神隠し
ダークな感じです。小学生が主人公。
何もかもつまらない毎日だった。
父親はとうにおらず、水商売をしている母親とも滅多に顔を合わせることもない。学校では同級生から両親のことでいじめられ、何も云い返せずに終わるのだ。
自分にとってこの世界はなんなんだろう。そんなことをぼんやり考えることもあったけれど、考えたって分かりはしなかった。
ただ毎日機械のように同じことを繰り返すだけの日々。――いっそロボットになってしまいたい。
片瀬貢はもう日付が変わる、という時刻にふらふらと通学用のリュックを背負って公園をつっきろうとしていた。自宅のあるマンションまでは公園を通ると近道なのだ。だがその公園は街灯が少なく、夜になると薄暗い不気味な空間になる。
カップルが密会するにはいい場所かもしれないが、こんな真冬の外で過ごす輩もいないだろう。
貢はなるべく自宅に帰るのを遅くしていた。どうせ帰っても誰もいないし、夕飯の支度さえされていないのだから、外でぶらぶらしているほうがよっぽどいい。小遣いだけはしっかりもらっているし。
だが小学生がそんなに遅くまで出歩いていると何かと困ることもあって、やたらと詮索してくる大人から逃れるために嘘をつくことも多かった。特に警察なんかに捕まると面倒なことになる。
それにしても今夜はやけに冷える。紺色のダッフルコートに同色の手袋、白いマフラーを着込んでいても寒さが身に染みる。
身体を小さくしながら公園の真ん中を歩いていたとき。男のうめき声とドサリと倒れる音がして、貢はハッとそちらを見やった。
公園の周りを囲むように冬でも枯れることのない木が生茂っているその下に二つの輪郭が浮かび上がっていた。街灯よりややずれているためはっきりとした姿を捉えることができないが、一つは地面に横長の、もう一つは縦に長い影だった。
(なに・・・?何か倒れてる?)
貢はその場に立ち尽くし、目をこらした。すると背の高い影が動き、街灯の下に立った。それは遠目からも分かる後ろ姿の人影。銀色の髪に真っ黒なロングコートが見えた。
(誰・・・?)
そう思った瞬間、人影がくるりと貢を振り返った。貢の心臓が飛び跳ねる。街灯に照らされた人物は背の高い若い男だった。切れ長の眼が貢の姿を捕らえるとスッと細められた。
「――おや。こんな時間に子供が」
柔らかなテノールが云った。貢はびくりと震えて男を上から下まで凝視した。そして男が右手に何か握っているのを見て、思わず「あっ」と声を上げてしまった。その声に男は右手を貢に向かって伸ばした。
その手に握られているのは――黒光りする拳銃。男は銃口を貢にぴったり合わせ、にっこりと微笑んだ。
「君が逃げ出すのと、僕が引き金を引くのと――どちらが早いと思います?」
丁寧な口調だが、それは暗に逃げるのを許されないということだった。貢は一歩も動けずただ自分に向けられる銃口を見つめていた。むしろこのまま死んだとしても後悔しないとさえぼんやり思っていた。
そんな少年に男は銃口を向けたまま空いた片手で手招きをした。あまりに気軽な感じだったので、貢は引き寄せられるように男に近づいていった。
目の前に立つと男はだいぶ背が高かった。貢が小さいのもあるが、見上げないと男の顔が見えない。男は微笑しながら問うた。
「ねえ君?僕がしていたこと、見ました?」
「――見てません」
「本当に?」
「……何か、倒れる音は聞いたけど」
貢が正直に答えると男は銃口を下げ、コートの懐にしまった。そしてこともなげに云った。
「それは人が倒れた音ですよ。今僕が殺したんです」
ほら、と地面を指差す。貢がそちらを見ると、遠くからではよく分からなかったが、それはグレーのコートを着た中年の男だった。
うつ伏せに倒れた男はピクリとも動かず、街灯の明かりの端に照らされてその身体から赤いものがにじんているのが分かった。
死んでいる。それは真実なのに、貢には信じられなかった。目を開けたまま事切れている男の顔を見ても何も感じない。これが「死」だというの?
