サイドストーリー 愛という名の独りよがり
カーテンを閉め切った部屋は、昼間だというのに薄暗い。
実家の私の部屋。かつては蒼太くんとの写真や、彼と行ったデートの思い出の品で溢れていた場所。
今は、それらを見るのさえ辛い。
私はベッドの上で膝を抱え、電源の切れたスマートフォンの画面をぼんやりと見つめていた。
電源を入れるのが怖い。
通知が止まらないからだ。
SNSには、私の名前と顔写真、そして「横領犯の情婦」「勘違い女」「売春婦」といった罵詈雑言が溢れかえっている。大学の友人たちからの連絡も、最初は心配するものだったが、真相が知れ渡るにつれて軽蔑のメッセージに変わっていった。
「どうして……こうなっちゃったんだろう」
乾いた唇から、掠れた声が漏れる。
私はただ、愛していただけだった。
瀬川蒼太という一人の男性を、私の全てを懸けて愛し、守ろうとしただけだった。
それなのに、手元に残ったのは「裏切り者」という烙印と、一生消えることのない汚れた記憶だけ。
愛する彼はもういない。私が自らの手で、彼を永遠に傷つけ、追い払ってしまったのだから。
後悔という冷たい波に飲み込まれながら、私の意識は、あの運命の分岐点となった数ヶ月前へと遡っていく。
***
春の陽気が眩しかった五月。
あの頃の私は、毎日が不安で押しつぶされそうだった。
大好きな蒼太くんが、日に日にやつれていくのを見ていられなかった。
実家の事業が傾き、学費が払えないかもしれない。そんな噂を聞いた時、私の心臓は凍りついた。
蒼太くんは真面目で、責任感が強い人だ。私に心配をかけまいと、何も言わずに一人で抱え込んでいる。
バイトを掛け持ちし、睡眠時間を削り、ボロボロになりながら大学に通う彼の姿。
それを見るたびに、私は自分の無力さを呪った。
「何か、私にできることはないの……?」
お金があれば。私にお金さえあれば、彼を救えるのに。
でも、しがない学生の私には、数十万という大金を用意する術なんてなかった。
そんな私の心の隙間に、甘い毒が染み込んできたのは、ちょうどその頃だった。
『彼氏、退学寸前らしいね』
学生会副会長の鰐淵先輩。
ブランド物で身を固め、自信に満ちた振る舞いをする彼が、私に声をかけてきた。
最初は警戒していた。でも、彼の言葉は、溺れかけていた私にとって唯一の救命ボートのように思えた。
『俺の実家、理事と懇意にしててさ。裏から手を回せば、彼の学費を免除にできる』
そんな魔法のようなことができるなんて。
疑う気持ちよりも、縋りたい気持ちが勝った。
だって、そうでもしなければ、蒼太くんの夢が、努力が、お金という理不尽な理由で奪われてしまうから。
彼の隣で笑っていられる未来が消えてしまうから。
『その代わり、分かってるよね? タダってわけにはいかないんだ』
鰐淵先輩の目は、いやらしい光を帯びていた。
その意味するところを理解した時、全身が震えた。
怖い。嫌だ。逃げ出したい。
蒼太くん以外の男性に触れられるなんて、考えただけで吐き気がする。
でも。
ここで私が逃げたら、蒼太くんはどうなる?
退学して、夢を諦めて、一生後悔を抱えて生きていくことになるかもしれない。
私が我慢すれば。私が少しの間、目をつぶって、心を殺して耐えれば。
彼の未来は守られる。
「……やります」
震える声で答えた瞬間、私の中で何かが変わった。
私はただの彼女から、「彼のために自分を犠牲にする悲劇のヒロイン」になったのだ。
汚れることは怖かったけれど、同時に、「これほどまでに彼を愛している自分」に酔っていたのかもしれない。
この身を削って愛を証明する。それは、究極の献身のように思えた。
***
ホテルでの初めての夜は、地獄だった。
鰐淵先輩の肌の感触、匂い、荒い息遣い。全てが生理的に受け付けなくて、涙が止まらなかった。
痛みと屈辱の中で、私は必死に蒼太くんの笑顔を思い浮かべた。
(これは蒼太くんのため。これは蒼太くんの学費。私が泣けば泣くほど、彼は救われる)
そう自分に言い聞かせることでしか、精神を保てなかった。
事後、シャワーを浴びながら自分の体を洗っても洗っても、汚れが落ちない気がした。
