第三話 暴走する善意、すれ違う想い
「―――それは本当ですか!?」
革張りの椅子で眠りに就いていた少女を起こしたのは、濃厚な怒りの気配だった。意外にも早く戻ってきた訳を本人から聞いた彼女は、急速すぎる情勢の変化に驚きを隠せていなかった。
「ああ、間違いない。証拠もここにある」
そう言って隼人が上着のポケットから出したのは、先程彼が拾ったペンダントだった。黒く朽ちた十字架は、彼にとっては『宗教』の堕落と腐敗を示す象徴に見えていた。
「あのような諍いは、両者にとって常なる事の筈です。それなのに、拠点にいきなり踏み込んで見せしめに殺してしまうなんて……そんな愚かな真似は、幾らなんでも―――」
「いや、それこそ奴らの手口さ。君も充分味わってきただろ?教義に反する存在というだけで追い回し、拷問に掛け、あまつさえ無実の人すらも有罪にしてしまう。そういう積み重ねの下で出来上がったのが十字架の騎士団だからな」
来客用だったボロボロのソファーに腰かけ、俯きながらも淡々と話す少年。急いで戻ってきたせいか、頬を流れる汗とボタンが外された学生服の上着。彼は上がった息を整えようと三度大きく深呼吸をする。そうして落ち着きを取り戻したかのように見える隼人だが、その胸の内には未だに激しい憎悪の念が渦巻いていた。
「目には目を、歯には歯を。もう少ししたら教会の方に行く。俺の妹が捕まっているかもしれないし、なによりも奴らを皆殺しにして地獄へと叩き込むためにな」
「……気持ちは分かりますが、復讐は待ってください。早まってはいけません、騎士団の仕業に見せ掛けるための第三者による偽装工作という線は?もしかしたら、あなたの御家族への襲撃は私の同族の―――」
「じゃあ聞くが、犯人があんた以外の吸血鬼だったとしてだ。『あんた』らはわざわざ死体を壁に磔にしたりするのか?自分たちを排斥する側のシンボルだぞ、あれは。俺の母親の遺体は、まさに十字架に掛けられているかのようだった。十字架には吸血鬼を害する力が込められているんじゃなかったか?」
「―――確かにかつてはそうでした。十字架は即ち『神の理』を示すものの一つ。我々吸血鬼を退ける効果は、確かにありました」
少女はそこで言葉を区切る。眼を瞑って何か思案するようなそぶりを見せ、そしてゆっくりと口を開いた。
「ですが、それも中世までの話です。その頃に吸血鬼は飛躍的な進化と繁栄を迎えましたから。真影さん、あなたも聞いたことがある筈です、『ドラキュラ』と『カーミラ』、そして『青髭』と呼ばれた者たちを。一族の名は、それぞれ『ツェペキュリア』、『ミラカミラ』、『ブレゥ』。その三つは吸血鬼の中でも遥か古代より続く大いなる血統、『旧き貴族』と呼ばれる家系なのです。そして、それらの家系には吸血鬼の祖―――『血を喰らう肉塊』が匿われています。その寵愛を直に受けて生み出された者たちが、私達貴族と呼ばれている存在なのです」
「で、それと十字架が効かない理由がどう繋がるんだ?」
そんな長々としたエリシアの講釈に苛立ちを隠せない少年は、早く本題に入れと急かすように睨みつける。少女はしまったというように額に手を立てて俯くと、言葉を何とか整理しながら、搔い摘んだ説明になるように気を付けて口を開いた。
「この世界には吸血鬼の弱点となるものがあまりにも多すぎました。特に厄介だったのが『神の理』。それを克服するため、当時の貴族たちにとって苦渋の決断ではありましたが、『人間』と深く交わることにしたのです。今まではただの食料、若しくは『同族の僕』に変えるための下等生物として見られていた人間の遺伝子を、自らの一族に取り込む。それによって吸血鬼たちは、その『理』をある程度は無害化することに成功したのです」
「なるほど、聖天十字教会が崇める『神』は人間から生じたもの。当然『人間』に適用され、信者を守護する秩序が『神の理』―――聖秘術だ。庇護対象の人類と同化していくことで、その排斥の対象から外れつつあるって訳か」
