第32話 灼熱の試練
「失礼しまーす」
アリシアは一人、竜神の住むという洞窟へと足を踏み入れた。入口をに入る前から、すさまじい熱気が肌にまとわりつく。息を吸うたび肺の奥が焼けるようで、あわててタオルで口元を覆う。
「……こんなに暑くちゃ、折角運んできた竜の卵もゆで卵になっちゃうんじゃないかしら」
冗談めかしてつぶやきながらも、背中の卵を確認する。岩壁には赤く光る鉱石が点々と埋まり、炎のように輝いている。進むにつれ光は強さを増し、いよいよその神秘性が洞窟を満たす。その洞窟の奥から、低く、重く響く声がこだました。
――人間、よく来たな。
足が止まる。心臓が一瞬で跳ね上がり、全身に冷たい汗が走る。闇の奥から現れたのは、洞窟の天井に届くほど巨大な影だった。黄金の瞳が二つ、ゆらりと揺れる。地面が揺れると、次の瞬間、全貌が赤黒い鱗に覆われた竜の姿が現れる。アリシアは言葉を失った。大きな翼、長大な尾、息で空気が震える。まさしくこの山を護る竜神――伝説の存在だった。
「その卵は、私の最後の希望……」
竜神はゆるやかに首を垂れ、アリシアの手に抱えられたものへと視線を落とす。
「取り返してくれて、感謝する」
アリシアはおそるおそる卵を差し出した。腕の中で脈打つように熱を帯びたその卵は、ただの命の器ではなく、炎そのものの鼓動を宿しているかのようだった。竜神は大きな爪でそれを受け取り、しばし目を閉じた。やがて、ふたたび重々しく口を開く。
「……そして、ついでにと言っては何だが、――お前の祝福を、この卵に与えてはくれまいか」
「え……祝福?――祝福って……お祈りのこと?」
アリシアは首をかしげた。教会の儀式でそれっぽいことは何度かやったことはあるが、なんとなく、この老竜が求めているのはそれとは違う気がした。
竜神は静かに首を横に振る。
「違う。おまえの魔力を、この卵に込めてほしい」
「えぇっ? そんなことしたら……卵、爆発しちゃわない? 言っちゃあ悪いけど、あたし手加減できるほど、器用じゃないわよ?」
実際に魔力を使って聖水を瓶ごと爆発させているアリシア。それを大事な卵にしていいものか心配になるのは当然のことだ。竜神は鼻息を鳴らし、くすくす笑うような響きを洞窟に広げた。
「心配は要らぬ。我が卵。そんなやわな器ではない。どうか、頼む」
「……う、うーん。本当に大丈夫? 魔力を込めるのは構わないけど、あとで文句は言わないでよね……。――じゃ、やるよ……?」
アリシアは卵を床に置くと、両手のひらを卵に向ける。そして、恐る恐る魔力を流し込む。卵がかすかに震え、ほんのりと光り始める。
「遠慮なく、もっとやってくれていいぞ」
竜神の声が響く。
「ほんとにぃ? どうなっても知らないわよ!」
アリシアは開き直るように目を開き、本気で魔力を注ぎ込む。――卵さらに輝きを増し、胎児の姿が浮き出る。幸い、今のところ爆発する気配はない。
「……ん?」
よく見ると、右手の甲の刻印が青白く光っている。こいつ、魔王関連でしか光らないものと思っていたけど、そういうわけでもないらしい。
「ねぇ、竜神さん、なんかあたしの右手が何かを発射しそうなんだけど、このまま光を当てちゃって大丈夫かしら? 正直あたし自身も、右手が何をしようとしてるかはさっぱりわからないから、説明のしようがないんだけど、多分悪いことじゃない気はするわ」
竜神はゆるやかに頷いた。
「――かまわない。その光りこそ我が望み。――どうかよろしく頼む」
「えぇ、じゃあこのまま続けるわよ。あ、なんか呪文も唱えるみたい――ル゛ゥエル・ソ゛ファ=リュ゛グ・ネア=オルヴクォ゛ル・メェラ=フロン=ダリュ゛、シェル゛=タア=グ゛ァラ=ノスフォル゛ア=リュ゛シ・カナ」
アリシアの口から謎の呪文が紡がれる。だがそれは、魔王の影や四天王を退けたものとはやや異なる。どこか優しい音色と言いたいところだが、実際には人間の喉では発音できないためか、かすれた音がところどころに混ざる。だがその呪文と共に右手の光はより強くなり、卵に注がれ、呪文の詠唱終了と共に収まった。
「ふぅ。これでどうかしら?」
どこか満足気のアリシア。
