サイドストーリー 選ばれし者の誤算と転落
鉄格子の隙間から差し込む月明かりが、コンクリートの床に冷たい縞模様を描いている。
黴臭い布団、消毒液と排泄物の混じったような独特の臭気。そして、隣の独房から聞こえてくるうめき声や独り言。
ここは地獄だ。
いや、地獄よりもたちが悪い。ここは現実の、それも社会の底辺が集まる掃き溜めだ。
俺、鰐淵恭介は、硬い煎餅布団の上で膝を抱えながら、未だにこの状況を受け入れられずにいた。
「なんで俺が……こんなところに……」
数日前まで、俺はこの世の春を謳歌していたはずだった。
大学の学生会副会長という肩書き、親の資産、そして周囲からの羨望の眼差し。
欲しいものは何でも手に入った。高級ブランドの時計も、外車も、そして女も。
全てが俺の思い通りだった。俺はこの世界の支配者側の人間だったはずなのだ。
それがどうして、こんな薄汚い留置所の中で、明日をも知れぬ犯罪者として震えているのか。
すべての始まりは、あの女――飯島美咲に目をつけたことだったのかもしれない。
いや、違う。あいつの彼氏、瀬川蒼太とかいう貧乏学生が、生意気にも俺に歯向かったからだ。
あいつさえいなければ。あいつさえ、大人しく俺の足元に這いつくばっていれば。
俺の完璧だった人生設計が狂うことはなかったのに。
怒りと悔恨が入り混じる思考の中で、俺の意識は数ヶ月前、まだ俺が「王」として君臨していたあの頃へと遡っていく。
***
五月のキャンパスは、新入生たちの浮かれた空気で満ちていた。
俺は学生会室の革張りソファに深く腰掛け、窓の外を歩く学生たちを見下ろしていた。
手元には、学生会の予算管理データが入ったタブレット。そして、架空の領収書を作成するための裏ソフトが起動している。
「今月は『新入生歓迎イベント費』として、五十万ほど抜けるな」
独り言を呟き、ニヤリと笑う。
この大学の学生会予算は潤沢だ。だが、その管理体制はザルに等しい。俺のような「賢い」人間が少し数字を弄るだけで、簡単に裏金を作り出すことができる。
この金があれば、来週発売される限定モデルのスニーカーも、新しい女と遊ぶためのホテル代も、すべて賄える。
親のカードを使うと明細を見られてうるさいが、この金なら誰にも文句は言われない。まさに打ち出の小槌だ。
「恭介くん、紅茶入ったよー」
甘ったるい声と共に、同じ学生会役員の女子がカップを運んでくる。
俺は彼女の腰に手を回し、軽く尻を撫でた。
「サンキュ。気が利くな」
「もう、ここ学校だよ?」
嬉しそうに身を捩る彼女を見て、俺は内心で鼻で笑う。
ちょろいものだ。少し優しくして、ブランド物の小物をプレゼントしてやれば、女なんて簡単に落ちる。
だが、最近は少し飽きてきていた。
金でなびく女や、俺の肩書きに寄ってくる女ばかりで、征服感がない。もっとこう、抵抗する獲物を屈服させるような、ゾクゾクする刺激が欲しかった。
そんな時だった。
俺の視界に、中庭のベンチで弁当を広げているカップルが映った。
男の方は冴えない眼鏡の陰キャ風。服も安物で、見るからに金がなさそうだ。
だが、その隣にいる女は違った。
栗色のふわふわとした髪、清楚な顔立ち、そして何より、男に向ける献身的な眼差し。
「……へえ」
俺は興味を惹かれた。
あれは飯島美咲。文学部の一年だ。入学式の時に少し見かけたことがある。
そして男の方は、工学部の瀬川蒼太。成績だけはいいらしいが、実家が没落して学費に困っているという噂を耳にしていた。
「あんな可愛い子が、あんな貧乏人の世話焼いてるのか。勿体ねえ」
男が立ち去った後、女が一人で寂しそうにベンチに残っているのが見えた。
その表情には、明らかな不安の色が浮かんでいる。
俺の直感が告げた。
『あれはいける』と。
彼氏の経済状況を心配する健気な彼女。その弱みにつけ込めば、極上の玩具が手に入るかもしれない。
俺はジャケットを羽織り、髪を整えてから学生会室を出た。
「よう、飯島ちゃん」
声をかけると、彼女は驚いたように肩を震わせた。
怯えた小動物のような反応。悪くない。
俺は優しげな先輩の仮面を被り、彼女の隣に座った。
「彼氏、大変みたいだねえ。学費のこと」
「えっ……鰐淵先輩、どうしてそれを……」
「学生会にはいろんな情報が入ってくるんだよ。実はさ、あいつの除籍処分、もうすぐ決定するらしいぜ」
もちろん真っ赤な嘘だ。だが、彼女は面白いほど簡単に信じ込んだ。顔から血の気が引き、瞳が揺れる。
俺はその絶望の表情を、最上のアペリティフのように味わった。
「ど、どうしよう……蒼太くん、退学なんて……」
「可哀想になあ。でも、世の中には『裏道』ってやつがあるんだよ」
俺は悪魔のカードを切った。
理事とのコネ。特別枠。学費免除。
彼女が喉から手が出るほど欲しがっている言葉を並べ立てる。
そして、その対価として求めたのは、彼女自身の身体だ。
最初は拒絶した。涙を流して「無理です」と言った。
だが、俺が「じゃあ彼は退学だね」と背を向けると、すぐに縋り付いてきた。
その時の彼女の顔といったら!
