彼女の積分
ちょっとしたショートストーリー。二人の会話に注目ですよ?
小学生の頃は、勉強なんかより友達と遊ぶのが好きだった。ドッジボールをしたり、鬼ごっこをしたり、誰かの家でゲームをしたり。なのに、何時からだろうか。こんなにも"遊び"というのが馬鹿らしく、時間の無駄だと感じるようになったのは。そしてその代わりとして、数学にのめり込むようになったのは。
「…………」
黒板の上に掛けられた時計はまだ、完全下校時間の六時を指していない。それまでに、この目の前の数Ⅲの問題だけでも解いてしまいたい。
なのに、だ。こんな時に限ってまた彼女がやって来た。
「──あっ、やっぱりまだ残ってたんだね、佐山君っ!!」
ガラガラと教室の扉を豪快に開け、こちらを視認し近寄って来て目の前の席に座る彼女こそ、俺の勉強における最大の障害・綾美さんである。
高校三年になって突然隣のクラスに転校してきた彼女は、何故か知らないが俺の噂を聞きつけ、こうして放課後にちょっかいをかけにやって来る様になった。全く以て迷惑極まりない事である。
「…………」
彼女が来ようが来まいが俺には関係の無い話。手元にある問題に集中するだけである。
「ねぇ佐山君。そんなに勉強しなくても、数学全国一桁の君なら解けない問題なんて殆ど無いでしょ?
だったら勉強してないで私と喋ろうよ、ね?」
前に座っただけでは相手にされないと悟ったのか、突然俺の心を煽るようにして話し掛けてきた。これしきの事無視したかったが、ただ一つ、どうしても言い返したい事があった。
「……別に、解けない問題だってあるよ。だからこうして勉強してるんだし」
「え〜嘘だぁ。私聞いたよ? 佐山君、この高校に来てから数学の定期テストでずっと満点取ってるんでしょ?
それに、模試だって毎回ほぼ満点らしいし」
「……でも、満点じゃない」
そう、それが言いたかった。どれだけ模試で高得点を取ろうが、満点じゃなきゃ意味が無い。完答出来なければ、満足感が得られない。前回の模試でもまた満点を取れなかった事に、俺は焦燥していたのだ。
彼女の言葉に少し心を揺さぶられそうになりながらも、俺は地道に概形を書き上げ、媒介変数を用いながら式を立てていく。後は公式に当てはめるだけである。
「ふーん。こんな問題より、絶対私と喋った方が面白いのになぁ〜」
「…………じゃあ」
一々癇に障る事を言う彼女に嫌気が差した俺は、シャーペンを動かす手を止め、彼女に少し強めな口調で言い放った。
「証明してみてよ。面白いって事を」
「……へぇ〜。意外と感情的な事言うんだ。
うんうん、なら面白いって君に言わせたら私の勝ちだね」
「そっかそっか〜」と、何が嬉しいのかニヤニヤし出した彼女は、右頬に手を当て俺をじっくりと眺め始めた。
「っ…………」
こういうのはズルい。俺が言うのも何だが、彼女は割と良いルックスをしている。学年有数、とまではいかなくてもクラスでは上位に入る筈だ。だから、そんな彼女に見つめられるのは正直恥ずかしいし、何より黙って見つめられるこの時間が苦痛で仕方がない。
すると俺が動揺したのが分かったのか、口元に手を当て直した彼女のニヤニヤは更に激しくなった。
「ふふっ、佐山君照れちゃって可愛いの」
「なっ、べ、別に……」
「……うんっ。君のその反応で問題が浮かんだよ」
口元から離された手は椅子の背に二つ掛けられ、そうして持ち主の彼女が微笑んだ。
「問題、私を積分して」
「……は?」
意味が分からない。彼女を積分? ……いやいや。
彼女は勉強は出来る方の人間だったはず。定期テストでも上位者欄に偶に乗る程だと記憶している。そんな彼女が積分の意味を履き違える筈がない。
何か裏があるのでは、と言い返そうと彼女の方を見ると、何故か俺のスマホと自分のスマホを両手持ちしていた。
「ちょ、何で俺のスマホ」
「だって私の連絡先知らないでしょ?
