第四話 無意味だった犠牲、そして断罪
九月。夏休みが明け、後期授業が始まる直前の日曜日。
大学の大講堂は、異様な熱気とざわめきに包まれていた。
今日は全学生、教職員、そして理事会のメンバーが出席する「学生総会」の日だ。通常であれば、学生会からの活動報告や予算承認といった退屈な儀式で終わるはずのイベントだが、今日の空気は少し違っていた。
「おい、聞いたか? 今年の特待生代表の挨拶、工学部の瀬川らしいぞ」
「瀬川って、あの地味な? でも成績トップなんでしょ?」
客席の至る所でそんな囁きが交わされている。
俺、瀬川蒼太は舞台袖の薄暗がりの中で、じっと出番を待っていた。
スーツのポケットには、USBメモリと、ボロボロになるまで読み返した「特待生決定通知書」が入っている。
心臓の鼓動は驚くほど静かだった。緊張よりも、ようやく全てを終わらせられるという冷徹な使命感が、俺の体を支配していた。
「瀬川君、準備はいいかい?」
「はい、大丈夫です」
進行役の職員に頷き、俺は深く息を吸い込んだ。
チラリと舞台の袖から客席を覗く。
最前列の中央、革張りの来賓席には、学生会役員たちがふんぞり返って座っている。その中心にいる鰐淵恭介は、退屈そうに欠伸を噛み殺していた。隣の役員と談笑し、時折スマホを弄っている。自分がこれから断頭台に上げられるとも知らずに、随分と余裕な態度だ。
そして、客席の中ほど。
飯島美咲の姿があった。彼女は舞台を見つめ、祈るように両手を組んでいる。その瞳は潤み、頬は上気している。
きっと彼女の脳内では、感動的なストーリーが出来上がっているのだろう。
『私の犠牲のおかげで、蒼太くんがあの舞台に立てている』
そんな歪んだ達成感に酔いしれている彼女を見るのは、これが最後になる。
「それでは、本年度成績優秀者特別奨学生、瀬川蒼太君による挨拶です」
アナウンスが響き、割れんばかりの拍手が起こる。
俺は一歩、光の中へと踏み出した。
***
演台の前に立ち、マイクの高さを調整する。
数千人の視線が俺に集中する。その中には、鰐淵の侮蔑を含んだ視線や、美咲の熱っぽい視線も混じっている。
「工学部二年の瀬川蒼太です」
俺の声がスピーカーを通して講堂に響き渡る。
静まり返る会場。俺は用意していた原稿を演台に置いた――ふりをして、そのまま脇に退けた。
「本日は、このような栄誉ある場をいただき、感謝しています。……ですが、私が今日ここに立ったのは、単に勉学の成果を報告するためではありません」
俺の言葉に、最前列の教授陣が怪訝な顔をする。
俺は演台のPCにUSBメモリを差し込み、手元のリモコンを操作した。
背後の巨大なスクリーンに、スライドが投影される。
「この大学には今、重大な病巣が潜んでいます。学生の代表たる者が、その立場を利用し、私腹を肥やし、あまつさえ学生を脅迫しているという事実をご存知でしょうか」
会場がざわめき始める。
最前列の鰐淵が、眉をひそめてこちらを睨んだ。「おい、何を言ってるんだ」と口を動かしているのが見える。
俺は構わず、次のスライドを表示させた。
「これは、学生会の過去二年分の会計データと、実際の領収書を照合したものです」
ドン、と表示されたのは、赤字で修正された無数の数字と、架空の会社名義の領収書の画像だ。
「イベント運営費、備品購入費、渉外費……。総額にして約三百五十万円。これらの使途不明金は、すべてある一個人の口座、または遊興費に消えています。その責任者は――学生会副会長、鰐淵恭介先輩。あなたですね?」
俺は指を突きつけ、鰐淵を名指しした。
会場から悲鳴のような驚きの声が上がる。
鰐淵が弾かれたように立ち上がった。
「ふ、ふざけるな! なんだそのデタラメは! マイクを切れ! こいつを降ろせ!」
鰐淵が怒鳴り散らすが、俺は事前に音響スタッフ(彼もまた、鰐淵の横暴に腹を立てていた一人だ)に根回しをしていた。マイクの音量は下がらない。
「デタラメではありません。これらの架空領収書を発行したとされる『株式会社W・S』などという会社は実在しません。そして、これらはすべて、あなたがSNSに投稿していた高級ブランド品の購入日時と、金額が一致しています」
スクリーンに、鰐淵の裏アカウントの投稿(高級時計や車を見せびらかす写真)と、横領の日付を並べた比較画像が表示される。
