会社が喪服
いつも早起きは苦手な俺だが、今日は遅刻確定の目覚めだった。せっかくセットしていた目覚ましが、今日に限って止まっていたのだ。
朝飯の暇もなく、急いで着替えを済ませ家を出た。寝ぐせは残し、スーツもよれよれだ。どうせ間に合ったところで上司から大目玉を食らうのは想像に難くない。
会社に着き、自分の部署がある階に上ると、廊下には古株の清掃員であるノノムラさんがいた。
俺を見ても驚く様子は無く、ニコニコしながら会釈をしてきた。彼にとっても、この俺の醜態は見慣れたものだったからだ。
俺は勢いよく部署に入った。
しかし、そこから数秒立ち尽くしてしまった。
すでに仕事を始めている同僚達や上司がこちらに視線を向けている。それは、俺に対する軽蔑の目でも嘲笑の目でもなかった。
俺はまだ、夢でも見ているのではないか。
その部署にいた人間は皆、一様に真っ黒のスーツや着物を身に着けた、いわゆる喪服姿だったのだ。
「これは、どういう……?」
辺りを見回し、俺がしどろもどろで自分のデスクに行くと、そこには丁寧に折りたたまれた、一式の喪服があった。
他の人間の視線に押され、すぐにトイレで着替えて部署に戻った。喪服ではあるが、皆いつも通り仕事をしている。変わっている事と言えば、誰もが青白い顔でやけに元気がない事だ。
自分のデスクに座ったものの、異様な状況の前にまったく仕事が手につかない。
さり気なく隣の同僚に聞こうとしたが、何も答えてくれない。答えたくないというより、誰かに口止めされているような素振りだった。
一体どういう事だ。
全国喪服デーなんて話は聞いていないし、外にいた他社の社員で喪服を着た人間は一人もいなかった。だったら、俺にドッキリでも仕掛けているのだろうか。いや、部署全員が喪服なんて、シュールにも程があるドッキリに何の意味があるというのだ。
普通に考えて、喪服といえば葬式だ。誰かの葬式でも開くというのか。しかし、葬式場ならまだしも会社でまで喪服姿でいる事は無いだろう。
とすると、やはりドッキリというのが妥当な考えだろうか。
昼になっても、皆は喪服のままだった。
そのまま昼食をとっている光景はお通夜のようだ。一人一人が談笑もせず大人しく食べているので、沈んだ空気が余計にそれらしく見える。
何だか気持ちが悪くなり、俺はデスクで食事するのをためらった。
社内を出歩いてみて分かったが、どうやらすべての社員が喪服を着ているらしい。そして、誰に会ってもこの状況を説明してくれる人間はいなかった。
途方に暮れ、自分も昼飯にしようとした。
外に出てコンビニ弁当を買い、会社近くのベンチに腰掛ける。
すると、いつの間にか隣にノノムラさんがいた。
「今日も遅刻でしたな。目覚ましでも故障しましたか」
図星だった俺は黙って割り箸を割り、弁当に手を付けた。
この人と俺は、よく話をする仲だった。
新しく入社したばかりで、厳しい上司や素っ気ない同僚、仕事が覚えられないのを悩んでいた俺にとって、昔から会社にいて同じ社員でないノノムラさんは、格好の話し相手だった。
「ノノムラさん、今日の会社はどうなっているのですか?いきなり喪服で出社する所なんて、聞いた事ありませんよ」
この問いに、同僚からは厳しい顔で突っぱねられてきたが、ノノムラさんはニコニコしながら答えた。
「さあ、私は社員でないので分かりませんなあ。まあ、あなたもよれよれのスーツで仕事するよりは良いではないですか」
ずっとこの会社を見続けてきたノノムラさんでも分からないとなると、余程内密に行われている事なのだろうか。
俺は箸を置き、深いため息をついた。
「本当に、人生何が起きるかわからないですね。社会に出て実感しましたよ。やたら怒鳴られる事には慣れましたが、今日がこれじゃあどうしようもない」
「フフフ、そういうものです。社会に答えなどなければ教科書もありません。しかし、のらりくらりと進みながら経験を重ねていくのも悪くはありませんよ」
「そりゃあノノムラさんは長年の経験があるでしょうが、俺はまだ新人ですよ。新規契約もろくに獲得出来ず、叱られてばかり」
「新人とはいえ、取引先からしたら会社の代表ですから、好印象を持たせなくてはなりません。まずは積極的に会話をしてみたらどうですか。同じ土地の出身とか、同じ名前の人間というだけで話は弾みますよ」
ノノムラさんの言葉に、少しばかり励まされた気がした。
その後、他愛のない話をしているうちに昼休みも終わりかかってきた。俺は急いで弁当の残りをかきこみ、一緒に突っ込んだバランを慌てて吐き出した。
「あなたも変わりませんなあ。相変わらずそそっかしい人だ」
陽気に笑いながらノノムラさんは立ち上がった。そして帰りがけに振り向いて言った。
「あなたなら上手くやっていけます。これからも、ずっと」
「何です、まるで今生の別れみたいな言い方しちゃって」
俺の言葉に、ノノムラさんはただ微笑むだけだった。
結局取引先回りでは、喪服からいつものスーツに着替えさせられた。やはりこのおかしな行事はうちだけのものなのだろう。
取引先というものはややこしいマナーが多く、慣れるのに苦労する。
例えばエレベーターを使用する際は、社内の人間より後に降りなくてはならない。普段の生活ではよく考えない分、新人のうちは忘れてしまいがちだ。
相手と面会し、俺は名刺を交換し合った。すると、相手が少し驚いた顔をした。
