さん。
「今日は一緒に散歩にでも行きませんか?」
「行きます!」
江戸時代に来て三日目。初めての外出にあたしのテンションは上がっていた。
「凄い、教科書の世界だ!」
日本史の教科書にある写真そっくりで、ただ歩くだけでも面白い。現代じゃこんな新鮮な気持ちなかった。
先生からもらった朱色の着物を身に付け、髪もポニーテールにした。長時間の着物は辛いかと思ったけど、意外と苦痛はなかった。
「あたし、江戸の生活向いてるのかな……」
「そうかもしれませんね」
昨日は先生から江戸の町について教わった。実際、この世界は教科書とは少しだけ違うらしい。あたしが通ってきた穴から、まれに現代のものが落ちてくるそうで、それを利用した商売は必ず儲かるらしい。
「先生、江戸って面白いですね」
「喜んでいただけて私も嬉しいです」
会って間もないのに、あたしは先生に絶対の信頼を持っていた。
「ねぇ、先生……あれ?」
後ろであたしを見てた先生がいなかった。
「……はぐれた」
急いで来た道を戻る。戻ってるはずなのに、あたしは見覚えのない神社に来てた。
「どこよ、ここ」
道間違えちゃったかな……。
神社に人の気配はなかった。だだっ広い境内は雑草の抜いた跡がある。
「ちょっと休憩しよ」
履き慣れない下駄のせいで足がちょっと痛い。気持ち良い風が吹いてほっと息を吐く。
「成敗!」
「いだっ!」
背中に物凄い痛みが走る。目に涙を浮かべ振り返ると、ボサボサ頭の男の子がいた。
「何すんのよ痛いじゃない!」
「ここは俺の特訓場所だ、勝手に入って来るな!」
男の子、改めクソガキ君は再びあたしに木刀を振り下ろす。
「ぎゃぁっ!」
女らしさの欠片もない悲鳴を上げてあたしは間一髪で避けた。
「避けるな!」
「馬鹿言わないでよ当たったら痛いじゃん!」
着物の裾がはだけることも気にせず、あたしは必死に逃げる。
「逃げるな馬鹿女!」
馬鹿女ですと? ちょっと失礼すぎじゃありません?
比較的寛大なあたしでもさすがに怒った。
「いい加減に……っ!」
手近にあった木の棒をつかみ、クソガキ君の攻撃を受ける。
「しろってーの!」
「うわっ!」
あたしはクソガキ君の木刀を弾き飛ばした。
「幽霊部員、なめんなよ?」
一応剣道部員なんだぞ、この野郎。
唇をつり上げて笑えば男の子は顔を真っ赤にして騒ぐ。
「お、女のくせにっ!」
「女のくせにって……君いくつよ」
「十歳だよ! 文句あっか!」
いや別にないよ、どうでもいいもん。っていうか、さ。
「先生探すの忘れてたじゃん」
ヤバいよ、帰り道もわかんないのにどうすんのあたし。子供と喧嘩してる場合じゃないよ!
