静寂の試練
ワイバーンと遭遇した後は特に大きなトラブルもなく、二人はついに最初の巡礼の街グラスノヴァへとたどり着いた。街の入り口に足を踏み入れると、遠くの丘に白く輝く巨大な建物が見える。空を切り裂くようにそびえる尖塔。堂々たるその姿に、思わず足が止まった。
「あれが……ロシアナ大神殿か」
「本当にでかいわね。あたしも初めて見るけど……あんなの、お城よりすごいじゃない?まぁあたしはお城も見たことないんだけどさ」
ロシアナ大神殿——オルテリス大陸最大の神殿であり、別名『静寂の神殿』と呼ばれる。二つ名の割には随分と雄弁な外観をしている。
「——どんな物々しい場所かと思ったけど、なんだかキラキラしてて楽しそうじゃない!さっそくお祈り済ませちゃいましょう!」
坂道を元気よく駆け上がるアリシア。神殿の大きな門にたどり着くと、彼女は両手を軽く上げて、にこやかに言った。
「こんにちは~! 巡礼中の修道士でーす! お祈りしにきましたー!」
……その明るい声を遮るように、門の前に立つ神官がすっと道を塞ぐ。
「止まりなさい」
「あ、はい?」
「巡礼者よ。この神殿で祈りを捧げるには、試練を受けなければなりません。」
「そんな……試練があるなんて聞いてないんだけど……。ねぇ、ちょっとだけでいいの。ほんの……五分とか?ちょっとお祈りしたらすぐ帰るから、ね? ノー声でスッと。神様もOKしてくれると思うのよ?」
神官は首を振る。
「あーもー、わかったわよ。試練ってなに?腕立て伏せ?石段百段うさぎ跳び?それとも、もしかして地下迷宮?」
「それは静寂の試練。試練の間、あなたは一言も声を発してはなりません」
「……は?」
予想外の内容に、一瞬顔がこわばるアリシア。
「そんなのでいいの?よゆー。よゆー。」
大丈夫かなと見つめるユキチ。神官は無言。アリシアは大きく息を吸って、肩をぐるぐる回しながら気合いを入れる。
「よし、いいわよ。静寂?沈黙? 上等じゃない。あたし、やってやるんだから!」
「どうかお静かに。試練はもう始まります。」
言ってるそばから神官に突っ込まれるアリシア。
「うぐ……」
前途多難《泣きそう》なアリシアを見ながら、ユキチがぽつりとつぶやく。
「……まぁ、頑張って。うまい飯と宿は俺が探しとくよ」
「……」
アリシアは一瞬なにかをしゃべりかけかけたが、ぐっとこらえて親指を立てる。
こうして、アリシアの静寂《地獄》の試練が始まった。早速、神殿の一室に案内される。神殿内部は、どこもかしこもやたらと静かだった。いや、静かというか……うるさいくらい静か。
コツ……コツ……とアリシアの足音が反響するたび、背後の神官が「チラッ」と見る。なぜか「無言」だけじゃなく「無音」も求められているような空気である。
(うー……なんかもう……空気が重い……)
アリシアは口を開けずに、心の中でうなった。そして、神官《神経質男》から手渡された紙にはこう書かれていた。
【試練の内容】
・日没まで声を発してはならない。
・筆談、ジェスチャー、咳払い、口パクも禁止。
・ただし内なる祈りは自由。
(って、それコミュニケーション全部アウトじゃん!? えっ、魂で会話しろってか!? 無理無理無理!)
とはいえ、案内された部屋には何もなく、やることもないので、座禅のように座って“内なる声”で祈りを捧げる。
(……しずけさ……こころを……ととのえる……)
(あ、今日のごはんってなんだろう。おいしいお酒はあるかな?いや違う!雑念禁止!)
……15分経過。
(もう座るの飽きた)
(喉かわいた)
(なんか腹も減った)
(おしり痛い)
つい、腰を浮かしかけたその瞬間、すぐ近くの柱の陰から神官《監視役》がすっと近寄ろうとしてきた。
(出たな監視者!)
どうやら神殿では、修行者が“静寂”を破ろうとしたその瞬間に、不思議と神官の誰かが現れる。アリシアはそいつらを「静寂の守護者」と心の中で勝手に命名した。
(……負けてたまるか……!)