鏡に映る自分の顔は、ひどく醜く歪んでいた。
でも、翌日、大学で蒼太くんの姿を見た時、不思議な安心感が湧いてきた。
「ああ、彼は今日も大学にいられる。私が守ったんだ」
そんな倒錯した満足感が、罪悪感を塗りつぶしていった。
それから、地獄は日常になった。
鰐淵先輩の要求はエスカレートしていった。
写真、動画、そして言葉での服従。
『彼氏を退学させたくないんだろ?』
その言葉は魔法の呪文だった。それを言われると、私はどんなに恥ずかしいことでも拒めなくなった。
むしろ、要求が過激になればなるほど、「私はこれだけ大きな犠牲を払っているのだから、蒼太くんは絶対に大丈夫だ」という確信が強まっていった。
蒼太くんに嘘をつくのは辛かった。
デートを断り、鰐淵先輩の元へ向かう時の胸の痛み。
でも、それすらも「誰にも言えない秘密を抱えて戦う孤独」として、自分の中で美化していた。
『ごめん、今日は課題が忙しくて』
蒼太くんにそうメッセージを送る指先は震えていたけれど、心の中では(許してね、これもあなたのためなの)と呟いていた。
真実を告げれば、優しい彼はきっと傷つき、自分を責めるだろう。だから私が墓場まで持っていく。
それが「愛」だと、私は本気で信じていた。
ある日、蒼太くんが特待生に選ばれたと聞いた時、私は天にも昇る気持ちだった。
「やった……! 鰐淵先輩が約束を守ってくれたんだ!」
本当に裏工作が成功したんだと思った。私の犠牲は無駄じゃなかった。私の体一つで、彼の才能が認められ、学費が免除されたんだ。
そう思うと、鰐淵先輩への嫌悪感さえもが、少し薄れるような気がした。彼は最低な人だけど、約束だけは守ってくれる「ビジネスパートナー」なのだと錯覚した。
だから、蒼太くんに『特待生通知』を見せられた時も、私は心の中で叫んでいた。
(すごいね蒼太くん。でもね、それは私が裏で頑張ったからなんだよ。私があなたを支えたんだよ)
彼の実力を信じていなかったわけじゃない。でも、鰐淵先輩の言葉と、自分の行為の正当性を信じたいあまり、私は現実が見えなくなっていた。
蒼太くんの「努力」よりも、自分の「犠牲」の方が価値があると思い込んでいたのだ。
鰐淵先輩に呼び出され、またあられもない動画を撮られている時も、私は心のどこかで笑っていたかもしれない。
「これでまた、彼の居場所が守られる」
レンズの向こうでニヤつく先輩の顔よりも、私の脳裏には、卒業式で笑顔を見せる蒼太くんの姿だけがあった。
私は完全に狂っていた。
自己犠牲という名の麻薬に溺れ、善悪の判断も、大切な人の本当の気持ちも、何もかも見失っていた。
***
そして、あの日が来た。
学生総会。
私は祈るような気持ちで客席に座っていた。
蒼太くんが特待生代表として挨拶をする。晴れ舞台だ。
彼がスポットライトを浴びている姿を見れば、これまでの苦しみも全て報われる気がした。
しかし、幕が開いた瞬間、私の世界は崩壊した。
蒼太くんが口にしたのは、感謝の言葉でも、決意表明でもなかった。
鋭利な刃物のような、告発の言葉だった。
『学生会副会長、鰐淵恭介。あなたが横領し、学生を脅迫している証拠です』
スクリーンに映し出される数字の羅列。
そして、見覚えのある写真の数々。
モザイク越しでも分かった。あれは私だ。あのホテルの壁紙、あの時の服装。私が鰐淵先輩に強要されて撮った写真だ。
会場が悲鳴と怒号に包まれる中、私は息をすることさえ忘れていた。
頭が真っ白になった。
羞恥心で顔から火が出るようだった。周囲の視線が全て私に突き刺さっているような気がした。
でも、それ以上に衝撃的だったのは、蒼太くんの言葉だった。
『架空領収書』『横領』『脅迫』『性的搾取』
そして、『裏工作など存在しない』という事実。
嘘……でしょ?
だって、先輩は言ってた。理事に頼んでくれたって。特待生の枠は、私が頑張ったから取れたんじゃなかったの?
蒼太くんは、「自分の力で特待生になった」と言っている。
事務局に確認も取ったと。
じゃあ、私は?
私がこれまで流した涙は? 重ねた嘘は? すり減らした心と体は?
全部、無駄だったの?