問題の解答期限は今日の日付が変わるまで、解答権は一回のみだからね〜?」
「えっ、ちょっだから──」
「そうだね、君が勝ったら私は二度と君に近付かない」
「えっ……!?」
俺のスマホを手渡す彼女の口から出たのは、余りにも予想外過ぎる言葉だった。分からない。彼女が一体何を目的としてこんな事を言っているのかがどうしても理解出来なかった。
「ふふっ、予想通りの驚きっぷりだね〜。
あっ、私が勝ったらその逆って事で──」
彼女がそう言葉を発する途中から、教室内にチャイムが鳴り響く。どうやら完全下校時刻を迎えたらしい。
「それじゃあ、君からの解答を楽しみに待ってるよ。じゃあね〜っ」
「あっ、だから待てって!! ……行っちゃったよ」
全速力で教室を出ていった彼女の残像を目で追い続けながら、俺は、一人になってしまったその場所で大きくため息を落とした。
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家に帰った後の行動は大体いつも同じ。晩御飯を食べ、風呂に入り、明日の時間割の通りにノートや教科書を詰め直すと夜九時前後になるので、そこから二時間程は決まって数学の問題を解く。ジャンルはその時の気分だが、最近は専ら数Ⅲである。
しかし、今日の行動は学校で決められてしまった。彼女に一泡吹かせるため、俺の勉強を妨げられない様にする為、あの超難問を解かなければならない。
「……一度整理しよう。問題は確か"私を積分して"だったっけ」
勉強机に向き合い、棚から取り出した不要紙の上の方に問題文を書いてみる。だが、やはり全く意味が分からない。
「そもそも、積分するには関数化しなきゃならないだろ。どうやって人間を関数化するんだよ……」
もし人間を関数化出来たのであれば、ノーベル賞どころの騒ぎでは無い。それだけで何世代分の財産を稼げてしまう。
人間の関数化はどうやっても無理だと諦めた俺は、次に"積分"する事を疑ってみることにした。
「もし、だけど彼女の言う"積分"が"体積を求める"事だったとしたら……?
……"彼女を積分"、が"彼女の体積を求める"に変わる。それはつまり、彼女の体積計算をすればいいって事、なのか?」
そこに至り俺は、唯一の可能性を見出した。彼女の体積計算ならば、何とかすれば出来ない事も無いからだ。
一度可能性が思いつけば、後は行き詰まる所までシャーペンを動かすだけである。
「体積計算なら、彼女の各パーツをそれぞれ計算して合計すればいい。ここは大雑把に球や円柱として分ければいいだろう、それ以上細かく考えると計算式を立てられないからな」
紙に球と円柱という二つの項目を書き、そこに当てはまる体の部位を書き込んでいく。
「頭はまぁ球だよな。首は円柱、腕は肩から手首までを一本の円柱として二つ、手は二つを丸め重ねて中のくり抜かれた球としよう、手の厚さが分かれば出せるだろうし。胸は……楕円体の半分? まぁ、二つあるだろうし楕円体だな、球の所に補足付きで書いておこうか」
そうやって胴体から残りのパーツ全てを項目に入れ、準備は整った。球も円柱も、体積計算の公式に全て当てはまる。楕円体だけが少し厄介だけど、数Ⅲの力があれば何とかなるだろう。
しかし、俺は一つ大きな間違いを犯していた。いや、今の今まで大きな事に気が付かなかった。
「……どうやって半径を知るんだよ」
そうだ。俺は、彼女の長さを知らない。腰回りやバストサイズを知っていれば、胸の半径や腰の半径を出せただろう。しかし、そんな事を知っている筈が無い。頭の周の長さや手の厚み、腕の長さや太さ、足の長さや太さ、足のサイズも。そう、彼女にまつわる数字の何もかもを俺は知らないのだ。
「何なんだよ……無理じゃねぇかよ……」
理論上不可能を知った俺は机に崩れ臥すしか無かった。折角見えた希望も、今はただの絶望へと転じていた。今にも、彼女のニヤケ顔が目に浮かびそうである。
明日からまた彼女にちょっかいをかけられる毎日が続く、その事に憂鬱な気分を味わっていると、ふとした疑問が頭を過ぎった。
「……何で、彼女はこんな問題を用意したんだ?」
彼女は頭が良い筈だ。俺が本当に数学で解こうとする事だって予測していたかもしれない。だとしたら気付く筈だ──出来る訳が無い、って。
「何が目的だ……? 解かせる事に意味がある訳では無い……?」
ガバッと顔を上げ、頭を抱え込む。
何を答えればいい? 本当の問題は何だ? 彼女の真意は何だ?