——一方、ユキチはというと……
「なんかあっちから、いいにおいがするな……」
静寂の神殿にアリシアを残して、ユキチは鼻を頼りに坂を下っていた。グラスノヴァの街は、どこかゆったりしていて、ミルクやチーズの匂いが流れてくる。酪農が盛んだと聞いていたが、なるほど納得だ。
大通りに出ると、よさげな宿屋の看板が目に入った。外観は清潔で、入り口の軒下に植えられたハーブが風に揺れている。
(……悪くない)
ユキチは中に入り、カウンターに立つ店主らしき初老の男に声をかけた。
「二人、泊まれますか?」
「ん、ああ、もちろん……って、坊や? お母さんとはぐれたのかい?」
「……えっ」
「ここは子供のくる場所じゃない。帰りな」
ユキチは黙って、冒険者証を懐から出して差し出した。男はそれを受け取って、しばし目を凝らす。
「……偽物じゃない……みたいだが……」
「本物だよ。Cランク。正式なギルド発行」
「……うーん……うちは、もう少し大人向けなんでな。坊やは別の宿をあたったほうがいい」
(……なんだよ、大人向けの宿屋って)
意味はよく分からなかったが、歓迎されていないことだけはよくわかったので、ため息をついて、ユキチは冒険者証を引き取り、無言で踵を返した。
しばらく街をさまよう。初めての街だ。土地勘もなく、ただ人通りの多い大通りを色々物色しながら歩く。そんなときだった。
「おい、コラ! 逃げんな!」
酒瓶の割れる音。路地裏の先、怒鳴り声とともに、蹴倒された木箱の陰から小さな影が飛び出した。
「っ……!」
逃げてきたのは、小柄な子供。まだ十歳にも届かないような背格好で、布袋を抱えている。
「へっ、ガキが!俺様にぶつかっておいて、無視とはいいご身分だな!?」
赤ら顔の酔っ払いがふらつきながら追いかけてくる。ユキチは、ふう、と一つ息を吐いて前に出た。
「おいおい、子供相手にムキになるなよ」
「はあ? なんだお前、関係ないやつはひっこんでな——」
次の瞬間、酔っ払いの足が地面から浮いた。正確には、ユキチの足払いがきれいに決まり、酔っ払いは背中から倒れた。
「いてててっ……!」
「大げさだなぁ。でもこの辺で手を引かないと、怪我しちゃうかもよ」
ユキチに冷たい目でにらまれた酔っ払いはそのままうめき声を上げながら、のそのそと退散していった。
残された子供は、何も言わずユキチを見つめていた。
「大丈夫か」
そう声をかけると、子供はこくこくと頷いた。
「家は? 親は?」
首を横に振る。
「……話せる?」
子供は口を開きかけたが、そのまま何も言わず、また首を横に振る。
(……言葉が話せない?)
ユキチが眉をひそめたとき、背後から足音が近づいた。
「あらあらあら、いたいた! トネリ、 よかった、無事で……!」
走ってきたのは、エプロン姿の中年の女性だった。
事情を聞くと、その子の名前はトネリ。親が早くに他界してしまい、親戚のおかみさんが今は世話をしているらしい。居候する代わりに、おかみさんの食堂を手伝っているのだとか。
「ちょっとお使いに出したらこんなことになっちゃって……ほんとに助けてくださってありがとう。お礼にって言ったらアレだけど、この後私のお店でお昼を食べていかないかい?お昼はまだだろう?」
「ありがとう。でも、まずは宿を見つけたくて……」
「まぁ、それなら、ちょっと狭いけど、うちの離れ部屋今空いてるのよ。よかったら使ってもらっていいわよ?」
「そんなにしてもらっていいんですか?」
「もちろん!トネリを助けてくださったご恩は返させてくださいな。そうと決まれば善は急げよ!トネリ、帰ったらお部屋の準備手伝ってちょうだいね。」
(ありがたい話だ……)
ユキチはおかみさんに軽く頭を下げて、グラスノヴァのにぎやかな街並みの中、あとをついていく。
おかみさんがやっている食堂『青空キッチン』はグラスノヴァの中心地からちょっと外れた辺鄙な場所にあった。景色がきれいで、例の大聖堂もよく見える。食堂の裏庭にある離れに案内されると、トネリはこくりとお辞儀をしてから、笑顔で手を振って去っていった。ユキチはふと、荷物を降ろして大聖堂を見ながらアリシアのことを思い出していた。
——あいつ、うまくやってるかな。静寂とは一番縁がなさそうだけど。
そのころのアリシア。こっちもちょうど昼ご飯の時間。無言のまま、食事が運ばれる。パンと水と、謎の白っぽいスープ。塩味すらしないんじゃないかと思われる質素な見た目の料理を、アリシアは恐る恐る食べてみる。
(食事中も声を出しちゃいけないのよね。)
(ってか、なにこれ。なんかこのスープめっちゃうまいんだけど!?)