魔術師のその指摘に対し、エリシアは頷いた。だが、そこで彼はふと顔を怪訝そうに顰める。
「待てよ。聖秘術に耐性が出来ているなら、魔術はどうなる?」
「そちらは人の神による理ですが、魔術はこの星そのもの―――つまり大自然の権化たる神々による理です。当時の吸血鬼もそこまでは対策しきれませんでした。というより出来なかったと言うべきですね」
今度の隼人は口元に手を当て、その説明について自分なりに考察して見ようと試みた。だが、彼にはその点については良い考えが浮かばないようだった。人がとある人間を信仰する中で生みだされた理と、地球に満ちる自然の具現たる神々が世界に敷いた理。現在、そのどちらも使い手には人間が多い。聖秘術への耐性を獲得するために人の血を自らの血統に混ぜたのなら、当然魔術への耐性も得られてしまうのではないか。最終的に彼はそんな疑問へと辿り着いてしまい、納得がいかないようだった。
「どういうことだ?」
故に少年はまたも怪訝そうに皺を眉間に寄せて、エリシアへと問いを投げ掛けたのだった。
「魔術は吸血鬼にも有効ですが、その話はまたの機会にしましょう。兎に角、吸血鬼にとって十字架は最早、恐れる必要のないただのシンボルでしかないということです。当然、それを見たからといって眼が焼けるとか、体が燃えるということはもうありません。だから私は、吸血鬼による証拠の捏造という可能性もあると言いたかったんです」
彼女の言い分に説得力があったのは事実だろう。怒りに支配された隼人も、時間が経つに連れて冷静に考えられるようになっていたからだ。寧ろ最初から彼は復讐心のままに飛び出さずに、エリシアの下に戻って助言を仰いだのだ。一度立ち止まって、この一連の事態について客観的に見直すべきだとさえその脳裏には浮かんでいた。だが、血気盛んな若者の激情を制御出来るほど、少年は落ち着けていなかった。
「だが、もしここで教会への襲撃を見送って、そのせいで俺の妹が―――優理が奴らに捕らわれて拷問に掛けられてたら、殺されてたらどうする?手遅れになったら、それこそ取り返しがつかねぇんだよッ!!」
「それはッ……そう、ですが」
彼から漏れ出た切実な叫びはその場に沈黙をもたらした。隼人には既に血を分けた兄妹しか残されていない。そして、その唯一生きていると思われる肉親もまた行方不明であった。
「―――悪い、私情を挟み過ぎた。一時間程休憩を入れよう、俺はその間に頭を冷ましてくる。このビルからは出てかないから、安心してくれ」
そんな思いを口にした彼も気まずくなったのか、エリシアが何かを口にする前に部屋を後にした。金髪の少女は、またも殺風景で埃に埋もれた部屋に残される。そこから遠ざかる足音だけが、暗い室内に響いていた。彼女は下を向いて唇を噛む。割れた硝子の窓から吹き込んだ風がその赤い衣を揺らし、一つに束ねられた髪をなびかせていた。
「これは元々私達の問題。これ以上この街の人たちに、彼に迷惑をかける訳にはいかない。だったら―――」
呟いた決意と共に顔が上がる。前を向いたその瞳には、確と輝く緑色の光が宿っていた。少女の足取りは静かに、されど確実に歩み始める。半開きになっていたドアから外へと出て、エリシアは目立つ金髪をフードで隠して夜闇に姿を溶け込ませたのだった。後にきっかり一時間後に部屋へと戻ってきた隼人は、こうして無人の部屋を目の当たりにすることとなる。
深夜の暗闇の中で人目を忍んで先を急ぐエリシア。彼女は単身教会を目指していた。少女が彼との約束を破って廃ビルを抜けたのは、強すぎるあまりに暴走した責任感からだった。復讐心に駆られた隼人が早まった行動に出るかもしれない―――そうと思ったのだ。更には、そうなったのも全ては自分に関わったせいだという思いすらエリシアには浮かんでいた。故に未だに回復しきらぬ不調の身体を何とか動かし、彼女は独り夜の街に飛び出したのだった。