「人の子よ、感謝する。祝福の力、確かに見届けた。そしてこれは私からの餞別だ。受け取るがよい」
竜神は翼をアリシアの頭上に広げたかと思うと、アリシアの胸の奥に、ぽっと温かな感覚が広がる。眩い光がアリシアを包み込む。けれど、熱はない。
「……あれ? 熱くない……これは……?」
「それは我が竜の加護。おまえを守る力となるだろう」
「それは、もしかして、あたしも竜の息吹を撃てるようになったってことかしら?」
「いや、そういうわけではない。あくまでもおまえを守る加護だ。というか、おまえは竜の息吹を撃ちたいのか?」
ちょっとドン引きする竜神。
「もちろん! カッコいいじゃない」
即答するアリシア。
「ふふ……あの忌まわしき炎を、カッコいいとは。なんとも時代は変わったものよ。いいだろう、人の子よ。その願いかなえてやろう」
「本当に? いいの?」
「ただし、あの息吹は命を燃やす炎。決して易々と使うでないぞ。――さもなくばお前の命、息吹と共に消し飛ぶであろう」
「えぇ……」
今度はアリシアがドン引きする番だ。――だが竜神は既に追加の加護を授けようとしている。アリシアの頬を、光の風がやさしく撫でていった。
「これでよし。あとはおまえの覚悟次第だ。その時が来たら、その矮小なる魂で叫ぶがよい”燃えろ”と――我が加護の力をもって、竜の息吹は放たれるであろう」
「……アリガトウゴザイマス」
竜の息吹がまさか自分の命と引き換えに放つものだとは思いもよらず、緊張するアリシア。しかも呪文が短いときたもんだ。
(これは下手に「燃えろ」って言えなくなったぞ)
色々不安になるアリシア。だが、それをよそに満足げな竜神。
「人の子よ、まことに大儀であった。この成果を竜の子に報告するがよい」
「竜の子……多分大司教様か族長のことね! こちらこそ、尊大なる加護をいただき、ありがとうございました。どうか末永くご壮健でいらしてください――」
最後はシスターらしく、華麗にお辞儀をするアリシア。実際は服の下は汗でびしゃびしゃ。汗の足跡を残しながら竜神の洞窟を後にする。
「――ということで、無事、試練終わりましたー!」
汗をぬぐいながら大神殿へ戻ってきたアリシアは、ほっと胸をなでおろした。大広間の中央で待ち構えていた大司教が、厳かに頷く。
「巡礼者よ、ご苦労だった。では――祈りを捧げよ」
アリシアは言われるまま膝をつき、両手を組む。この神殿は床も暖かく、寝転がったら気持ちがいいに違いない。なんて考えながらお祈りをしていると、大司教が声をかけてきた。
「……よし。刻印を授けよう。――それでは、お腹を出しなさい」
「えっ? お、お腹!?」
アリシアは思わずのけぞる。そういえばギルも昨日そんなことを言ってた。大司教は木片を片手にまじめにうなずくが、お医者さんごっこを連想してしまったアリシアは何となく面白くなってしまう。とはいえ、これは神聖なる儀式。素直に修道着とシャツをまくろうとするアリシア。ちょっと待って。修道着ってワンピースだから、スカートからめくったらパンツ丸見えになっちゃうんじゃない? あぁ、ここは熱いんだし普段着にしておけばよかった。まぁいいかどうせすぐ終わるし。ええい、ままよ!――色々葛藤しながらスカートとシャツを胸元までまくるアリシア。見る人が見たら、ただの露出狂に見えなくもない。
その変態ポーズを気にも留めず、おへその周りの汗をタオルで拭うと”ポン”と刻印をつける大司教。その瞬間、アリシアのおへその周りがじわじわと熱くなってくる。
「あちちち……!」
思わず声が出る。静寂をよしとするロシアナ大聖堂では出せなかった声だ。見た目はかわいいスタンプなのに、その実この刻印は焼きゴテだ。アリシアのお腹に幾何学模様が刻まれるとともに、またして頭の中に声が響いてくる。
——Elenas minari——
(来たな!)
アリシアは頭の中を古代神聖言語に切り替える。
——Elenas minari, calix sacer lunam inscribe.
ええっと、カリクス・サケルで聖杯、ルーナムは月、インスクリーベは置け、だから——"聖杯を月に置け"ってこと?