声には出せない。でも感動は抑えられない。アリシアは必死で表情筋を総動員し、「おいし~~~~~!」という顔芸を全力で披露した。
結果——また柱の陰から"しずまも"がすっと寄ろうとしてきた。
(え、なに!? 顔の動きもアウト!? うそでしょ!?もしかしてジェスチャー判定?)
そして午後。思ったよりもおなかもふくれて眠そうなアリシアが、ぼんやり、壁の模様を眺めていた。
(もしかしてこのまま夜まで昼寝しちゃえば、何もしゃべらずに試練クリアできるんじゃないかしら)
なんて気楽に考えていたそのとき——
背後に突然「スッ」と何かの気配。
「うおっ!? なにっ!!」
しまった。思わず声が出た。しかも恥ずかしいくらい野太い声が。後ろから静かに現れた神官が無言で札を差し出す。
【本日の試練:失敗 どうぞこのままおかえりください】
「え、おしまい?ってかそれはずるいって!忍び足で驚かしに来るとか、卑怯にもほどがあるでしょ!?」
もう我慢できないと声に出してクレームをつけるアリシア。でも、いくら抗議しても神官は首を横に振るばかり。わかったことは、明日、日を改めれば再チャレンジできるらしい。
「明日こそは……」
今日の苦労が無駄になったくやしさを胸に秘めて、リベンジを誓うアリシアであった。
その夜、ユキチと合流したアリシアは、甘いミルクの香りのシチューを前に、全力で愚痴っていた。
「聞いてよユキチ! マジであれ反則だからね!? こっちは一生懸命黙ってたのにさ、背後にいきなりスゥッて現れてみ? 出るよ? 声! 驚くよ普通に!」
ユキチはパンをちぎりながら、アリシアの話につきあう。
「……そんなことで脱落する修道士が、果たして“心と向き合ってる”と言えるのかね」
「いや黙って。その顔で正論っぽいこと言うのやめろ! あたし本気だったんだから!」
「ま、明日もう一回頑張ればいいんんだろ。静かにするだけするだけじゃないか」
「それが本当に大変なのよ。もー、本当に。何が静寂の試練よ。考えた人はよほどの陰キャか変態ね。」
愚痴りながらも、アリシアの手は止まらず、口にはシチューが吸い込まれていく。
「それにしてもおかみさん、ここのシチューは最高ね!神殿で出たスープもおいしかったけど、なんかこう、コクに深みがあるというか……!あ、ビールもお代わり!」
あまりの食べっぷりにユキチのみならず、キッチンに立っていたおかみさんや給仕していたトネリも苦笑い。
「ねぇ、きみも1日中静かにしてろなんて言われたら困っちゃうよね。」
トネリに絡み始めるアリシア。トネリは、困った顔でうつむいている。
「……ああ、こいつ、言葉が話せないんだ」
ユキチが代わりに説明する。
「え?」
アリシアはスプーンを持ったまま、トネリを見つめる。
「そうだったの。ごめんなさい。そんな子を前にして、あたし無神経だったわね。」
トネリは、首を振る。
「ちょっと待って、ユキチ。この子誰かと違ってすっごいかわいいんですけど。」
「あぁ、からみ酒の誰かさんとは大違いだな」
「自己紹介が遅れたわね。あたしはアリシア。聖地巡礼の旅をしてるの。で、こっちはもう知ってるかもしれないけど、ユキチ。あたしの付き人兼ボディーガード。」
「いつの間に俺はお前の従者になったんだよ。」
トネリは、ぺこりとおじぎする。
「おいしいシチューとビールを運んでくれたお礼に、困ったことがあれば何でも言ってちょうだいね」
笑顔を浮かべて、うなずきながらトネリはキッチンに戻っていった。
「お前ってナンパの才能もあるんだな」
「なによそれ。あたしはこう見えても聖職者よ。みんなの悩みを聞くのが仕事なんだから」
「それはそれは大層なことで。ほら、ジョッキがもうカラだぞ。シスター。お代わり頼むか?」
「もちろん!あとソーセージの盛り合わせも!」
リベンジに燃える心もどこへやら。グラスノヴァの夜は更けていくのだった。
翌朝。
「……よし、今日は絶対成功する!」
昨晩の大騒ぎから心機一転、アリシアは早朝から気合い充分だった。もう驚かされない。もう喋らない。“しずまも”がどこから来ても絶対に動じない。
(……たとえ背後にワープしてきても驚かない! 心は静か! 無!)