「先生のこと知ってんのか?」
「……は?」
お互いにぽかんとしてると聞き覚えのあるいつもの声。
「ああ、ここにいたんですか」
「せ……っ!」
「元先生!」
あたしとクソガキ君の先生は同一人物だった。
「幸宗、一般人にいきなり殴りかかってはいけませんよ?」
幸宗と呼ばれたクソガキ君は、不服そうに先生から目を反らした。
「しかも嫁入り前の方に……。傷が残るかもしれません」
「こんな女、誰も嫁になんか取らない」
黙ってたと思えば好き勝手言ってくれるじゃないの。
口と手が同時に出そうになったあたしを制したのは、他でもない先生だった。
「それなら、もう稽古は必要ありませんね。」
「えっ……」
初めて幸宗君が戸惑いの顔を見せた。
それがあたしには一番年相応に見えて、なんだか可愛かった。
「痛みを知らない人間が刀を持つ必要はありませんから」
にっこりと笑う先生。
「や、やだよそんなのっ!」
幸宗君は先生の着物をつかんで叫ぶ。駄々っ子みたいだけどそこまで稽古が好きなのかな。
「じゃあ、約束出来ますね?」
「……はい」
静かに頷く幸宗君。先生はまた微笑んで、彼の頭を撫でた。
「寿々さん」
「はい?」
「この子は私の剣術の教え子の一人で、幸宗といいます」
「……よろしくね、幸宗君」
そっぽを向く幸宗君にあたしは屈んで目線を合わせた。
あたしの方が年上だし、さっきの暴力は水に流してあげよう。
「幸宗でいい」
「そう? じゃあ幸宗」
「俺は、絶対に認めないからな!」
そう言い捨てて幸宗は走り去っていった。
「……何が?」
認めないって……意味がわかんない、しかも話が繋がってない気がするよ幸宗。
「たぶん、寿々さんが新しい生徒だと思ったんじゃないでしょうか」
明らかに楽しんでる口調で先生が言う。
「なかなか良い動きでしたしね」
「み、見てたんですか?」
うわー、絶対顔ヤバかったよ。凄い必死だったもん。
「剣術の経験、あるんですか?」
帰り道を歩きながら先生が聞いてきた。
「部活、って知ってますか?」
あたしの問いに先生は首を横に振る。
そりゃあそうだよね、江戸に部活あるわけないじゃん。
「簡単に言えば稽古事ですね。少しだけやってました」
真面目にやったのは中学と高校の始め、後は行ったり行かなかったりの幽霊部員だった。
中学の頃負けなしだったあたしが高校で男に負かされて、初めて挫折を知った。それから必死な努力もしなくなったっけ。
「今度教えましょうか?」
「いえ、あたしは……」
竹刀を握らないでもう半年近く経つ。半端な気持ちじゃ良くないし、現役に教わる勇気もなかった。
「そうですか、では暇なとき見学に来てみてください」
断る理由も特になかったので、あたしは頷いた。
そして次の日から、あたしは神社のお賽銭箱の横に座って稽古を眺めるのが日課になった。
「幸宗、もう少し脇をしめましょうか」
「はいっ」
稽古を受けてるのは幸宗だけじゃなかった。近所に住んでる子達が何人か来る。その中には女の子も紛れてた。
「春は何で剣術習ってんの?」
他の子の稽古中に、興味本位で聞いてみた。
「だって面白そうなんだもん」
体を泥だらけにした春は歯を見せて笑う。
「それに、これからは女も戦えなくちゃいけないでしょ!」
……こういう子が後に恐妻になるんだろうな。
明るく答える春にあたしはなんとなく近い未来が見えた気がした。
「寿々、ご飯出来たから先生呼んできてくれ」
「はーい」
静さんのご飯はいつも美味しい。晩御飯が一番豪華だから、あたしは毎日夜になるのが待ちどおしかったりする。
「今日のご飯何だろ。昨日は煮物だったし……」
心踊らせながら縁側を歩いて先生のいる部屋に向かう。
「なぁ、頼むよ元」
「こういうお願いは、もう聞かないと言いませんでしたか? 雄吉」
先生の部屋の前にいたあたしは、先生と誰かの話し声を聞いた。
「た、確かに聞いたけどよ……。この仕事はお前にしか」
仕事? 先生は剣術の先生じゃないの?