だが、彼女はこの街の地理に詳しくは無かった。聖天十字教会、ひいては十字架の騎士団が『紅大橋』から北東に向かった先にある、『朱魅坂』に拠点を構えていることを少女は知っていた。けれども、エリシアには現在地が緋野ヶ丘で、真逆に位置するそこから目的地へはどう行ったら良いのかというような情報は皆無であった。土地勘も地図も無く、ただ彼女は思い詰めて先走ってしまったのだ―――そうなってはしまわないかと危惧した、少年のように。
恐らく隼人がいれば、近くにある市営地下鉄を使って『朱魅坂』の手前の駅である『円明寺』で降り、そこから徒歩で向かう地元住民ならではの近道を示したであろう。しかし、彼女はその地下鉄の乗り場が何処にあるのかも知らなかったのだ。そのため、少女は当ても無く飛び出して来た形になってしまっていた。幸いな事に、少女は現在地から紅大橋-――彼女が隼人と邂逅した路地裏の辺り―――までの方向は覚えていた。そのため、エリシアはその記憶に従って移動を始めていた。
疎らに点在していた通行人にエリシアが道を尋ねたのは、歩き始めて三十分以上も経ってからのことだ。その頃には既に地下鉄の駅からは相当離れていたため、その人物も外国人観光客らしき彼女にそれを利用するようには言わなかった。代わりにそのまま紅大橋に向かい、そこから地下鉄に乗るというルートを教えていた。
矢島ビルから遠く離れ、紅大橋との境目に彼女が到達した時のことだ。突如として発生し、色濃く町を包みだした夜霧に紛れて何者かが彼女の前に姿を現す。街中にも関わらず車は一台も通過せず、人通りも皆無な深夜の街は無人と化していた。だが、エリシアの目の前には確かに一人の女性が立っていたのだ。
「―――この肌を焼かれるような感触、教会の差し金ですね?」
「ええ、その通り。わたくしはアンヌ、アンヌ・ド・ヴェルニエルと申しますわ。どうぞ、シスター・アンヌと気軽にお呼びくださいな。ええっと、ミラカミラ様―――でしたか?」
白い闇の中で微笑を湛えた修道女。魔性の者を傷付ける霧は、彼女―――シスター・アンヌによる人払いと退魔を兼ねた結界がもたらしたものだった。赤茶色の長い髪の毛を黒いヴェールで包み、胸元に黄金の十字架が刺繍された紺色の修道服でその身を包んだ聖職者。歳は二十代後半から三十代前半と推定される。その左腕には所属を表す緑色の腕章を付け、右手には一目で大人と分かる体型の彼女と比べても巨大な鎌が握られている。そんな死神のような女性は、聖母の如き微笑みと声色のままエリシアに話し掛けていた。
「わたくし、今は騎士団本部の監査局所属なのですが、かつては異端異教処刑人を努めておりまして。その縁というか、杵柄と申しましょうか。此度は派遣先の教会から吸血鬼狩りへの参加を要請されたんですよ。ですので、ミラカミラ様につきましてはどうか神妙に―――観念して死んでくださいましね?無駄に抵抗されますと、その、わたくしが綺麗にスパッと貴方の首を斬れず、無用な苦痛を与えてしまいますので……ね?」
「随分とお喋りなんですね、あなたは。そんな回りくどい言い方は止めて、はっきりこう言えば良いのでは?手早く殺したいからさっさと諦めろ、と」
「あらあら、ミラカミラ様はそういった手軽なやり取りの方が好みでしたか。では、早速始めますね―――主よ、この罪人にもどうか情けと慈悲を」
ギリシア語による祈りの句を唱えたアンヌは、両手で確と大鎌を握り締めて躍り掛かる。エリシアが先手を相手に譲ったのは、その大鎌の威力を警戒してのことだった。彼女はそれを眼にした瞬間から、その背筋に嫌な感覚が走っていたのだ。
弾丸の如き速さで金髪の吸血鬼に接近し、その特大の長物を振り下ろしたシスター。それを後方に大きく跳ぶことで回避するエリシア。アスファルトの大地は抉れ、小石と土が周囲に飛散する。その鎌の刃は通常のものとは違ってとても大きく厚みもあり、その形状も市販のカッターの刀身を巨大化させたようであった。
