特別編2 弱虫にさよなら
旧初台駅。廃駅となり、管理のために定期的に立ち入る駅員以外は寄りつく者のない場所。その下に広がる地下世界で彼女――犬井司は生まれた。
人狼という種族に生まれた彼女のことを、周りの大人たちは蝶よ花よと可愛がり、それはもう大事に育てた。
詳しくは誰も知らなかったが、元々地上にいた人狼は過去に何らかの原因で絶滅寸前までその数を減らし、わずかに生き残った者たちは盟友であった一部の食屍鬼の手引きで地下へと移住したと聞いている。
生まれてから一度も地上に出たことのない彼女は、強く地上に憧れた。
いつか食料調達や情報収集のために地上に出る地上班についていって外の世界を見たいと願い、そしてその時は訪れた。他の人狼たち同伴に加え、「絶対に一人で行動しないこと」という注意のもと、食屍鬼の食料調達班への同行を許されたのだ。そこには、かねてから地上への憧れを口にし続けた彼女の願いを叶えてやりたいという周囲の想いがあったことは想像に難くない。
しかし、悲劇は起こった。どこかから情報が漏れており、地上では人間たちが密かに彼らを待ち構えていたのだ。気づいた時には既に遅く、初めて見る地上に興奮して警戒の緩んでいた彼女は、他の人狼もろとも誘拐されてしまった。
始めにどこかの研究施設に連れていかれ、そこでは主に身体検査や人狼がどの程度の知能を持つか、といった実験をやらされた。研究を主導していたのは一人の若い女性研究者。テンションがややおかしな変人で、これまた好奇心を全開にして質問攻めにしてくる変な助手もいたが、二人とも人狼たちを蔑ろにはしなかった。食事や寝床は自分たちと同等のものを用意し、無茶なものでなければだいたいの要望も叶えてくれた。
(ワタクシ、異種族とかそういうのは気にしてしませんわ。むしろ尊敬すらしていますとも。ここだけの話、かつてワタクシを救ってくださった『あの方』も異種族でしたし)
そう言って女性はうっとりとした様子で顔を――火傷で爛れた頬を撫でた。顔の右半分に走る歪な跡を誇るようなその姿を、かすかに不気味に思ったのを覚えている。
ともあれ、食屍鬼たちには悪いが地下よりも快適な軟禁生活を不満に思う人狼はおらず、誘拐されたという事実に反して穏やかな時間が流れていった。
だが誘拐されてからおよそ半年後。平和な時間は唐突に終わりを告げた。コービットの屋敷に移送されることになったのである。そこから、文字通り地獄の日々が幕を開けた。
支配による抑圧。少しでも言うことを聞かなければ実験という名目で様々な方法を用いて苦痛を与えられ、時には何もしていなくとも気まぐれで痛めつけられた。人狼が人間よりも多くの食事を必要とすることと、当時コービットに仕えていたシルヴィアがそれを理解していないことを知っていながら何も言わず、飢えに苦しむ人狼たちをコービットはただ嘲笑うだけだった。
悪辣極まる所業に家族同然だった人狼たちは次々と数を減らし、最後に残った司も飢えと絶望に打ちのめされ、檻の中でただ死を待つだけ。希望などなかった。
だが、彼女は救われた。あの時差し伸べられた手と食事の味は生涯忘れることはない。
神崎創。それが彼女の恩人の名前。見ず知らずの自分を救ってくれただけでなく、わざわざ地下まで送っていってくれた。
これだけの恩を受けて何も返さないのであればそれは一生の恥だ。しかし、無力な彼女に返せるものなど一つもなかった。
創が欲するのは戦う力。既に人間どころかヘビ人間や元軍人で訓練を積んだ食屍鬼たちが束になっても相手にならないほど強大な力を手にしていながら、彼はさらにその上を目指している。そんな彼のために非力で弱虫な自分はいったい何ができるというのだろう。いくら悩んでも答えは出ない。あまりの情けなさに、表面上は明るく振る舞いながら裏では涙を流していた。
そんな彼女は、なぜか創との【魂神契約】の適合者であることが判明した。
司の知る限り最も博識なモルディギアンが「秘術」と断言する通り、その効力や契約者の基準などは一切が謎に包まれており、わかっていることは契約者同士は魂の一部が融合するということと、本体が封印されているモルディギアンが、本来の力をある程度発揮できるようになったということのみ。
――なぜ、自分なのか?