愛する男を守るために、自ら泥を被る決意をした悲劇のヒロイン。
その歪んだ自己陶酔と、俺への恐怖が入り混じった表情は、今まで抱いたどの女よりも唆るものがあった。
「分かったなら、ついておいで。彼の未来は、君にかかってるんだからさ」
俺の後ろをついてくる彼女の足取りは重かった。
だが、俺の心は高揚感で満たされていた。
あんな真面目ぶった貧乏人の彼女を、俺が寝取る。
しかも、その貧乏人のために、という名目で。
これ以上の優越感があるだろうか?
***
それからの数ヶ月は、まさに夢のような日々だった。
美咲は本当によく尽くしてくれた。
最初はマグロのように反応が薄かったが、俺が少し強めに調教してやると、次第に声を上げるようになった。
行為の最中に「彼氏のためだろ?」と囁くと、彼女はビクビクと震えながらも、俺に従順に従う。
その背徳感がたまらない。
「いい子だ、飯島ちゃん。これで瀬川も安泰だ」
事後のベッドで、俺は彼女の髪を撫でながら嘘を重ねた。
彼女は泣きながら「ありがとうございます」と言った。
俺にレイプまがいのことをされながら、感謝の言葉を口にする。滑稽すぎて、笑いを堪えるのに必死だった。
俺は調子に乗っていた。
学生会の金は使い放題、女は抱き放題。
美咲以外にも、似たような手口で数人の女子学生を食い物にしていた。
弱みを握る、甘い言葉で騙す、そして証拠として写真や動画を撮る。
フォルダに溜まっていくコレクションを見返すたびに、俺は自分が神にでもなったような錯覚に陥っていた。
瀬川蒼太のことも、完全に侮っていた。
キャンパスですれ違うたびに、疲れた顔をしているあいつを見て、心の中で嘲笑った。
(お前が必死にバイトしてる間、お前の彼女は俺の下で鳴いてるんだぜ?)
(お前の学費なんて、俺が払うわけないだろ。バーカ)
あいつが図書館に籠もって勉強している姿を見るたびに、俺は自分の「賢さ」を再確認した。
汗水垂らして努力するなんて、無能のすることだ。俺のように、他人の弱点とシステムの穴を利用して、楽に生きるのが真の勝者なのだと。
ある日、美咲から「蒼太くんが特待生になったって言ってた」と聞かされた時も、俺は焦るどころか、自分の手柄のように錯覚すらしていた。
「へえ、俺の口利きが効いたかな」
そう言うと、美咲は目を輝かせて「やっぱり先輩のおかげなんですね!」と信じ込んだ。
馬鹿な女だ。本当に俺が何かしたと思っているのか。
あいつが自力で取ったなら、それはそれでいい。これからも「その資格を維持するため」という名目で、美咲を脅し続けられるからだ。
「そろそろ動画でも撮るか」
「えっ……それは……」
「嫌ならいいけど、特待生の取り消しくらい、俺の一言でできるんだぜ?」
「……やります。やらせてください」
怯える美咲にカメラを向ける。
レンズ越しに見る彼女の屈辱にまみれた姿は、最高にエロティックだった。
この支配が永遠に続くと、俺は疑いもしなかった。
***
そして迎えた、運命の学生総会。
あの日、俺は新調したイタリア製のスーツに身を包み、上機嫌で会場に向かった。
愛車のポルシェを来賓用駐車場に停め、取り巻きたちと談笑しながら最前列の席につく。
「今日の特待生代表、あの瀬川らしいっすよ」
「へえ、真面目クズ代表のお出出しか」
俺は鼻で笑った。
壇上に上がった瀬川は、緊張しているのか顔が強張っているように見えた。
(精々頑張ってスピーチしろよ。お前の彼女の動画、昨日の夜も見返して抜いたけどな)
そんなことを考えながら、俺はあくびを噛み殺していた。
だが、次の瞬間。
スクリーンに映し出された映像を見て、俺の思考は停止した。
「……は?」
そこに映っていたのは、俺しか知らないはずの、裏帳簿のデータだった。
赤字で修正された数字、架空の領収書。
見覚えがありすぎる。俺が夜な夜な、学生会室のPCで作っていたものそのままだ。
なぜ? どうしてあいつがこれを持っている?