「外してしまいましたか。では、これなら―――どうですかッ!」
彼女は地面に刺さった特殊な鎌を、右足で蹴り上げて引き抜く。そして半歩踏み込んで横方向にそれを振り回し、吸血鬼の下半身を狙って全力で投擲したのだ。回転して迫る刃、それをエリシアは再度跳んで避ける―――が、空中という逃げ様の無い空間に逃れたことは相手の想定通りでしかなかった。
「ッ!?」
その刹那に銃声が三度響く。大鎌を投げたアンヌはすぐさま腰のホルスターから拳銃を一丁取り出し、その引き金を引いたのだ。結果、一発目は少女の青白い右頬に赤い線を刻み、二発目は黒いパンツの生地を裂いて左足を掠め、三発目で修道女は漸く外した。それもやはり白いリボルバーであり、使われた銃弾も『聖銀弾』であった。
「困りましたわ、全弾命中のつもりでしたのに。まあ、これはこれで面白味があってよろしいのですけど」
戦闘開始から今に至るまで、絶えず微笑を浮かべ続ける修道女。着地した吸血鬼目掛けて彼女は残りの三発で牽制射撃を行い、その間に地に突き刺さった鎌を回収していた。そして、撃ち切った騎士団特製の拳銃に弾を装填することなく、アンヌはそれを足元に捨てる。
「吸血鬼を相手にして、遠距離戦の有利を捨てても良いのですか?なら―――ッ!」
それを眼にしたエリシアが、今度は仕掛ける番に入った。瞬時に鋭く伸ばされた両手の爪が赤く輝く。それは高周波で振動することによって爪が高熱を帯びている証だった。その名も『高周波振動熱断爪』、振動と熱の二つを組み合わせた片手に五つずつある斬鉄の刃である。
その真紅の軌跡が暗黒の中を駆け抜け、余裕綽々のシスターを襲う。初撃は右手による縦の斬撃。それをアンヌは白い特殊な布が巻かれた鎌の柄で弾く。続く第二撃はその反動で浮かび上がって、空中より放たれた左足による回し蹴りだった。これもまた修道女は柄で受ける。だが、吸血鬼特有の怪力に押されて大幅に後退させられていた。
「くうっ―――中々やりますわね」
大地に両足を付けたエリシアはそこから一気に間合いを詰め、第三撃として右手による貫手―――五本の指を開いて揃えた平手による突き―――を繰り出す。それを修道女は石突―――鎌の柄の先―――を大地に刺して支柱とし、ポールダンスのように回転して躱した。
交差する両者の視線。一方は笑みを崩さず、もう一方は険しい表情。そこからアンヌは反撃として踵落としで攻撃するが、空いていた少女の左腕で防がれていた。そのためシスターはその反動を利用して距離を離し、仕切り直しに持ち込む。けれど、それを許すような慈悲は吸血鬼の少女には無かった。
「逃がしませんよ」
そう静かに呟かれた時―――金髪の少女の背後で影が嗤う。次の瞬間、そこから放たれたのは先端に三角錐型の棘が付いた五本の漆黒の鎖。エリシアの影で構成された、実体無くも質量を持った『何か』。それは吸血鬼だけが持つ、『影』を操る力によるものだった。大鎌の聖職者の肉を貫かんと射出されたそれらは、弧を描く軌道で標的へと向かう。それをアンヌは、鎌の一振りで起こした暴風にて弾く。
「―――あら?」
されど、振り払ったことで生まれた隙に六本目の鎖が修道服の右袖に巻き付く。それは先の攻撃とは別のタイミングで、別の軌道を描いて近付いてきたものだった。ぎりぎり人間の死角を通るようにより大きな弧を描いて飛んできた、先程よりも小さく細い影のワイヤー。されどその耐久性は、前者に全く劣っていない。
「あらあら。わたくしとした事が、みっともない姿を晒してしまいましたわね」
それを右手で引きつつ紺色の大地を蹴って飛び込むエリシア。未だ震える爪を構え、今度はそれで切り裂かんとする。右腕を封じられたシスターでは、そのあまりにも大きすぎる得物を左腕のみで振るうことは不可能だった。
「今度こそ―――ッ!?」
だが、その一撃はまたしても届かない。シスターが網目のタイツに包まれた左足をおもむろに―――自然とカウンターとして決まるように―――突き出したことで、エリシアの左手による攻撃よりも先にそれが腹部に刺さったからだ。
