第56話 世界樹頂上
寒い寒い寒い寒い。ゴール目前、アリシアはガタガタと震えていた。見下ろす景色は息を呑むような絶景なのだが、容赦なく吹きつける風がそれを楽しむ余裕を奪っていた。とにかく寒い。早く温まりたい。ラムネがアリシアを覆い、体温を逃がさないように守ってくれてはいる。だが、呼吸のために開けている穴からは、刺すような冷たい風が入ってくる。
「ラムネ、あと少しだから、一気に登っちゃおうか」
「プル!」ラムネはアリシアの言葉に応えるように震え、薄い膜をさらに伸ばして遠くの枝を掴む。風を切り裂き、枝から枝へ重力を無視したような軽快さで、すいすい登る。――そして、あっという間に頂上へ到達する。世界樹の頂上には、小さな聖堂がひっそりと建っていた。白い石で造られたその建物は、小さいながらも、どこか神々しさを漂わせている。
アリシアはノックすると、重たい木のドアを押し開けた。ギィィ……と音が鳴る。 建物の中は思ったよりも広かった。天井は高く、壁にはタペストリー。中央には祭壇がある。その前で、年老いたエルフの大司教がひざまずき、祈りを捧げていた。
「失礼しまーす」
声をかけると、大司教は振り返った。長い白髪が印象的。その瞳は深い緑。
「おお……もしかして巡礼の方ですか。ここまで来るのは大変だったでしょう」
「ええ、死ぬかと思いました」
「ふふ、誰もがそう言います。ですが、よくぞ参られました」
大司教はゆったりと立ち上がると、杖をつきながら歩み寄り、手を差し出す。
「ささ、座って。暖かい飲み物でもお出ししましょう」
言葉に甘え、アリシアは椅子に腰を下ろした。木でできた椅子は素朴だが、ふんわりとした毛皮が敷かれていて、冷えた身体が温まる。――しばらくして、湯気を立てるカップが目の前に置かれた。琥珀色の液体からは、ほんのり甘い香り。
「これは?」
「森の蜂蜜と薬草を煮出したものです。身体が芯から温まりますよ」
一口飲むと――
「……落ち着く……」
体の芯から暖まる。ここまで登ってきた苦労が救われたように感じる瞬間。
「嵐が近いようですね――」
大司教がふいに口を開いた。
「わたしはこんな隔離されたところに閉じこもっていますが、だからこそ見える世界もあるのです」
杖を握る手が小さく震えているのは、年齢のせいか、それとも迫る嵐を肌で感じているからか。
「あなたは……さしずめ聖女候補といったところでしょうか?」
アリシアは思わずむせた。
「ぶっ……せ、聖女!? いやいやいや、やめてください!」
大司教は柔らかく笑む。魔王候補の兄と、聖女候補の妹なんて冗談じゃない。どんな兄妹なんだよ。
「あたしは、ただのシスターですよ。しかも落ちこぼれの部類の。聖女様なんて恐れ多い」
聖女なんてなった日には、毎日お祈りするだろうし、そんなものになる気は毛頭ない。それよりも、この追放ライフで、冒険者ライセンスを片手にちやほやされながら、のんびりしたい。ほんの少しの間、沈黙が訪れる。外では風が唸り、世界樹全体を軋ませるように鳴らしている。アリシアはカップを両手で抱えながら、ふっと息をついた。
「――おいしいお酒とおいしいご飯。あとは愉快な仲間がいれば、あたしはそれでいいんです」
大司教はその様子をしばし見つめ、目を細めた。
「なるほど……あなたの心の力は、そういうところにあるのかもしれませんな。――いい心がけです」
大司教はうなずくと、ふっと息を吐いた。
「どうも急がれている様子。引き留めてしまい申し訳ありませんな」
祭壇の奥に歩み寄り、彼は古びた木片を取り出す。
「刻印を背中に押しますので……祈祷の前に、服を脱いでいただけますかな」
「え、ここで脱ぐんですか?」
アリシアは目をぱちくりさせる。
「大丈夫。神の前ではみな赤子ですから」
「そ、そういうものですかね……」
アリシアはしばし逡巡したが、結局は「しょうがない」とため息をつき、修道着を脱ぐと、下着姿になる。ランプの灯りに照らされ、白い肌に冷たい空気が触れる。
「教会でこんな格好になるのも、なんか変な話だわ……」
口を尖らせつつも、どこか吹っ切れたようにない胸を張る。
「……ま、ラグライドのサウナでも裸になったし、そんなものか」
自分自身によくわからない言い訳をしながら、羞恥心を吹き飛ばす。大司教は真面目な顔で、アリシアに一歩近づく。
「では――参りましょう。それでは――お祈りを」」
聖堂の中に漂う緊張感。嵐の気配と相まって、鼓動が速くなる。大司教の声に従い、アリシアは部屋の中央へ進み出る。ひざを折り、胸の前で手を組み、お祈りを始める。
――ところが、いくらお祈りをしても、刻印が押されない。
(いつもならこのくらいのタイミングでスタンプを押してくれるはずなのに……)
刻印の儀式は、何回もやったけど、刻印を押されるのはだいたい同じタイミング。だが、今回は違う、何かがおかしい。
「あのー、大司教様?」
いつまで経っても刻印が押される気配がない。アリシアはお祈り中ではあるが、しびれを切らして大司教に声をかける。
「もしもし?」
薄目を開けると、――両手の刻印がほんのり光っている。
(え、あれ? 刻印はもう押されたんだっけ?)
でも刻印の感触は、ない。熱くなっても、ない。嫌な予感がして振り返ると――大司教は床に倒れていた。そして、その後ろには一人の女が立っている。印象的な紅い瞳。金髪が背に流れ、顔立ちはまるで聖像画。だが――口からは牙が覗く。
「……誰……!?」
アリシアが叫ぶと、女はにやりと微笑む。そして、さわやかな声が響いた――。
「初めまして。――露出狂の聖女様」
アリシアは思わず声が裏返る。
「だ、誰が露出狂よ!?」