「……半径が分からなければ解けない。なら、半径を知ればいい……?」
焼き切れそうになった脳は、思い付いたことをそのまま口から吐き出させた。だけど、その言葉をもう一度脳内再生した時、俺の中で何かが弾けた。
「そうか……!! 彼女は、自分の事を知って欲しくて、それでこんな問題を出したのか……っ!!」
勝った。不思議にも俺は、まだどう答えるのかも決まっていないのに、笑うのを止められなかった。ここまでの解答を引っ張り出せた事に、感動すら覚えてしまっていた。
俺は震える身体を無理やり抑え込みながら、ベッドの上で充電されていたスマホを手に取る。そして、教室の時の会話を思い出し彼女の連絡先を見つけ出し、
「"答えは、君の事を知りたい、だろ?"で送信、っと」
そう、解答を送り付けた。
「これで、彼女も悔しがるだろっ」
スマホを手放した俺は、そのままベッドに倒れ込んだ。鼓動がまだ高鳴っている。その音を心地よく感じている自分がいる。こんな高揚感は、何時ぶりだろうか。
「……って、今考えたらあの文章、キモいな……」
少し冷静になって漸く、自分がどれだけ恥ずかしい文章内容を彼女に送り付けたのかに気が付いた俺は、羞恥で今度は胸が高鳴ってしまう。あの文章を見れば、悔しがる前に気持ち悪がる気がしてきた。
と、自分の失態に苛まれていると軽快なポップ音が室内に響く。彼女から返信でも来たのだろうか。
「えっと何々……"残念っ!! ブッブー、でした〜っ!!"
……嘘だろっ!?」
彼女からの返信に、思わず声を荒らげてしまった。ありえない、あんなに渾身の解答だったのに。
異常な速度で脈打つ鼓動に更に焦りを感じているそんな時、彼女の方から電話が掛かってきた。
「……もしもし?」
"もしもし佐山君〜? いや〜残念だったね!!
でもまさか、あんな解答が返ってくるなんて思ってなかったよ〜。何あれ? もしかしてウケでも狙った?"
「……ガチの解答だよ」
"ありゃりゃ、そりゃ残念だったね〜"
「で? 答えはなんなんだよ?」
"答え? 答えはね────"
────出来る訳ないじゃん。だよ?
「…………」
"あれ? もしかしてこの答えに怒った?"
「……ははっ、何だよそれっ。そんなの当たり前じゃねーかよっ」
彼女の解答に、俺は笑わずにはいられなかった。
そうだった、彼女はこういう奴だった。要領がいい故に、自分に出来る出来ないをしっかりと区別する、そういう奴だった。
"どう? 面白かったでしょ?"
「……まぁ、クソみたいな問題だったけど面白かったかな」
"でしょでしょ? やった、じゃあ私の勝ちだねっ!!"
ハイトーンで彼女は勝利宣言をする。しかし、その声はすぐに普段の口調に戻った。
"じゃ、明日から改めて、ふつつか者だけどよろしくねっ?"
「いやいや、それは日本語おかしい……って、切りやがったよ……」
使い方の間違った日本語を言い残して、彼女はまたしても自分勝手な行動を取る。少し、彼女は自由過ぎる気がしてならない。
「……明日からまだ面倒だなぁ……」
悩みの種が増えた俺は、時計の短針が既に十一を指していた事に気が付き慌てて就寝準備を整えた。
消灯し真っ暗な部屋の中、俺は布団に包まりながら、積分出来なかった彼女に悩まされる日々が続くだろうという予測に大きくため息を吐くのだった。
ここまで読んで、感の良い人なら今後の二人の関係が気になって仕方がないのでは?
……なんて、そんな深い意味は無いんですけどね(笑)
面白かったら評価、感想をください(*^^*)