「この責任者は――学生会副会長、鰐淵恭介先輩。あなたですね?」
瀬川が俺を指差した。
会場中の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
冷や汗が背中を伝った。心臓が早鐘を打つ。
まずい。これはまずい。
だが、俺はまだ高を括っていた。親父に頼めば揉み消せる。金で解決できる。所詮は学生の告発だ、証拠能力なんてないはずだ。
「ふ、ふざけるな! デタラメだ!」
俺は立ち上がり、虚勢を張った。
しかし、瀬川は止まらなかった。
次に映し出されたのは、俺の「コレクション」の一部だった。
モザイク越しでも分かる、美咲や他の女たちの姿。そして、俺が送った脅迫めいたLINEのスクショ。
『今日来なかったら彼氏の籍を抜くぞ』
『動画撮らせろよ』
会場の空気が変わった。
呆れや驚きではない。明確な「敵意」と「殺意」に近い怒気が、数千人の学生から放たれていた。
俺を見る彼らの目は、もはや人間のそれではない。汚物を見る目だ。
「やめろ……消せ……!」
俺は悲鳴を上げた。
俺の築き上げてきた「完璧な自分」が、ガラガラと崩れ去っていく音が聞こえた。
ブランド物で固めた鎧も、親の威光という盾も、この場では何の意味も持たなかった。
瀬川の冷徹な声が、俺を断罪する判決文のように響く。
「鰐淵先輩。あなたは嘘をつき、立場の弱い女子学生を脅迫し、性的搾取を行っていましたね?」
その時、俺は初めて瀬川という男の目を見た。
そこにあったのは、俺が想像していたような「弱者の嫉妬」ではない。
俺という存在を害虫として処理しようとする、絶対的な強者の冷たさだった。
こいつは、俺を殺しに来ている。社会的に、完全に抹殺するために。
警察が入ってきた時、俺は腰が抜けて動けなかった。
手錠の冷たい感触が手首に食い込む。
痛い。怖い。恥ずかしい。
会場から浴びせられる罵声。
「最低」「死ね」「犯罪者」
違う、俺は選ばれた人間だ。俺は悪くない。女たちが勝手についてきたんだ。俺はただ、少し楽しんだだけだ。
「離せ! 俺は悪くない! 親父を呼べ!」
無様に喚きながら連行される俺の視界の端に、瀬川の姿が映った。
彼は壇上から、ゴミを見るような目で俺を見下ろしていた。
その隣に、美咲がいる幻覚が見えた気がした。
彼女もまた、俺を軽蔑しているのだろうか。それとも、まだ俺の嘘を信じて「助けて」と泣いているのだろうか。
どちらにせよ、もう関係ない。
俺の栄光の日々は、ここで完全に終わったのだ。
***
そして今。
留置所の独房で、俺は膝を抱えている。
取り調べでは、全てが捲れていた。
横領の証拠は完璧に揃っていた。PCのログ、金の流れ、そして削除したはずのデータまで、全て瀬川によって復元されていたらしい。あいつ、ただのガリ勉じゃなかったのか。工学部のトップって、ハッカー並みのスキルがあるのかよ。
さらに、美咲以外の被害者たちも次々と証言を始めた。
「鰐淵に脅された」「無理やり動画を撮られた」
彼女たちの証言が、俺の首を真綿のように、いや、鉄の鎖のように締め付けていく。
親父からは絶縁を言い渡された。
「家の恥だ。二度と敷居を跨ぐな」と弁護士を通じて伝えられた。大学はもちろん退学。それどころか、実刑判決は免れないだろうと弁護士はさじを投げている。
「クソッ……クソッ……!」
俺は壁を殴りつけた。拳が痛むが、心の痛みには及ばない。
なんでこうなった。
俺はただ、上手く立ち回っていただけなのに。
賢く、要領よく、愚民どもを利用して生きていただけなのに。
「瀬川……」
あいつの名前を呟くと、吐き気がした。
あいつは今頃、称賛を浴びているのだろうか。
俺が食い物にしていた美咲を捨てて、新しい人生を歩んでいるのだろうか。
俺はあいつを見下していた。
金もない、コネもない、ただ真面目なだけのつまらない男だと。
だが、本当に愚かだったのは誰だ?
目先の快楽と小さなプライドのために、足元の地盤が崩れていることに気づかなかったのは、誰だ?
「俺かよ……」
涙が溢れてきた。
悔し涙ではない。惨めさへの恐怖と、失ったものの大きさへの絶望の涙だ。
明日もまた、無機質な取調室で刑事の罵声を浴びる日々が待っている。
そしてその先には、刑務所という本当の地獄が待っている。
かつて「王」気取りだった俺に残されたのは、犯罪者番号という新しい名前だけだった。
隣の独房の男が、狂ったように笑い出した。
その笑い声が、俺の未来を暗示しているようで、俺は耳を塞いで小さく丸まった。
もう、誰も助けてはくれない。
俺が美咲に嘘をついたように、今度は俺が「ここから出られる」という叶わぬ嘘を、自分自身につき続けるしかないのだ。