わけがわからず、ただ立ち聞きしているあたし。
「話すことはもうありません」
障子の向こうで動く気配を感じたものの、逃げることも隠れることも出来なかった。
「……寿々さん」
「あ、あの……ご飯です」
そのせいで先生と鉢合わせ。まともに目を見れなかった。盗み聞きの罪悪感があたしを蝕む。
「わかりました。雄吉、貴方もそろそろ帰ったらどうです?」
憎しみを込めた視線が先生に向けられたのがあたしでもわかる。それでも、先生は穏やかな表情を見せていた。
「仕方ない、今日は帰る。だがその前に……そちらのお嬢さんは?」
舐めるような視線があたしに向いて、耐えきれずに顔を伏せる。
「私の同居人ですよ」
「……寿々といいます」
あたしはおとなしく頭を下げた。
「ご丁寧にどうも。あっしは雄吉。元……いや、先生の一番の友人でございます。どうぞよろしく」
出っ歯の口が横に伸びる。あたしは雄吉さんをあまり好きになれる気がしなかった。
「じゃあ、良い返事を期待してますぜ」
雄吉さんは縁側からのそのそと出ていった。
「先生……」
「ご飯、でしたね」
「はい」
二人の会話が、知りたくてしょうがなかった。でも先生は何も言わなかった。たぶん、聞いてもはぐらかされるんだろうな。
あたしは楽しみにしていた夕飯を、しっかり味わえずに済ませてしまった。
「何かあったのかい?」
ご飯の後片付けはあたしの仕事。食器を洗っていると、背中から静さんの声がした。
「別に何も……」
「嘘はいらん。夕飯のアンタは上の空だった。先生もな」
「……先生も?」
あたしが全く気付かなかったのもあるし、静さんが気付いたのが意外だった。
「何も気付かないと思ったのかい? アンタの何倍生きてると思ってんだ」
お説教が始まると思い、目を伏せ肩をすくめる。
「で、何があった」
静さんを見れば真剣な表情。心配してくれてる、名前や歳くらいしか知らない他人を。
「先生は、先生じゃないんですか……?」
つい零してしまった。いつもと違う先生が気になって、不安になった気持ちを。
「どういう意味だい?」
「夕飯前に、雄吉さんって方が来てました。仕事の話をしてて、雄吉さんが一方的に押し付けてるみたいで……」
あたしの拙い話を聞いて少し渋い顔をした静さんは口を開いた。
「雄吉は金にがめつい男でねぇ。高い報酬が出るなら簡単に引き受ける馬鹿さ」
呆れた顔でため息を吐く静さん。
「しかもそれほど腕のある男じゃない。雄吉が仕事を成功させるのは雲をつかむようなもんだ」
つまり無理ってことだ。何だか迷惑そうな人に思えてくる。
「だからいつも先生に泣き付いてくるんだよ、あの馬鹿は」
しょうがない男だよと言う静さんの傍らで、あたしは先生がいる部屋の方に視線を向けた。
「そんな場所に立たずに、入ったらどうですか?」
何となく、先生の部屋の前に来てた。でも話し掛ける勇気なんてあたしにはなくてただ突っ立ってた。
硬直しているあたしを気にすることなく、先生はあたしを中に促す。
「どうしました?」
先生は和紙の本を端に置いて、あたしと向かいあった。あたしは何も言えずにただうつ向く。
「眠れませんか?」
「違うんです、あの……雄吉さんの言ってた仕事って」
「それを聞いてどうするつもりです?」
ほんの一瞬で空気が冷たくなった。
「別に、何も……」
「それなら、知る必要はありませんね」
先生が再び本に目を向け始める。まるで何も話したくないと言ってるように。
「……危ないこと、しないでください」
あたしにはそれを言うのが精一杯だった。
今日は登場人物の補足をしたいなぁ、と思いました。
主人公の寿々ですが、まぁ普通の子を想像してください。ボケと突っ込み両方してる子です。
次に寿々を拾った藤沢元さん。職業は一応武士でしょう。彼はこの小説の『謎』を持ってる……かもです。
最後に静さんですが、まぁ恐いお婆ちゃんですね。躾は怒鳴ってそうな行儀作法の鬼です。
今回はこんなもんで失礼します。次回も気が向けば誰か紹介するでしょう。
後書きまで読んでくださってありがとうございました。