なんとも云えず、貢は男を見上げた。
「あれ、驚かないんですね」
意外だというように男は軽く眉を吊り上げた。そしてすぐ笑みを作った。
「・・・ああ。君も死にたいからですか」
「っ!」
今度は貢も目を見開いた。男は少し身体を屈めて貢に接近した。
「人生つまらなそうですもんねえ。でも・・・君は『みにくいアヒルの子』なんですね」
「え?」
「両親の愛に恵まれず、学校でもいじめられて。自分はなんてかわいそうなんだろう。生きてる意味なんてあるんだろうか。どうして自分は生まれてしまったの――って感じですか?」
貢は言葉が出なかった。なぜ?どうしてこの人はボクの気持ちが分かるの?
「ふふっ。別に僕は予言者じゃないですよ。君の目が死にたがってただけです。それに良い子はこんな時間に出歩いたりしないでしょう?」
「――殺してくれるの?」
ポロリと出た言葉はそれだった。その言葉に男の表情がなくなる。
「人を殺すのをなんとも思わないなら、ボクも殺してくれる?」
もう、こんなところにいたくない。何も見ず、聞かず、考えず――ただの物質でいい。
男の目が俄かに野生を帯びた目つきになった。
「――君を殺すのは確かに簡単ですけど。僕は無益なことはしない主義なので殺しません。第一、死にたいなら自分でどうにかしたらいいでしょう。人の手を借りようとするのは本当は死にたくないからですよ」
怖いから、と男は云った。その言葉に貢は打ちのめされたように目を見開いた。それはまさに図星だったのだ。
本当は何度か死のうと思ったことがある。カッターで手首を切ったこともある。でも結局途中で怖くなってためらい傷しか作れなかった。もし死ぬのなら誰かの手で、とどこかで思っていた。だからこそ「殺してくれる?」と言葉が出たのだ。
小さな体を震わせて、貢は男を見つめた。口調は穏やかなのに、どこか危うい、危険な香りがしていた。それが分かっていて男から目が離せない。
不意に男が笑みを浮かべた。先ほどの野生のような目が細められる。まるでチェシャ猫のように。
「――いらない命なら、僕がいただきましょうか」
「――え」
「この世界から消え失せて、僕とともに闇に生きますか?そうすれば君を死ぬまで傍に置いてあげますよ」
――何を、云っているんだろうこの人は。ボクの命を貰う?死ぬまで傍に置いてくれる?
「君には僕のことを知られてしまいましたしね。君が僕に命をくれるならチャラにします。生きるも死ぬも僕次第。どうです?」
死ぬまで……傍に。――ずっと傍にいてくれるなら、命だってあげる。
貢はコクリと頷いていた。
「あなたと……いたい、です」
誰でもいい。ボクと一緒にいてくれるなら、それだけでいい。
「では、君は僕のもの、ということで。契約しましょう」
そう云って男は体を折って貢の唇に口付けた。温かな唇が触れるのを目を閉じて感じる。それは軽く触れてすぐに離れていった。
「これから君はこの世界の人間ではありません。僕の云うことだけ聞けばいい。もう君は僕のものですからね」
男の言葉に貢はぼんやりしながら黙って頷いた。何がなんだかよく分からなくなっていた。
ボクは死ぬことはなくて、この人がボクと死ぬまで一緒にいてくれて。ボクはこの人の云うことだけ聞けばいい。それだけでいいんだ。そう思ったら少し気が軽くなったように思えた。
「君はね、ここで『神隠し』に遭うんです」
「かみかくし?」
「聞いたことないですか?突然人が何の形跡もなくいなくなり、いつまでも戻ってこないことを云うんですよ。まるで神様が隠してしまったようだ、とね」
「……じゃあ、あなたは神様なの?」
貢の問いに男は楽しそうに笑みを浮かべる。
「さあ、どうでしょう。でも…君にとってはそうかもしれませんね」
そう云ってコートのポケットから透明な液体の入った小さな瓶を取り出し、蓋を開けて貢の鼻先に持っていった。少年は無意識にそれに鼻を利かす。そして顔を上げて男を見上げた。
「――あなたは誰?」
問いかけたとたん、グラリと世界が反転した。平衡感覚が保てなくなり、体が倒れこむ。その体を難なく抱きとめた男は意識がなくなった少年の耳元で囁いた。
「――君がこの先存在する理由になる男ですよ」
男の相貌には残忍で冷酷な笑みが浮かんでいた。
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