鰐淵先輩が警察に連行されていく様を見ても、ざまぁみろなんて思えなかった。
ただただ、自分が滑稽で、哀れで、惨めだった。
私は彼を助けるために体を売ったつもりだった。
でも実際は、ただ間男に騙されて、彼氏に隠れて浮気をし、その証拠を彼氏自身の手で満天下に晒されただけの女だった。
「愛のための犠牲」なんて高尚なものじゃなかった。
ただの「無知で愚かな裏切り」だったんだ。
***
総会が終わった後、私は無我夢中で走っていた。
蒼太くんに会わなきゃ。
誤解を解かなきゃ。
私はあなたを裏切ったんじゃない。あなたのためにやったの。騙されてたの。
そう伝えれば、優しい彼はきっと分かってくれる。
「辛かったね」って抱きしめてくれるはず。
そう信じていた。そう信じなければ、心が壊れてしまいそうだった。
中庭で彼を見つけた時、私は縋り付くようにその腕を掴んだ。
「蒼太くん! 凄かった……! 私、怖かった……!」
涙が溢れて止まらなかった。
やっと終わった。やっと彼に甘えられる。
そう思ったのに。
蒼太くんは、冷たく私の腕を振り払った。
その時の彼の目を、私は一生忘れないだろう。
軽蔑。侮蔑。失望。
かつて私に向けられていた、あの温かな愛情は欠片も残っていなかった。
まるで汚物を見るような、冷ややかな瞳。
『勘違いするな、美咲。俺は君を助けるためにやったんじゃない』
彼の言葉は、私の心臓をえぐり取った。
『君は俺のためと言いながら、俺に相談もなく、俺が最も軽蔑する男に体を差し出した。俺のプライドを傷つけたんだ』
反論したかった。
あなたのためだったのよ、と叫びたかった。
でも、彼が突きつけた「特待生通知書」の日付を見た時、私は言葉を失った。
私が鰐淵先輩と関係を持つ前から、彼は自分の力で道を切り開いていたのだ。
私の「助け」なんて、最初から必要なかった。
むしろ、私が勝手に汚れたことで、彼の努力に泥を塗っただけだった。
『君の犠牲は、完全に無意味だったんだ』
その一言が、私の存在意義の全てを否定した。
私が耐えてきた痛みも、恥も、全てが無意味。
ゼロじゃない。マイナスだった。
私は彼を救うどころか、ただ彼を傷つけ、失望させただけ。
『なぜ俺を信じなかった? 君は俺を信じることより、自分が悲劇のヒロインになって自己満足することを選んだんだ』
図星だった。
何も言えなかった。
私は蒼太くんの実力を信じきれていなかった。
彼と話し合い、共に困難を乗り越える道を探す努力を放棄して、安易な「自己犠牲」という劇薬に手を出した。
それは愛じゃなかった。
自分だけが気持ちよくなるための、独りよがりな劇だったんだ。
『君の顔を見ると、虫酸が走る』
最後に背を向けられた時、私は崩れ落ちることしかできなかった。
追いかける資格すらないと、痛いほど理解してしまったから。
遠ざかっていく彼の背中は、今まで見たどの瞬間よりも大きく、そして遠かった。
もう二度と、あの背中に触れることはできない。
私の愚かさが、彼との未来を永遠に断ち切ってしまったのだ。
***
あれから、私は大学に行けなくなった。
キャンパスには私の噂が広まり、誰もが私を嘲笑っている。
「彼氏のために身体を張ったつもりで、ただのセフレになってた女」
「頭お花畑の浮気女」
そんな陰口が聞こえてくるようで、一歩も外に出られない。
鰐淵先輩は退学になり、捕まったと聞いた。
当然の報いだ。彼には憎しみしかない。
でも、それ以上に憎いのは、騙された自分自身だ。
もし、あの時。
鰐淵先輩に声をかけられた時、すぐに蒼太くんに相談していれば。
「こんなこと言われたよ、バカみたいだね」って笑い飛ばしていれば。
今頃、私は彼の隣で、彼が特待生になったことを心から祝えていたはずなのに。
一緒にケーキを食べて、手をつないで、未来の話をしていたはずなのに。
失ったもののあまりの大きさに、涙すら枯れ果てた。
ふと、スマホの電源を入れてみる。
画面が光り、大量の通知が表示される。
その中に、一つだけ、蒼太くんのSNSの更新通知があった。
震える指でタップする。
そこには、青空の下で撮られた彼の写真があった。
少し痩せたけれど、憑き物が落ちたような清々しい笑顔。
『新しいスタート。自分の足で歩いていく』
そんな短いコメントが添えられていた。
その写真の中に、私の姿はない。影すらもない。
彼はもう、私のことなど過去の汚点として切り捨て、前を向いて歩き出しているのだ。
私だけが、この薄暗い部屋で、過去の過ちに縛られたまま取り残されている。
「ごめんね……蒼太くん……」
「大好きだった……本当に……」
誰もいない部屋で、私の謝罪の言葉は空しく響き、そして消えていった。
私が支払った犠牲は、彼には届かず、ただ私自身を汚し、破壊しただけだった。
この虚無感と後悔を、私は一生抱えて生きていくしかない。
それが、愛し方を間違えた愚かな女への、当然の罰なのだから。