「奇遇ですね、あなたと同じ名前です。私は結構珍しい名前だと思っていましたが」
言われて名刺を見ると、漢字まで一緒であった。
「あ、私も珍しい名前だと思います。両親は、昔飼っていた犬の名前から頂戴したと言っていました」
「犬の名前にも珍しい気がしますが、これも何かの縁でしょうかね。あなたとは上手くやっていけそうです」
俺の返事は悪くなかったらしく、相手は笑ってそう言った。
そこからはスムーズに商談もまとまり、久しぶりに充実した達成感と共に帰社した。これもノノムラさんのアドバイスのおかげに他ならない。
のらりくらりと経験を重ねていく。
俺もようやくそのスタートを切れたのかもしれない。
しかし帰社して、喪服に戻ってからはそんな喜びも消沈した。残りの一日をこの暗い社内で過ごさなくてはならないと思うと、気が滅入ってしまう。
やがて、社員がぽつぽつと帰る時間帯になった。だが今日は誰一人として、席を外す者はいない。
その時、上司が俺に声をかけてきた。今日で一番険しいその顔と不機嫌そうな声に、またお説教だろうかと身構えたが、そのまま上司は席を外すと、俺を連れて部署を出た。
上司と俺はエレベーターに乗り込んだ。
「あの、どういった用件ですか」
「社長室に行く。お前にとって、そして我が社にとっても重要な事だ」
それっきり、上司は口をつぐんでしまった。
社長室だなんて、どんな大事だろう。しかも俺に関係があるとは、まさかクビでも宣告されるのだろうか。なんてめちゃくちゃな一日だ。
エレベーター内に張り詰めた空気が漂った。
やがて最上階に到着し、廊下を歩いて社長室のドアの前まで来た。
「そろそろ教えてください。俺が何をしたっていうのですか」
「とにかく入れ。お前の疑問は、ここで全て解決する」
疑問とはまさか、会社が喪服である事もか。俺は恐る恐る入室した。
喪服姿の社長が立っていた。
応接用のソファーには、もう一人の人間が座っている。来客だろうかと思ったが、そこに座る人間を俺は知っていた。
俺がソファーに近づくと、その人間はゆっくりと振り返った。
「どういう事ですか、ノノムラさん」
そこに座るノノムラさんは、相変わらず穏やかな笑顔だった。後ろにいた上司が、ゆっくりと語りだした。
「この清掃員は、古くから我が社に務めている。それは、彼が我が社にとって欠かせない人物だからだ。彼は今まで我が社の発展に貢献してきた、偉大なる予言者だ」
言葉を失う俺に構わず、上司は続ける。
「このノノムラさんは、かのノストラダムスの如き予知能力を持つ特殊な人間なのだ。今に至るまで我が社のスピリチュアルカウンセラーを務めてくれていた。これはどの他社にも知られていない最高機密だ。うちの社員には、ある程度勤めた者だけに伝えていた。それでなくとも、一介の清掃員に興味を示す社員などいないからな」
上司は真剣な顔で語っている。社長も否定することはなく、黙って頷いていた。
「そして昨日、ノノムラさんは最後の予言をした。自分の死を」
ノノムラさんの死。
その言葉がはっきりと頭に残った。
「会社の長きにわたる軌跡を支えてきた人間の最期は、全社員で看取ってやらねばならんと、会社ごと喪に服する事を企画したのだ。しかし君のような新人が、ノノムラさんと深い交流があったとは知らなかった」
俺は改めて、目の前のノノムラさんを見た。ノノムラさんは決まりが悪そうにはにかんだ。
「あなたとは、どうしても最後にお話がしたかった。それで私はこの世を去る覚悟を決めるつもりでした」
何だか不思議な気持ちだった。今まで彼と過ごした日々が、急に懐かしく感じた。
「今日で最後だと思い、先程はつい贈り物をしてしまいました。取引先では上手くいきましたか?」
「同じ名前の人が……それって、まさか!」
「それが私の、本当に最後の予知でした。少しでも助けになってくれたら幸いです」
ノノムラさんは本当に予知能力を持っているのか。確かにそう考えると、今まで彼から受けたアドバイスは外れる事がなかった。
俺はそれこそ長年の経験の賜物とばかり思っていたが、ノノムラさんが会社勤めしていたなんて話は聞いた事がなかった。
「当初は単なる利益の為に、この会社に協力しました。勿論、沢山のお礼を受けたのは言うまでもありません。ですが年を経るうち、私は気づいてしまったのです。何があるかも知れぬ未来に向かって、もがきながらそれでも進んでいく事の尊さに」
「尊さ?」
「予知能力など無用の長物だったのです。先が見える未来など何も面白くない。先が見えないからこそ、今を全力で進んでいけるのですから。あなたがまさにそうです。あなたが壁にぶつかり、悩み、もがき、それでも進んでいく姿は私の夢でした」
俺は何だか、今まで自分を卑下していた事が恥ずかしくなってきた。
次第にノノムラさんの声は弱弱しくなっていた。
「これからも、頑張って、くだ、さ、い」
途切れ途切れの言葉が終わり、ノノムラさんは目を閉じた。
涙は出なかった。親しい人を失ったはずなのに、何故か晴れ晴れとした心持ちだった。
「時間通り、臨終のようだ」
静かに上司が告げた。
ノノムラさんの臨終はすぐに放送で伝えられ、社内の人間は皆手を合わせた。俺も手を合わせ、そして「ありがとう、ノノムラさん」と呟いた。
いつまでも、ノノムラさんは笑顔のままだった。