そうして彼女は、再び静寂の神殿へと足を踏み入れる。案内されたのは、昨日と同じ部屋。昨日と同じ床。昨日と同じしずまもの配置。でも今日は違う。アリシアは集中する。意識を呼吸へ、体の感覚へ、そして——自分自身へ。
(……しずか……しずかに……あたしの中に……)
耳を澄ませる。外の音を手放し、意識を内側へ深く沈めていく。
すると——
(……ドクン……)
(……ドクン……ドクン……)
胸の奥から、確かに響いていた。自分の心臓の音。自分だけのリズム。
(これ……あたしの音?)
はじめてちゃんと気づいた気がした。普段は気にも留めなかった身体の音。でも、集中した静寂の中では、それがいちばん大きな“声”だった。
(すごい……これ、ずっと鳴ってたんだ……)
そしてアリシアは気づく。
——この音は、生きてる証なんだ。——このリズムに、あたしの“今”が全部乗っかってる。
(不安なときは、たぶん早くなるし……落ち着いてるときは静かになる……)
(それってきっと、誰でもそう……)
彼女は自分の鼓動を感じて、そっと目を閉じた。
(……他の人の音も、聞けたら……その人のことが、わかるのかな)
——そのときだった。
後ろで空気が揺れた。
(来たな……)
ふわりと漂う衣擦れの気配。息遣いすら聞こえない。昨日はその登場に驚いて声を漏らしてしまった“しずまも”——今日もまた、現れた。アリシアは静かに、瞳を伏せたまま意識を後ろへと向ける。
(……こんにちは、しずまも)
もちろん言葉にはしない。ただ、心の中でつぶやくだけ。すると、不思議なことに“しずまも”もまた、返事をくれたような気がした。風のような沈黙。音にならない"在る"ことの感触。
(あたし、少しだけ……わかったかもしれない)
——今なら心の音で、"しずまも"だけじゃない、世界とつながれる気がする。
アリシアはゆっくりと呼吸して、心の中で“しずまも”に語りかける。
(声に出すばかりが、伝える手段じゃないんだね)
(あんたたち神官も、ずっとこうやって……人の鼓動を感じ合ってるの?)