彼女が纏う戦闘用の修道服には、チャイナドレスのようなスリットが腰の辺りから入っていた。それによって激しい格闘戦や回避運動を可能にしつつ、修道女らしい貞淑な服装というイメージを両立しているのだった。
「ぐぅッ!?」
五メートル程後方まで飛ばされた赤と黒の吸血鬼、そこで張り詰める影の糸。何とかエリシアはそれを解除し逆に利用されるのを防いだが、そのまま店のシャッターへと強かにその背を打ち付ける羽目になっていた。
「うふふ、もうお終いですか?早く立たないと、とどめを刺しに向かいますわよ」
痛みに喘ぐ少女へと、鎌を引きずりながらゆっくりと近付いていくアンヌ。アスファルトの小石を跳ね飛ばして不快な金属音と火花を撒き散らす大鎌は、まさに終幕を知らせるサイレンが如し。
「では、さようなら。どうか安らかに滅びてくださいまし――――!」
そう言った彼女は大鎌を大きく振り上げて、そのままエリシアへと叩き付けた。白い電灯の光を受けて輝くは、白銀の三日月が如き軌跡。それが霧の中を走り、地面を粉砕する。だが、間一髪の所でエリシアは右方向に飛び、それを回避することに成功していた。そのまま少女は何度かの側転と後転で、相手の間合いから逃れていった。
「それでこそミラカミラ様ですわ。かつて東欧を清らかな乙女の恐怖と血で染上げた、かの『伯爵夫人』の直系。ああ、この特注の大鎌を振るう手にも、思わず熱が籠ってしまいますわね」
「その鎌、ただの武器ではありませんね。間近で見て確信しました、『聖戦兵器』の一種ですね?」
「ええ、その通り。信仰回復や聖地奪還、或いは異端・異教殲滅を目的とした『聖戦』のための『兵器』が一つ。近代という動乱の中、人々が『圧政者』を滅ぼすために造った断頭台の刃を再利用したもの―――『貴族殺し』。それがこの大鎌の銘ですわ」
アンヌは恍惚とした表情で己の得物について語っていた。多くの犠牲者を生んだ武器を自分が手にしているという状況が、サディスティックな彼女の喜びを満たしていたからだ。
「『貴族』……現に処刑された特権階級と、そこに潜り込んで蜜を啜っていた『吸血鬼』としての『貴族』を殺してきた物。なるほど、通りで嫌な予感がした訳ですね」
忌々しいと言わんばかりの視線を向けるエリシア。聖天十字教会―――ひいては彼らにとっての神―――の教義に反する存在を滅ぼすために造られた聖戦兵器自体、吸血鬼にはとっては天敵とも呼べる特殊な武器だ。その中でもこの『貴族殺し』は、特に吸血鬼に対する毒素―――聖なる力が強い代物であったのだ。故に彼女は、一目でソレが自身にとって危険な物だと直感的に理解出来ていたのである。
「そうでしょう?私が出会った吸血鬼の皆様も同じようなことをおっしゃっていましたわ―――勿論、きっちり全員始末して差し上げましたが」
「シスター・アンヌ、私は自ら人類に被害を与えた同胞を殺す事に対しては何も言いません、自衛は当然の権利ですから。ですが、その数には無実の吸血鬼や噛まれてそうなってしまった人、そして無実の民も含まれている筈です」
毅然とした態度でその事実を指摘したエリシア。それに対し、赤茶色の聖職者は目を閉じる―――まるで祈り、懺悔をするかのように。
「そうですわね。それはとても痛ましく、惨いことですわ」
だが、顔を上げた彼女からはそのような感情は窺えなかった。寧ろ真逆の、極めて傲慢な正義の使いという仮面が微笑という形で現れていた。それが聖天十字教会における『聖女』の称号を持つ、アンヌ・ド・ヴェルニエルという女の本性であった。
「でも、それが何か?吸血鬼は魔術師と同じくこの世界の理に反する者、そうなってしまった人々はそこから外れてしまった者。言わば白い布に突如現れた汚れ―――染みのようなものです。清潔さやその白さを保つためには、伝播する穢れはそうなる前に落とさなければなりません。秩序を乱す悪は、安寧を望む多数の方々のためにも滅せねばなりません。ほら、私達教会の行為は当然の有り様でしょう?吸血鬼は『外』からの侵略者、異なる理で世界を染めようとする邪魔者―――あの『悪魔』どものように、排除するのが神の教えに従う者の責務なのですから」