あまりにも露骨な証拠に、会場の空気は「困惑」から「軽蔑」へと変わっていく。
「おい、マジかよ……」
「学生会費で車買ったってこと?」
「最低……」
罵声が飛び交う中、鰐淵の顔が真っ赤に染まっていく。
だが、俺の追及はこれで終わりではない。
「金銭の問題だけなら、まだマシでした。ですが、鰐淵先輩。あなたは自分の立場を利用し、『退学を回避させる裏工作ができる』『奨学金の口利きができる』と嘘をつき、立場の弱い女子学生を脅迫し、性的搾取を行っていましたね?」
その言葉が出た瞬間、会場の空気が凍りついた。
俺は次のスライドに切り替える。
そこには、モザイク処理された数枚の写真と、匿名による被害者たちの証言テキストが並んでいた。
その中には、カラオケボックスで撮影された美咲の写真も――個人が特定できないよう加工はしたが――含まれていた。
「『俺と寝なければ退学になる』『彼氏を退学させる』……そうやって脅された被害者は、一人や二人ではありません。これは、被害を受けた学生たちから提供された、あなたとのLINEのやり取りです」
スクリーンに映し出される、鰐淵の卑劣なメッセージの数々。
『今日来なかったら彼氏の籍を抜くぞ』
『動画撮らせろよ、事務局への手数料だ』
そのあまりにも醜悪な内容に、女子学生たちからは悲鳴が上がり、男子学生たちからは怒号が飛んだ。
「で、デタラメだ! 全部捏造だ! 俺は知らない! 俺の親父が誰だか知ってるのか!」
鰐淵は顔を歪め、壇上に駆け上がろうとした。
だが、その時には既に、会場の扉が開いていた。
「そこまでだ、鰐淵恭介」
入ってきたのは、スーツ姿の男たち――警察官だ。
その後ろには、大学の理事長も青ざめた顔で立っている。
「な、なんで警察が……」
「僕が通報しました。これらの証拠はすべて、既に警察と大学監査委員会に提出済みです。被害届も受理されています」
俺は冷ややかに告げた。
鰐淵は腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。
親の権力を笠に着ていた男の末路は、あまりにも無様だった。
警官たちが鰐淵を取り囲み、手錠をかける。
「離せ! 俺は悪くない! あの女たちが勝手に体を売ってきたんだ! 俺は頼まれたから抱いてやっただけだ!」
往生際悪く喚き散らす鰐淵の声が、マイクを通さずとも会場に響く。
その醜い言い訳は、彼の破滅をより決定的なものにしただけだった。
連行されていく鰐淵を見送り、俺は深く息を吐いた。
会場は騒然としている。
俺はマイクのスイッチを切り、静かに壇上を降りた。
俺の役目は終わった。
だが、まだもう一人、決着をつけなければならない相手がいる。
***
講堂の外に出ると、秋の涼しい風が火照った頬を撫でた。
騒ぎを聞きつけた野次馬たちが遠巻きに見ている中、俺は誰もいない中庭へと歩を進めた。
背後から、ヒールの音が慌ただしく追いかけてくる。
「蒼太くん! 待って、蒼太くん!」
振り返ると、そこには涙で化粧を崩した飯島美咲が立っていた。
彼女は息を切らし、俺の腕に縋り付いてきた。
「凄かった……! 蒼太くん、あいつを捕まえてくれたんだね! 私、怖かった……ずっと怖かったの!」
美咲は俺の胸に顔を埋め、泣きじゃくり始めた。
その言葉を聞いて、俺は心の底から冷え切っていくのを感じた。
彼女はまだ、自分が「被害者」であり、俺が彼女を救うために戦ったのだと信じているのだ。
「鰐淵を告発した=美咲を救った」という図式が、彼女の中では成立してしまっている。
「……離してくれ」
俺は彼女の腕を振りほどいた。
美咲が驚いたように顔を上げる。
「え……?」
「勘違いするな、美咲。俺は君を助けるためにあいつを告発したんじゃない。あいつが俺の大学を腐らせていたから排除しただけだ」
「で、でも……あの写真、私のでしょ? 私が脅されてたこと、知っててくれたんでしょ? 私、蒼太くんのために……!」
「蒼太くんのために」
その言葉が、俺の逆鱗に触れた。
「俺のため? ふざけるな」
俺は低い声で吐き捨てた。
怒鳴るつもりはなかったが、抑えきれない怒りが声に乗る。
