エピローグ 本物の幸福と、止まったままの時計
東京都心の摩天楼を見下ろす高層ホテルの宴会場。
シャンデリアの煌びやかな光が、クリスタルのグラスに反射して揺らめいている。
今日は、俺が代表を務める技術開発ベンチャー企業が、大手メーカーとの大型提携を発表した記念パーティーだった。
会場には多くの業界関係者や投資家が集まり、次々と俺に握手を求めてくる。
「瀬川社長、今回の新技術は素晴らしい。まさに革命ですよ」
「ありがとうございます。苦労した甲斐がありました」
三十歳を超え、少し貫禄がついた自分の声を、俺はどこか客観的に聞いていた。
オーダーメイドのスーツに身を包み、左手薬指にはプラチナのリングが光っている。
十年前。学費の支払いに追われ、泥だらけの作業着で交通誘導のバイトをしていた頃の俺が見たら、きっと夢だと笑うだろう。
「お疲れ様、蒼太さん」
人波が途切れたタイミングで、柔らかい声がかけられた。
振り返ると、シャンパングラスを二つ持った女性が微笑んでいる。
妻の彩華だ。
彼女は俺の会社の共同創業者でもあり、公私共に最高のパートナーだ。知性的で、精神的に自立していて、何より俺の言葉を信じ、俺も彼女を心から信頼している。
「ありがとう、彩華。少し酔ったかな」
「ふふ、主役なんだから仕方ないわよ。でも、本当に良かった。あなたの長年の研究が、こうして形になって」
「ああ……ここまで長かったな」
グラスを受け取り、一口飲む。
炭酸の泡が喉を弾ける感触と共に、ふと、遠い過去の記憶が脳裏を掠めた。
『お金』と『信頼』。
かつてその二つに翻弄され、どん底を見た青春時代。
あの苦い経験があったからこそ、俺は「自分の力で道を切り開くこと」と「対等に向き合えるパートナーを選ぶこと」の重要性を骨身に染みて理解できたのだと思う。
「そういえば、さっき向こうに大学時代の知り合いがいたわよ。杉本先生」
「えっ、学生課の? 懐かしいな」
俺は彩華に断りを入れて、会場の隅にいた初老の紳士の元へ向かった。
杉本さんは、俺が特待生になった時に誰よりも喜んでくれた恩人だ。今は定年退職され、教育顧問をしていると聞いていた。
「おお、瀬川君! いや、今は瀬川社長か。立派になったなあ」
「ご無沙汰しております、杉本さん。お元気そうで何よりです」
昔話に花が咲く。
俺がどれだけ勉強に打ち込んでいたか、あの頃の俺がいかに必死だったか。
そして会話は自然と、あの「事件」のことへと流れていった。
「あの時の君の勇気ある告発は、今でも語り草だよ。あれのおかげで大学の膿が出し切れた。君は大学の救世主だったんだ」
「買い被りすぎですよ。僕はただ、自分の尊厳を守りたかっただけです」
「いやいや……。それにしても、人の道というのは因果応報だねえ。彼らのその後、知っているかい?」
彼ら。
名前を出さずとも、誰のことかすぐに分かった。
学生会費を横領し、多くの学生を食い物にしていた鰐淵恭介。
そして、俺のためという独りよがりな理由で彼に抱かれ、俺を裏切った飯島美咲。
「いえ、卒業以来、全く情報は入ってきていません。興味もなかったので」
「そうか、それが正解だろうね。……風の噂で聞いたが、鰐淵君は実刑を終えて出所した後も、まともな職には就けなかったそうだ。親からも絶縁され、今は違法な高利貸しの取り立てか何かで、危ない橋を渡り続けているらしい。いつまた捕まるか、あるいは消されるか……そんな人生だそうだ」
「そうですか」
心が痛むことも、ざまぁみろと笑うこともなかった。
ただ、当然の帰結だと思った。
他人の弱みにつけ込み、搾取することしかしてこなかった人間が、地道な労働に耐えられるはずがない。彼は一生、底辺を這いずり回るしかないのだ。
「それと……彼女の方だが」
杉本さんが少し声を潜める。
「彼女も大学を中退してね。実家に引きこもっていたそうだが、数年前に家を出て、今は都内の繁華街で水商売をしているらしい。……一度見かけたという卒業生が言っていたが、随分とやつれて、年齢よりも老け込んで見えたそうだ。『私は被害者だ』と、酔うと今でも管を巻いているらしいよ」
「……なるほど」
美咲。
かつて愛した幼馴染。
彼女はまだ、あの時の「悲劇のヒロイン」という役から降りられずにいるのか。
十年という歳月が流れても、彼女の時計はあの講堂で止まったままなのだ。
俺が自分の足で未来へ進んでいる間、彼女は過去の呪縛の中で、自分を正当化するために腐り続けている。
「嫌な話をしてしまったね。忘れてくれ」
「いえ、教えていただきありがとうございます。おかげで、完全に過去と決別できた気がします」
俺は杉本さんに頭を下げ、彩華の元へ戻った。
俺の隣には、聡明な妻がいる。俺の努力を正しく理解し、支えてくれる人がいる。
それだけで十分だった。過去の亡霊など、今の俺には何の影響も及ぼさない。
パーティーが終わり、会場を出たのは夜の十時を回った頃だった。
冷たい夜風が心地よい。
ハイヤーを待つ間、俺は少し酔い覚ましにホテルのエントランス付近を歩いていた。
彩華はクロークに荷物を取りに行っている。
ホテルの裏手には、少し古びた雑居ビルが並ぶ繁華街が広がっている。
煌びやかな表通りとは対照的な、都市の影の部分。
ふと、路地の入り口にあるゴミ捨て場の近くに、一人の女性がうずくまっているのが見えた。