エリシアの手に力が入った。自らの長い爪が掌に食い込んでしまいそうになるぐらい、思いっきり握り締められる。それは怒りの感情故か―――否、それだけに非ず。彼女が真っ先に浮かべたのは、冤罪にて死した無辜の民たちだ。
「あの方が教会の人を嫌う理由がよく分かりました。人類との共存は私達穏健派の望みですが―――あなたのような人とだけは、共に歩めないと改めて確信しました」
そう、それは悲しみ。犠牲にされた人々への哀悼と、この世には絶対に分かり合えないモノが存在するというやりきれなさ。両種族の共存共栄という目的の為ならば、敵対する者は例え同族であっても始末する冷徹な彼女だが―――その心の根底には世界から排除されることの辛さと、殺すしかないということを否定したい気持ちが確かにあるのだ。
「でしょうね、わたくしたちも同じ結論ですわ。そちらがそうお思いになるずっと前からの事、ですけれども」
沈黙、そして両者の間を吹き抜ける一陣の風。両者共にどちらともなく構え出す。紅に光る長き爪と、月光を写す鎌となったギロチンの刃。前者はただ切れ味の良い爪に過ぎないが、後者は吸血鬼にとって致命的な損傷を与えることが可能な必殺の武器。加えて、度重なる戦闘がエリシアの体力と治癒力を奪っている。状況は圧倒的に、アンヌの優勢であった。
「ッ!」
三度目の近距離戦において、口火を切ったのはエリシアの方からであった。最早彼女に様子見をする余裕など無い。自身を確実に殺せる武装を相手は所持しているのだ。例えリーチの面で圧倒的に不利だとしても、少女の方で先手を取り続けねば防戦一方に追い込まれてしまいかねない状況であったのだ。
そんな中、金髪の少女は稲妻のように速くジグザグに壁も伝って縦横無尽に駆け抜ける。対するシスター・アンヌは冷静に大鎌を構えていた。何処から強襲を受けても反撃の一撃を当てられるように、彼女は確と腰を落として待っているのだ。
「そこですわッ!」
突如背後に気配を感じた修道女は右足を一歩前に踏み込み、それを軸足として回転。鎌を独楽の如く横方向に振り抜いた。そこにあったのは上半身と下半身を両断されたエリシア―――ではない。断末魔を発する幻影は蝙蝠の群れに変わり、辺りに散っていく。
「では本物は………ッ!?」
すぐさまアンヌは正面に向き直るも、そこにもやはり吸血鬼はいなかった。そして、それに驚くシスターは左側面から凄まじい衝撃波が叩き付けられ、十メートル程吹き飛ばされるはめになる。それは、蝙蝠が超音波を放つようにしてエリシアの口から発せられた―――音による物理的な攻撃であった。
「くッ!?」
「Laaa――――」
少女が放つその音波は徐々に収束していき、やがて甲高いコーラスのようになり、そして無音の歌へと変わる。そしてそれを合図に、地面を抉る不可視の刃がアスファルトの上を走り出した。
それは吸血鬼が持つ切り札が一つ、『超高周波ブレス』。人間には聞き取れない程の超音波を束ねて放ち、照射された箇所を穿ち切断する技である。それが下から上へと大地を駆けてシスターを襲う。未だふら付くアンヌなれど、迫り来るのが起死回生の一手と勘づくやいなや慌てて横飛びに回避した。だが、その際に彼女の右足をそれが掠め、一筋の傷を残していたのだった。
「ッ―――けほっ」
そのままエリシアが首を横に振って薙ぎ払おうとした刹那、喉の限界が訪れた。それによって咳き込んだことにより、放たれていた音波が途切れてしまう。この必殺技とも言える攻撃の欠点は、発声器官たる声帯に多大な負荷が掛かることと大量の酸素を必要とすることによる時間制限であった。今回は前者によるもので、超高周波ブレスの持続時間は僅か六秒だった。
