせていた。その結果として噴き上がったと思われる血の奔流を顔で受け止め、更には呼吸の急激な再会に咳き込みながらも、隼人は何とか立ちあがる。
「何故ダ!?否定シタトコロデ、自身モ同類タル化物ニ堕チタトイウ事実ハ変ワラナイ!?」
あまりの混乱か、顔を押さえてよろめく怪物の声にノイズが混じる。それは隼人自身の声であり、日野や星谷の声であり、そして優理の声でもあった。それを掻き消すかのように、隼人は黙れと叫び返した。先程の狼狽は消え失せ、はっきりと明確な意志の下で彼はそう口にしていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ―――良いか、良く覚えておけ」
脂汗を掻き、刀を杖代わりにした少年は続けてそう吠えた。息も絶え絶えながら目の前のソレに対し、隼人は己の叫びを聞かせていた。
「例え手に入らなくても、永遠に届かなくても良い!俺はただ、俺にとっての『日常』を愛するまでだッ!!」
その意志の強さに、怪物は顔を上げる。手で隠されていたそこには、髑髏を砕かれた事で露出した中身が渦巻いていた。醜悪に歪んだ隼人とその友人、そして妹の顔が交互に浮かび上がり、まるで内側から器を喰い破らんとするかの如くグニャグニャと蠢いていたのである。
『オ、オオオ―――ドレダケ拒ンデモ、運命ハ変エラレナイ!忘レルナ、必ズ全テヲ奪ワレル運命ニアルノダトォォォォォォォ!?』
紅い仮面の中で半分だけの顔の集団は呪詛を吐き捨て、そして消えてゆく。暗黒世界に紅い灰燼が舞ったその時、隼人は己を照らす光に気が付いて―――。
「……俺は、また」
―――そして瞳が開かれる。そこは自身が拠点とした廃ビルの一室にある、朽ちた探偵事務所跡。電気の通っていない部屋の中で、蝋燭を手にした少女が仰向けの隼人を覗き込んでいた。
「はい、また眠っていました。丁度四時間ほど、でしょうか」
少年はその一言に溜息を吐く。エリシアに気取られないようになされた薄いそれは、安堵の一息か。それとも、差し迫る絶望への諦観か。隼人本人にもそれは分からなかった。彼は額の汗を拭って、刹那に見たあの光景を忘れるよう努める。アレが夢のまま終わるか、現となって再び相まみえるか―――そんな事はもう考えたくなかったのである。
「―――そうさ。あれは夢だ、夢なんだ。夢でないなら、一体何だって言うんだ」
飲み物を取って来ると言って傍から離れた彼女に聞こえぬよう、隼人はそう呟いた。開けたシャツから覗く胸のエックス字の傷口が、彼に嫌な疼きを与える。右手でそれを押さえると、少年はぎゅっと拳を握った。
「大丈夫だ。優理もあいつらもきっと、きっと無事に決まっている」
隼人はそう自らに言い聞かせると、枕元に置いてあった腕時計を見つめる。夜闇のような文字盤に浮かぶ金色の針が指し示すは、ローマ数字の九と四。エリシアの言う通り彼が衝動のままに暴れ、そして彼女の手で眠らされてから大体四時間は時が過ぎていた。
「だからやるべきことを、もう二度と見失ってくれるなよ」
割れた窓から差し込む月光に照らされる中、隼人は上体を起こす。白く柔らかなその輝きが夜空を支配していたが、それが彼に嫌でも時間の浪費という言葉を思い浮かばせる。気が付けば少年の拳には、くっきりと爪の跡が残されていた。