第59話 4つ目の刻印
アリシアが駆け寄ると、大司教がゆっくりと目を開け、額に手を当てた。
「うう……すみません。儀式の途中で気を失ってしまったようですね……お待たせしてしまったようで……さあ、刻印の儀式を続けましょう」
大司教はふらつきながらも立ち上がり、無理に笑みを作る。儀式を途中で放り出すわけにはいかない。彼女は改めて服を脱ぐと部屋の中央に進み、両膝をついて祈りの姿勢を取りなおした。――静寂。外のざわめきすら今は聞こえない。
しばらくすると、ぺた。肩甲骨の間あたりに刻印が押された感触がある。
(これで、四つ目……もう邪魔は入らなかったわね)
そしていつものように焼き付くような熱が走る。「……っ!」アリシアは思わず顔をしかめ、膝が震える。アリシアは祈りを続けながら、あの声を待つ。
——Elenas minari——
耳の奥に、重なるように響く声。アリシアはもう慣れたものだ。最初の時は怯えたが、今はその声を受け止める準備ができている。
——Elenas minari, bene venisti usque huc. Hic est ara caelo proxime. Tibi viam monstrabo.——
四つ目の刻印だからか、世界樹の頂上だからか、理由はわからないが、今回は随分たくさん話してくれる。もうおしまいかな、と思ったらまだ話は続いていた。
——Cum omnia sigilla collecta erunt, lumen sequere. Id ipsum erit quod finem itineris tui demonstrabit.——
(……ルーメン・セクエレ……)
出ました。またしても謎の単語。ただ、今回は比較的ヒントが多い。とりあえず刻印を五つ集めれば何かが起きるってことね。
(そして、今度こそ聞きたい。)
アリシアは声に出して問いかける。
「――クィス・エス・トゥ? エスネ・ディウィヌス?」
少しの沈黙。いつもならここで話は終わるが、今日は違った。声が返ってくる。
——Ego sum Aldora. Non sum divinus. Sed custos mundi. Et is qui vitam vestram optat.——
「アルドラ……」
アリシアは小さく呟く。その名を口にした途端、胸の奥に温もりのようなものが広がった。名前がわかっただけでも大躍進だ。神ではないというが、ニシムラ曰く、上の世界の住人なのだろうか。
「——アルドラ、クィド・スント・オウ゛ム・ステッラルム・エト・カリクス・サケル? ミヒ・アドゥク・ノン・プラネ・インテッレジビレ・エスト」
問いかけに応じるように、光が一瞬だけ強まる。だが返ってきた答えは一方的なものだった。
——In fine itineris te exspecto.——
「エクスペクタ、アルドラ!」
アリシアは必死に呼びかける。だが次の瞬間、光も声もふっと途切れ、ただ静寂だけが残った。上の世界とのつながりが切れたのだ。アリシアは両の拳を握りしめる。
「……旅の果て……必ず会いに行くからね、アルドラ」
背中の刻印が微かに光り、まるでその誓いに応じるように淡く鼓動していた。後ろでは、異様な光景に大司教が目を丸くしている。
「い、今のは……。おお! 私にも神の声が聞こえましたぞ!」
聖堂の静寂を破るように、大司教は涙と鼻水を同時に垂らしながら、その場にひざまずいた。
「聖女様……! やはりあなたこそ……!」
「やめてってば!」
アリシアは慌てて振り返り、ぶんぶんと手を振る。
「私は聖女じゃないし、アルドラも神様じゃないって言ってたんだから!」
必死に否定するが、大司教の目は完全に"奇跡を目撃した人間"のそれだった。——その時、聖堂の大扉が勢いよく開いた。
「大丈夫か? アリシア?」
ユキチの声が響く。
「って……お取込み中だったか?……ずいぶんマニアックなプレイだな」
ほぼ裸で仁王立ちするアリシアに、ひざまずく大司教。ユキチの声にわずかばかりの軽蔑が入る。
「はぁっ!?」
アリシアはずかずかとユキチに詰め寄る。その瞬間、自分がまだ下着姿だったことに気づく。
「ち、違うのよ! そういうんじゃないから!」
顔を真っ赤にして慌てて服を掴み、バタバタと身に着けるアリシア。後ろでユキチがぼそりと呟いた。
「いや、趣味は人それぞれだから……おれは気にしないぞ」
「ユキチ!!」
アリシアの怒号が聖堂にこだました。足元では大司教が涙と鼻水を垂らしながら、「ああ、聖女様……」と未だにぶつぶつつぶやいている。
「わかったわかった……それより大変なんだ。黒い雲がこの辺りを覆っていて……」
「それならもう大丈夫なはずよ」
アリシアは服を直しながら、あっけらかんと答える。
「……え?」
「ここに来た魔族のリリアとは友達になったから」
「と、友達? 魔族と?」
ユキチの声が裏返る。訳が分からないという顔をしながらも、建物から出て、改めて眼下を見下ろす――確かに黒い雲はもうない。
「……よくわかんねぇけど、無事でよかったぜ。その様子だと、刻印は無事もらえたんだな」
ユキチが胸をなでおろす。
「ええ。それと……いつもの“声”とも、ちゃんと会話ができたわ」
「へぇ。大進歩だな! なんだって?」
ユキチが目を輝かせる。
「あとで、皆と一緒に話すわね。まずは下に降りましょう……あたし、寒くなってきちゃった」
アリシアは身震いをする。
「まぁ、あんな恰好だったらそうなるわな」
ユキチが皮肉ると、アリシアはむっと唇を尖らせる。
「行こう。ラムネ。アリシアの護衛ありがとな」
ユキチは影で見守るラムネを呼び寄せると、頭をなでた。
「それじゃ、大司教様、あたしは下に戻るわね。どうかご壮健で」
そう言って歩き出すアリシアの後ろで――大司教はまだひざまずいたままだった。
「どうか、神のご加護が聖女様にあらんことを……」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、祈りを繰り返している。
「……だめだこりゃ」
アリシアたちは肩をすくめて、聖堂を後にした。