「危ないところでしたわね。片足の負傷で済んだのは……確か、こちらの方では不幸中の幸いと言うのでしたか」
大鎌を杖代わりにして立ちあがるアンヌ。その顔には敵の切り札をやり過ごした安堵の色が浮かんでいた。対するエリシアの方は、やはり疲労の色が強かった。
「はぁっ、はぁっ――――体調させ万全だったのなら今のでとどめをさせた筈。だけど、これで勝機も見えてきました」
しかし、それでも少女は諦めない。体力の消耗度合で言えば彼女の方が高いが、シスターのような出血を伴う程の負傷は現時点では負っていない―――先の傷は既に塞がっていたのだ。また、あのような大型の長物を振り回すためには足の踏ん張りを効かせる必要があるため、負傷した状態では充分に使いこなすことは難しくなっている。そこをエリシアは好機と考えているのである。故に少女は何としてでも息を整える。未だにその爪は真っ赤に光り、震え、目の前の敵を切り裂かんと唸っていた。
「これで終わらせます!!」
エリシアは走り出した。両腕を広げて左右どちらからでも斬りかかれるようにして、目の前の聖職者へと迫る。対するアンヌは大鎌の柄に巻かれていた包帯のように細く白い布―――中世のとある聖人の遺体に巻かれていた聖骸布―――を解き、それを吸血鬼目掛けて投げ付けて迎撃する。
「主の名と威の下に、正しき秩序へ帰せよ―――それこそ神が望みし世界なり」
その祈りと共に、純白の布地に浮かび上がるラテン語の聖なる文言。それは『魔』を退け、『異』を滅すための汎用的な祈りの句。巻き付いた聖骸布は金髪の伯爵令嬢の首を絞め、青い光を発してその白い肌を焼く。だが、エリシアは苦悶の声を挙げるもそれを無視し、最後の一手を打つための突撃を強行したのだ。
「そんなッ!?」
すぐさま聖骸布を緩め、自身の手元に巻き戻したアンヌ。彼女は貴族殺しで迎え撃とうとするも、吸血鬼の少女に左から右への斬撃をしゃがんで躱される。女性の眼に映るはスローモーションの軌跡。僅かな間に銀色の弧を下方向に避けたことで描かれた、金色の一文字。しゃがみ込んだ状態からエリシアは前方に向かって弾丸の如く跳ね、間合いの内側に深く入り込んでいった。
鎌は基本的に縦に振ろうと横に振ろうと、内側に向かって湾曲した刃のせいでその軌道は弧を描く形になってしまいがちである。当然、刃が付いているのは柄の先端部分であり、そのカーブの外側が刃の峰に当たるため斬撃の有効範囲が極めて狭いという弱点もある。一見するとポールウェポンに特有のリーチ面での有利があるように見えるが、実際には手前に引きながら振り回すことでしか、その切れ味を活かせないという武器なのである。故に、有効な間合いよりも内側に入り込まれた時点で、アンヌに為す術はなかった。
「しまっ―――!?」
「はぁぁぁぁッ!」
そして、聖女の足元で屈んだ状態から繰り出されたサマーソルトキック。漆黒のズボンの裾から覗くは、紅いハイソックスに包まれた細い足。
「がッ!?」
それが相手の顎を打ち抜き、アンヌの身体を宙へと舞わせることで隙を作り出す。その勢いで同じように空中に上がった彼女は、それに合わせて両腕をエックス字にクロスする軌道で振り抜いた。十つの刃が紺色の修道服を切り裂き、鮮血のシャワーを降らせる。
「かはッ!?」
どさりと力なく落ちる女性、優雅に着地する吸血鬼の少女。その爪は最早輝きを失せども、血で赤く湿っていた。何事も無かったかのように立ちあがったエリシアは、その手に付いた液体をほんの少しだけ桜色の舌で舐めとる。そして直ぐに黒地に金の刺繍が入ったハンカチで拭っていた。
「先を、急がなくては………っ」
少女は立ち眩みを起こして左膝を着く。そんな余裕はないとエリシアは分かっている。だが、失った体力が余りにも多すぎたのだ。少女は重い足取りで、結界が消失したことで霧が晴れつつある道を行く。その後には、血の雫が足跡のように転々と残されていた