派手だが安っぽいドレスを着て、ヒールのかかとが折れているのか、裸足で座り込んでいる。
酔い潰れているのだろうか。
関わり合いになるのはよそう。
そう思って視線を外そうとした時、街灯の光が彼女の顔を照らした。
ドキリとした。
見覚えがあったからではない。
あまりにも生気がなく、絶望に塗りつぶされた表情が、かつて俺が見た「ある顔」と重なったからだ。
「……うぅ……なんで……」
掠れた声。
その声質に、記憶の蓋が開く。
俺は吸い寄せられるように、数歩近づいてしまった。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、女性がゆっくりと顔を上げた。
濃い化粧が涙と汗で崩れている。目の下にはクマがあり、肌は荒れている。
だが、その目鼻立ちは、俺の記憶にある面影を残していた。
「……え?」
女性の目が大きく見開かれた。
焦点の定まらない瞳が、俺の顔と、俺が着ている仕立ての良いスーツを行き来する。
「そう……た、くん……?」
十年ぶりの再会だった。
飯島美咲。
かつて俺のためにと称して身を売り、結果として全てを失った元恋人。
彼女は今、俺の目の前で、ゴミ袋のように路地に転がっていた。
「……美咲か」
「嘘……本当に、蒼太くん? なんで、こんなところに……」
彼女は慌てて髪を直そうとし、立ち上がろうとしてよろめいた。
酒臭い匂いが漂ってくる。
「たまたまだ。仕事のパーティーがあってな」
「仕事……パーティー……」
彼女の視線が、俺の左手の指輪に釘付けになった。
「結婚、したんだ……」
「ああ。五年前に」
「そっか……。幸せ、なんだ……」
美咲の声は震えていた。
そして、次の瞬間、彼女の瞳に異様な光が宿った。
それは十年前、彼女が「犠牲」に酔っていた時と同じ、狂気じみた光だった。
「ねえ、蒼太くん。私ね、ずっと後悔してたの」
「……」
「あの時、私、本当にバカだった。でもね、信じて。心はずっと蒼太くんのものだったの。鰐淵になんて、一度も心を開いてなかった。私が本当に愛してたのは、あなただけだったのよ」
彼女は縋るように俺に近づいてきた。
汚れた手で、俺のスーツの袖を掴もうとする。
「今の私、こんなだけど……でも、やり直せるよね? 私たち、幼馴染だもんね? 私、蒼太くんのためなら、今度こそ何でもするよ。だから……」
「触るな」
俺は冷徹に言い放ち、一歩下がって彼女の手を避けた。
彼女の手は空を切り、虚しく震えた。
「何でもする? 十年前と同じ台詞だな」
「っ……」
「君は何も変わっていないんだな。自分の価値観だけで突っ走って、相手が何を求めているか考えようともしない。君の言う『愛』は、ただの押し付けだ」
俺の言葉は、以前よりも冷静で、だからこそ残酷に響いたはずだ。
今の俺には、怒りすらなかった。
ただ、目の前にいる「見知らぬ他人」が、哀れで仕方なかった。
「蒼太くん、そんな言い方……私、これだけ罰を受けたじゃない。大学も辞めて、親にも勘当されて、こんなボロボロになって……これ以上、何を償えばいいの?」
美咲が泣き叫ぶ。
自分の不幸を並べ立て、同情を引こうとするその姿に、俺は深く溜息をついた。
「償いなんて求めてない。君の不幸は、君自身が選んだ結果だ。俺には関係ない」
「関係ないって……そんな……」
「俺は自分の足で歩いてきた。君がいない十年間、俺は最高に幸せだったし、これからも幸せだ。君の入り込む隙間なんて、一ミリたりとも存在しない」
俺は財布から一万円札を一枚取り出した。
それを彼女に渡すのではなく、近くの地面に置いた。
「タクシー代だ。家に帰って、もう二度と俺の前に現れるな」
それは手切れ金ですらない。ただの慈悲だ。
これ以上、同じ空気を吸っていたくなかった。
「蒼太くん……嫌だ、行かないで……私を捨てないで……!」
「俺が捨てたんじゃない。君が十年前に、勝手に壊したんだ」
俺は背を向けた。
背後で美咲が崩れ落ち、号泣する声が聞こえた。
「あなたのためにやったのに」「どうして分かってくれないの」
そんな呪詛のような言葉が聞こえてきたが、俺の足は止まらなかった。
ホテルの車寄せには、彩華が待っていた。
俺の姿を見つけると、心配そうに駆け寄ってくる。
「蒼太さん? 遅いから心配したわ。どうかしたの?」
「いや、ちょっと昔の知り合いに会ってね。少し立ち話をしていただけだ」
「知り合い? どなた?」
「……もう、名前も忘れてしまったような人だよ。俺の人生には必要のない人だ」
俺は彩華の肩を抱き寄せた。
彼女の温もりが、路地裏の冷たい空気を払拭してくれる。
「そう。なら、行きましょうか。家でワインを開けましょ。お祝いの続きをしなきゃ」
「ああ、そうだな。帰ろう」
黒塗りのハイヤーが滑り込む。
俺たちは車に乗り込み、輝く夜の街へと走り出した。
バックミラーには、小さくなっていくホテルの明かりと、その影に飲み込まれていく路地裏の闇が映っていた。
あそこに、かつての「彼女」がいる。
一生、自分の愚かさと向き合いながら、過去の幻影に縋って生きていくのだろう。
彼女の時間は止まったままだが、俺の時間は進んでいく。
窓の外を流れる東京の夜景は、どこまでも美しく、希望に満ちていた。
俺は彩華の手を強く握りしめた。
握り返してくれる確かな感触に、俺は心からの安らぎを感じていた。




