第92話 決闘
「その覚悟、良し。――では、行くぞ」
バーキッシュは静かに宣言すると、足元に魔法陣が光る。漆黒の紋が床を走り、そこから黒い霧がゆらりと立ちのぼる。
「あれは……魔王の影か?」
ユキチとギルの表情がこわばる。あの禍々しい気配には、嫌というほど見覚えがある。
「ふん、あんたこそ覚悟しなさいよ」
アリシアは余裕の表情。
「妹を大事にしないお兄ちゃんがどうなるか――その体で教えてあげるわ」
その声には、怒りと悲しみが入り混じっていた。まるで、自分の兄、ガラムへの警告のように。ふたりの間に、ピンと張りつめた空気が走る。
ごくり――。脇で見ているユキチが息を飲む。
――が。
「ところで――決闘ってどうやって始めるの?」
アリシアの素っ頓狂な質問に、バーキッシュの力が抜ける。場の緊張が一瞬にしてほどけ、ギルが思わず噴き出しかける。ユキチは額に手を当て、「あいつは……」とぼやく。
「いつでもいい。好きに始めろ」そう言いかけて、バーキッシュは考え直す。
「……おい、おまえが合図しろ」
そう言うと、床に転がっていたリリアの猿ぐつわを外した。リリアの口から、口内に溜まっていた唾液がだらだらと垂れる。しかし両手両足はまだ縛られたまま、身動きひとつ取れない。
「では、改めて――」
バーキッシュが低く構えを取る。足元の魔法陣が再び光を帯び、空気がぴんと張り詰めた。
「は、はひめッ!!」
しばらく猿ぐつわをされていたせいか、呂律の回らないまま叫ぶリリア。それでも声は確かに響き、決闘の幕が上がった。
「早速だが――おまえには私の傀儡になってもらおう」
バーキッシュの口角が吊り上がる。
「これでこのバカげた決闘もおしまいだ。行け、"ファントム・サーヴァント"!」
足元から噴き上がる黒い霧。それはまるで生き物のように蠢き、アリシアに襲いかかる。
「やっぱり、それを使ったわね」
バーミリオン家の必殺魔法――魔王の影。グラスノヴァのゴーレム騒動に始まり、ヴェルドット、ラグライドの竜神、ついでにリリア。散々それと戦ってきたアリシアにとっては、もう慣れた相手だった。
アリシアが右手を掲げ、呪文を唱える。
「――ラ・ルース!」
右手から放たれた白い閃光が一瞬で黒い霧を貫き、消し飛ばした。
「な、なんだと……!? 我が家の極意が、こんなにもあっさりと……!?」
唖然とするバーキッシュ。その後ろで、リリアが口角を上げる。
「だが――負けられん!!」
魔法が通じないと悟るや否や、バーキッシュは自ら地を蹴り、肉弾戦へと移行する。魔族の肉体の力は、人間のそれをはるかに凌駕する。だが――
「――悶絶!筋肉緊張地獄!!」
アリシアの詠唱が一瞬早かった。
「ぐ、ぐああああっ!?」
ふくらはぎを押さえて床に転がり、のたうち回るバーキッシュ。日常生活では味わったことのない痛みが、バーキッシュを襲う。
「どうかしら? “まいった”って言うなら、今のうちよ」
「だ、誰がそんなことを言うかッ!」
「なら、仕方ないわね――悶絶!睫毛大逆転!!」
「ぐああああっ!!」
再びバーキッシュの悲鳴が響く。目に鋭い痛みが走り、まぶたを開けることすらままならない。汗と涙で顔がぐしゃぐしゃだ。
「なかなか頑張るじゃない! じゃあ、これも味わいなさい――苦悶!阿鼻叫喚!!」
「はっ……はっくしゅん!!」
くしゃみを連発するバーキッシュ。くしゃみをするたびに、まつ毛が目に刺さり、ふくらはぎも悲鳴を上げる。もはや、まともに立つこともできない。構えを取る余裕もなく、よろめきながら鼻を押さえる姿はもはや滑稽ですらあった。
「そして――これが、とどめよ!」
アリシアが両手を高く掲げる。
「絶望!噴出心的外傷!!」
次の瞬間、彼の瞳から生気がすっと消える。これはアリシアが新たに編み出した呪術。相手の子供のころの恐怖を呼び覚まし、精神を屈服させる魔法。
外から見ればただ呆けて立っているだけ。だがバーキッシュの眼前には、幼少期の忌まわしい記憶が蘇っていた。
――「立派な魔王になれ」と言いながら、両親の拳が、痛みが、叱責が降り注ぐ。褒められたことなど一度もなかった。ただ「なぜできない」と言われ続けた日々。
「ああ……お父様……お母様……ごめんなさい、ごめんなさい……もう叩かないで……いい子にします……魔法も、上手に使えるようになります……」
虚空を見つめながら、バーキッシュの頬を涙が伝う。あれほど高貴に満ち溢れた貴族の顔も今はなく、幼子のように泣きじゃくっている。
「今のうちにナイフで首かっ切れば勝ちじゃね?」
ユキチがぼそっとつぶやく。だがアリシアは動かない。アリシアがそういう勝ち方を望まないことは、みんな知っていた。
やがて――バーキッシュの瞳に、少しずつ生気が戻る。彼は床に倒れ、震える手で顔を覆った。アリシアは静かにその姿を見下ろす。
「どう? まだやる?」
アリシアが腰に手を当てて問いかける。バーキッシュはその目を直視できず、うつむいた。
「……まいった。俺の負けだ。リリアのことは……好きにしろ」
絞り出すような声。その頬を伝う涙と鼻水が、彼のプライドの終わりを告げていた。
「よかった。あたしも、これ以上は傷つけたくなかったからさ」
アリシアはほっと息をつき、いつもの笑顔に戻る。そして、リリアのもとに駆け寄ると、拘束具を解く。
「アリシア……おまえ、いつの間にそんなえげつない戦い方するようになったんだよ……」
ユキチが恐怖混じりに肩をすくめる。――そのときだった。背後から、低くよく通る声が響く。
「おやおや――。バーミリオン家の跡取りともあろう者が、ずいぶんと情けない姿ですね」
空気が、一瞬で張りつめる。ユキチの体がピクリと動いた。体が自然に戦闘態勢に入る。
「きさま……」
「久しぶりですね、聖女御一行様。――ゴブリン君も、元気そうで何よりです」
そこには、因縁の相手、リュートが立っていた。