曲がりなりにも人狼である以上、まだ子供といえどその身体能力は人間の成人男性を上回る。しかしそれだけだ。むしろ地下の仲間たちの中では弱い部類に入るし、特別な能力もない。だが、自分は確かに選ばれた。
自分が適合者だと知らされた時、決して契約を強制することはないとも言われた。契約をするということはすなわち、戦いは避けられないということ。
正直戸惑ったし、恐ろしかった。しかし、彼女は決断した。
最初は命の恩人だという、ただそれだけだった。だがあの悪夢の洋館で皆を守りたった一人で戦う姿を見て、この人のようになりたいと思った。会話を重ねるうちにその人柄に惹かれ、この人の力になりたいと思った。
そして何より、もし自分がこれを断ったら、どういうわけか彼とはもう二度と会えないような気がして、それがなぜだかとても悲しくて恐ろしかった。
契約に同意した瞬間、気がつけば司はどこかの部屋にいた。
「ふむ……やはり、ここへ最初に来るのはあなた様でしたか」
状況が理解できない司の眼前で、椅子に座り本に目を通していた人物が顔を上げて言った。なんとなく特徴がつかめない奇妙な人物で、狐の面を被っていた。
「あ、あの……あなたは……?」
「ただの店主ですよ。それだけです。それよりも、どうぞお掛けください」
勧められるまま、おそるおそる椅子に腰掛ける。いつの間にかお茶と菓子受けが用意されていた。
「さて、この場所へ来られたということは、あなた様は大きな決断をなされたということです。わたしはその選択を尊重しましょう」
「は、はあ……」
生返事を返す司に特に気を悪くするでもなく、店主と名乗る人物は話を続けた。
「選択には責任がともなうもの。当然そこには迷いや後悔もあるでしょう。今のあなた様のように」
その言葉に司はびくりと肩を震わせる。図星だった。
「お茶をどうぞ。少し温めですが、落ち着きますよ」
促されるまま茶に口をつける。熱くはないが冷たくもない、ほっとするような温かさが喉を通っていき、司は思わずほうと息をついた。それを見ていた店主からくすりと声が漏れる。微笑ましいものを見てつい漏らしたような、穏やかなものだった。
「何をそんなに悩んでいるのか、よろしければお聞かせいただけませんか?」
「……その、実はぼく、憧れている人がいるんです。その人はとっても強くて、しかも強いだけじゃなくて、一見すると無愛想なんですけどとっても優しくって、素敵な人なんです。ぼくもこんな人になりたいって、心の底から思いました」
語り始めた司の言葉を、店主はただ黙って聞いている。
「それで、その人の力になりたいって思ったんですけど……不安なんです。ぼくは弱虫だし、なんの力もないし、ぼくなんかがその人の役に立てるとは思えなくって……」
沈んだ表情でそう言う司に、店主は言った。
「わたしから言わせていただけば、それはまったくの杞憂だと思いますよ。そもそも、あなた様はご自分で思ってらっしゃるほど弱くはありません。むしろこれ以上ないほどの『強さ』を持った方だと思いますよ」
「――ぼくが?」
信じられないといった様子の司に、店主は頷く。
「ええ。あなた様は弱者の痛みというものを誰よりも知り、かつそれを決して他人に与えようとしない優しい心の持ち主です。そのどこに『弱さ』があるのでしょう?」
「ええっと、ぼくの言う『強さ』ってそういうことじゃなくって――」
「いえ、同じことですよ。『強さ』の本質とはすなわち、その意思の強さなのです。単純な戦闘能力など大した問題ではなく、むしろそちらの方がよほど『弱い』ですね。本物の『意思の強さ』の前では塵にも満たない、ちっぽけなものです」
まるでそれが真理であるかのように、あまりにもはっきりと断言する姿に何も言えなくなった司を見て、店主は懐から何かを取り出し、司の前に差し出した。
それは、一枚のカードだった。かすかな光沢をもったそれには何も描かれてはおらず、しかしなぜか、司はそれから目を離すことができなかった。
「司様。あなた様は他の方とは少々事情が異なり、ここでは『別の』契約をしていただきます。内容はたった一つ」
「な……なんでしょう?」
「『自分の選択に責任を持ち、それを証明し続けること』――ただそれだけです。簡単ですよ、あなた様なら」
司はしばらくカードを凝視し、それからゆっくりと手を伸ばした。その手は震えていたが、カードに触れる頃には収まっていた。
「よろしい。これで契約は成立です」
カードを手渡した店主は、司を見て微笑んだ。仮面に隠れて表情は見えないはずだが、なぜか司はそう確信した。
「『それ』が示すものは、あなたの本質です。あなたがそうでありたいという願望。ですが、本当に強い意思の元でのそれはもはや漠然としたものではなく、あなたという存在の本質でもあるのです」
その言葉とともに、カードに浮かび上がるものがあった。影絵のようなそれは、天に向かって吼える二足歩行のオオカミだった。
「その身に、あるいは仲間たちに降りかかるあらゆる不条理、理不尽な『運命』をその爪で引き裂き、牙を突き立てんとする反逆の意思――抗う者の気高さが伺える、よい『覚悟』です」
感嘆したように店主が言うとともに部屋の輪郭がぼやけ始めた。
「では、またお会いしましょう。あなた様の旅路がよいものとなるよう、祈っていますよ」
最後にそんな言葉が聞こえ――司は意識を失った。
「――――」
目が覚めると、司は自分がベッドに寝かされていることに気がついた。
「ああ、起きたか。気分はどうだ?」
「創さん……」
その時ちょうどやってきた創がそう声をかける。その手には一口サイズに切り分けられたリンゴが盛られた皿が乗っていた。
「いきなり倒れるもんだから驚いたぜ。先に契約したモルディギアンが平然としてたから問題ないと思ったんだが、悪かったな」
すぐそばまでやってきた創は、司がどこか心ここにあらずといった様子なのに気がつき、声をかけた。
「どうした?」
「いえ、なんというか――夢を見ていて、それがとても大事なことだったような気がするんですが、何も思い出せないんです」
「……そうか。体調の方は平気か? 無理はするなよ?」
「大丈夫です。約束しましたから」
「約束? 誰とだ?」
「それが、思い出せないんです。でも――ぼくはもう、大丈夫です」
そう言って司はにっこりと笑った。花が咲くような、可憐な笑みだった。
そしてその日、少女は一つの転機を迎え、本当の意味での弱虫だった過去の自分と決別した。それは同時に、自らと創が変身する漆黒のオオカミ――後にウルフ=ダークネスと呼ばれることになる存在の誕生を意味するものでもあったが、それに気づく者は本人たちを含め誰もいなかった。