「君は『俺のため』と言いながら、俺に一言の相談もなく、俺が最も軽蔑するような男に体を差し出した。それがどれだけ俺のプライドを傷つけることか、考えたことはあるか?」
「だ、だって! そうしないと蒼太くん、退学になっちゃうって聞いたから! 事務局に裏工作を頼むには、ああするしか……」
美咲は必死に言い募る。
俺は懐から、一枚の紙を取り出した。
あの日、掲示板で見た通知書の原本だ。
「これを見ろ」
美咲の目の前に突きつける。
『成績優秀者特別奨学生 採用通知』。
日付は、美咲が鰐淵と関係を持ち始めた時期よりも前だ。
「え……?」
「俺は自分の力で、正規の手続きで特待生になったんだ。裏工作なんて最初から必要なかった。事務局の職員にも確認したさ。鰐淵が言っていた『コネ』なんて、そもそも存在しないんだよ」
「そ、そんな……」
美咲の顔から血の気が引いていく。
彼女が信じていた世界が、音を立てて崩れ去っていく瞬間だ。
「鰐淵はただ、君を騙して遊んでいただけだ。君が体を張って支払った『代償』とやらは、一円たりとも俺の学費にはなっていない。君の犠牲は、完全に無意味だったんだ」
「嘘……嘘よ……」
美咲は首を横に振る。認められないのだろう。
自分の汚れた行為が崇高な自己犠牲ではなく、単なる「無駄な浮気」だったという事実を。
「私が……私が毎月、あんなにひどいことをされて、我慢して……それが全部、無駄だったって言うの? 蒼太くんのために汚れたのに……?」
「だから! それが間違いなんだよ!」
俺は通知書を握りしめた。
「俺は君にそんなこと頼んでない! 『助けてくれ』なんて一言も言っていない! なぜ俺を信じなかった? なぜ俺に相談しなかった? 君は俺を信じることより、自分が『悲劇のヒロイン』になって自己満足することを選んだんだ!」
美咲がハッと息を呑む。
図星だったのだろう。彼女の献身の裏には、常に「彼を支える健気な私」という陶酔があったはずだ。
「君が鰐淵に抱かれている間、俺が何をしていたか分かるか? 必死にバイトして、寝る間を惜しんで勉強していたんだ。君が汚れている間、俺は自分の力で未来を切り開こうとしていたんだよ」
俺は冷たい目で彼女を見下ろした。
かつて愛した女性の姿は、もうそこにはなかった。
ただの、愚かで哀れな、他人を信じきれなかった裏切り者がいるだけだ。
「君の『汚れた手』なんて、俺はこれっぽっちも欲しくなかった。君が勝手に汚れただけだ。俺を巻き込むな」
「蒼太くん……ごめんなさい、許して……私、あなたが好きで……」
美咲はその場に泣き崩れ、俺の足に縋り付こうとした。
だが、俺は一歩下がってそれを避けた。
汚いものを見るような目で、彼女を一瞥する。
「もう遅いよ」
その一言が、決定的な拒絶だった。
「俺たちはもう終わりだ。二度と俺の前に現れないでくれ。君の顔を見ると、虫酸が走る」
俺は背を向けた。
背後で「嫌だ、待って!」という美咲の絶叫が聞こえたが、振り返らなかった。
彼女はこれから、一生背負っていくことになるだろう。
「愛する人を守るため」という美辞麗句で自分を飾り立てた結果、その愛する人を最も深く傷つけ、ただ自分を汚しただけだったという虚無感を。
キャンパス中に知れ渡った「横領犯の情婦」というレッテルと共に。
***
数ヶ月後。
冬の気配が近づくキャンパスを、俺は歩いていた。
鰐淵は退学処分となり、横領と恐喝の罪で刑事告訴された。実家の親もスキャンダルに巻き込まれ、社会的地位を失ったと聞く。
美咲は……あれ以来、大学に来ていない。噂では、実家に連れ戻され、精神的に病んで引きこもっているらしい。
自業自得だ。同情する気にはなれなかった。
「瀬川君!」
呼び止められて振り返ると、同じゼミの女子学生が笑顔で手を振っていた。
手には資料の束を持っている。
「次の発表の準備、手伝ってくれる?」
「ああ、もちろん」
俺は笑顔で応えた。
空を見上げると、雲ひとつない快晴が広がっている。
学費の心配もなく、邪魔する者もいない。
俺の目の前には、自分の力で勝ち取った、輝かしい未来だけが広がっている。
「行こうか」
俺は新しい一歩を踏み出した。
足取りは軽く、心はどこまでも澄み渡っていた。
もう二度と、誰かの「無意味な犠牲」になど縛られない。
俺の人生は、俺自身の手で切り拓いていくのだから。