(それって……すっごく、優しい世界だと思う)
"しずまも"は何も言わない。ただ、そこにいる。でもアリシアはもう、それで充分だった。
日が傾きかけたころ、神官がまた静かに現れる。アリシアはもう驚かない。心の中で「おつかれ」と声をかける。神官が差し出した札には——
【本日の修行、完遂されました。明日、この札を持ってメインホールにお越しください】
アリシアは一瞬、目を細め、そして微笑んだ。
(……うん。ちゃんとやり遂げたんだ)
静かに深く、神官に礼をして、その場をあとにする。
(静かに“わかる”って、悪くないかも)
帰り道、神殿の門で待っていたあの門番の神官に向かって、アリシアは満面の笑みで宣言した。
「ねぇ聞いて。あたし、わかったの!言葉にしなくても心はつながるのね!」
門番の神官は、しばし黙ったままアリシアを見つめ——
「……?」
首をかしげた。
「……あ、ごめん、沈黙守らなきゃいけない感じ? まあいいわ、ありがとね!」
とても静寂の試練を合格した人とは思えないにぎやかさで、階段を駆け下りていくアリシアの背中に、門番の神官はほんのわずかに——目元を緩めた。
その夜、宿で。
「ふふん、今日は完璧だったわよ」
アリシアはチーズリゾットをかきこみながら、なんとも得意げだ。
「ほう。悟りでも開いたか?」
「……うん。ちょっとね、自分の音が聞こえたの。あたしの鼓動。……すごく静かで、でも、すっごく力強かった」
「へぇ……で?」
「世界ってね、声よりももっと奥で、静かに響いてる音でつながってるの。あたし、今日それを聞いたの」
「おお……静寂の中で、ついにアリシアが“詩人”になったか」
「そんなものじゃないわよ ……でも、ちょっと詩的な気分だったのは否定しない。」
「……で、詩人さん、リゾットのおかわりは?」
「もちろん、する!」
ユキチは苦笑しながら、おかみさんにお代わりを頼んだ。
「このやさしい味……今日の気分にぴったりだわ……。なんか、音じゃなくて、あたしの心に直接しみてくるっていうかさ……」
「……何言ってるんだよ。今日のおまえはいつも以上に意味が分からねぇ。」
「それならあなたも試練を受けることね!」
「あー、やだやだ」
翌朝、アリシアは再び神殿の門をくぐった。手には、昨日の修行を終えた証の札。
神官に札を見せると、無言で頷かれ、案内が始まる。通された先は、神殿の奥——広大な空間だった。
(……うわぁ……)
自然と足が止まる。無数の柱が高くそびえ、天井のステンドグラスから光が差し込んでいた。音が吸い込まれる。空気が、張り詰めている。言葉は交わせない。だからこそ、場の気配がすべてを語っていた。
案内されるがまま、メインホールの奥に神の像に祈りを捧げるアリシア。そしてしばらくすると、祈るアリシアにゆっくりと歩み寄ってきたのは、白と銀の装束の神父。いや、この神殿の最高位——大司教だった。
(よく来た。神の子よ)
心の声が聞こえる。
(アリシアと申します。聖地巡礼の命を受け、ヒルタウンよりこちらに参りました。)
アリシアは祈りの姿勢を解き、まっすぐ立ち上がる。
(よろしい。では、聖なる印を授ける。右手を前に。)
アリシアが右手を差し出すと、大司教は懐からすっと一枚の小さな木片を取り出し——
ぺた。
(……え?)
右手の甲に、妙な模様の刻印が刻まれた。ぐるぐると曲線が絡まり、中心に小さな円。目のようにも見える。
(……これが、祈祷の証……?)
……と思ったその時。じわじわと、手の甲が熱くなる。
(……ん……っつ!!?)
(あっちちちちちち!? なにこれ!? 熱っ!? 焼きゴテ!? いや神様なのに!?)
アリシアは顔をひきつらせて、必死に口を閉じていた。声を出してはいけない空間。今、声は出せない。歯を食いしばり、うっすら涙目になりながら、耐えていると——
——Elenas minari——
(……!?)
唐突に、“声”が頭の中に響いた。
(……だれ?)
——返事は、ない。
(エレナス・ミナリ……古代神聖語ね。確か意味は……人の子よ……。)
——Elenas minari, estella ovun aeth raelum.
(エステラは星で、ラエルムは災い。エース・ラエルムで、災いが来るとか、そんな感じ。でも、オヴンって何だっけ。)
(あー…セレン・タルム…クィ・エス・トーレン?)
わかる限りの神聖語で質問してみる。しかし返事はなかった。
(クァエス・エスト・オヴン・エステラエ?)
ダメもとでもう一度質問してみるが、やっぱり返事はない。気が付くと、普通の静寂が戻り、右手の熱はもう消えていた。そこには、黒い模様が残っているだけ。大司教は静かに頷き、アリシアを送り出した。
神殿を出ると、門番の神官が珍しく声をかけてきた。
「……もう次の巡礼に出るのかい?」
アリシアは右手をさすりながら、肩をすくめる。
「んー……まだしばらくここにいるつもり。なんか……神様に何か頼まれたっぽいし」
そう言って苦笑する彼女を見て、神官はまた目元を緩めるのだった。