「カリクス…? ヘウ、システ! オウ゛ム・イアム・フィニートゥム・エスト?」
「ルーナ… ? イッラ・クァエ・ノクテ・イン・カエロ・アッパレト? プルス・ドケ・メ、アリテル・インテッレゲレ・ノン・ポッスム!」
最後は半分怒号になっていたが、アリシアの問いに返事はない。洞窟に反響していた声も、光も、すべて静まり返ったままだ。お腹の熱はいつの間にか収まっていた。残されたのは胸の奥に残るじんじんとした熱と、相変わらず訳の分からないお告げだけ。アリシアはため息をつき、肩をすくめた。
「……今度は聖杯? そんなの見たことも聞いたこともないわよ。……ったく。神様って、どうしてこう、説明が下手なのかしらね……」
「大丈夫か、アリシア」
神殿の奥から心配そうにのぞくユキチとギル。二人とも腰にタオルを巻いている。「大丈夫」と言いつつ、自分がスカートをめくったまま、パンツ丸出しで神様に愚痴っていたことに気づく。慌ててスカートを下ろすと、取り繕った笑顔を返す。目の前の大司教も心配そうにアリシアを見ている。「――これが聖女様」大司教のコメントがアリシアの心に刺さる。
「――こんどは、"聖杯を月に置け"ですか」
汗を垂らしながらギルが聞く。
「そう。正確には、カリクス・サケル・ルーナム・インスクリーベって言ってたわ」
アリシアも汗を垂らしながら答える。
「古代神聖語ですね。失われつつある言葉なのに、よく勉強されてらっしゃる」
ルベリオ大神殿の大司教も汗をかきながら、アリシアをほめる。
「それにしても刻印を身に受けると、神の声が聞こえるとは――これは確かにただ事ではありませんね。私が刻印を受けた時にはそのようなことはありませんでした」
自分の丸くなったお腹を見つめる大司教。
「それにしても、意味は分かったけど、意味はさっぱりだな。星の卵の次は聖杯に月とは」
ユキチが首を振る。
「言い得てて、妙だ。まさかあの空に浮かぶ月に行けっていう話じゃないよな」
ルイスも汗をかきながら質問する。
「ギルは分かるんじゃないの? あんた大司教でしょ?」
アリシアの汗は床に滴って水たまりができている。
「いやぁ……」
ギルは真剣に腕を組み、しばらく考え込む素振りをした。ギルが座る石畳にも汗だまりができている。だが次の瞬間、きっぱりとした声で言い放った。
「知らない」
「知っとけよ!!」
アリシアが突っ込む。髪から汗が飛ぶ。ラムネにぴちちとかかるが、特に気にしている様子はない。
「そもそも何なのよ? この状況?」
「ここ? サウナに行きたいって言ったのはアリシアだろう?」
ギルが答える。
「サウナに行きたいって言ったけど、なんでみんなすっぽんぽんなのよ」
確かにみんな腰にタオルを当ててはいるが、裸だ。
「神の前で隠し事は禁じられているのです」
ルベリオ大神殿の大司教が胸をはってこたえる。
「俺たちはもう慣れたぜ」
ユキチは恥ずかしがるでもなく、ストレッチしている。
「そうだな、だが、いつまでもこのままというわけにはいくまい」
「ルイス……常識人はあなたくらいよ」
アリシアがそう言いかけた矢先。
「みんなで水風呂に行こう」
ルイスがタオルを肩にかけて立ち上がる。隆々たる筋肉だけでなく豊満な胸部など全てが丸見えだ。
「いいな。おれもそろそろ頃合いだと思っていたんだ」
ギルもタオルを手に持つと立ち上がる。こっちもいろいろ丸見えだ。
「ちょ……ちょっと、ギルまで……」
視線を外し、両目を手で隠すアリシア。
「何やってんだよ、アリシア。こういうのは恥ずかしがる奴が、一番恥ずかしいんだぞ」
ユキチもタオルを首ににかけると、アリシアの手を引っ張る。
「ほら、行こうぜ」
その時、アリシアは確かに見てしまう。ユキチの股間にあるべきものがないというか、ないものがないというか。――あぁ、確かに種族が違うのね。恥ずかしがってるのが馬鹿らしくなってきたわ。アリシアは呆れ半分、笑い半分でため息をついて立ち上がる。
「……わかった、わかった……って、ちょっとまって、水風呂? 冷たいんじゃないの? 心の準備が――」
はい。まずはこれで汗を流して。手桶を受け取るアリシア。おたおたしている間に他のメンバーは慣れた手つきで頭から水をかぶると水風呂に入っていく。ふと目に入ったギルのお尻がキュッと引き締まっててたくましい。あたしのお尻も引き締めたいなーなんて、ぼーっとした頭で突っ立つアリシア。水を頭からかぶる。
「つめたぁ!」
思わず叫ぶ。ぼーっとした目が覚める。ほらほら、わきの下の汗も流すよ。ルイスに促されるまま汗を流して、そのままに水風呂へ入る。
「うひゃあああああっ……つめたっ! これ以上は……」
「はじめはつらいけど、肩まで入っちゃえば一気に気持ちよくなるぞ」
太もものあたりまで水風呂に入ったところで逡巡するアリシアを、おいでおいでするユキチ。
「ほ……本当に……?」
お腹に手を当てて一気に肩まで入るアリシア。
「ひゃうぅ……つめたいぃ……ん?」
確かに冷たいはずなのに、なんだか暖かい膜で包まれている感覚。(なにこれ……天国?)さっきまでサウナで身体にこもった熱がじんわりと抜けていくのを感じる。
「まさかアリシア、ここが天国とか思ってないよな?」
「え? いやいや」
ユキチに心を見透かされたアリシア。
「これはこの後が楽しみだね」
ルイスまで訳アリの顔。ぷるぷる~。ラムネまで同意している。
「……えぇ、なんだか怖くなってくるんですけど……それはそれとして……水風呂が気持ちいい……」
「こらこら、水風呂で寝たら風邪ひくぞ。ほら、ほてりが取れたらこっちにおいで」
腰にタオルを巻いたギルがアリシアの手を引く。
「はえ――?」
アリシアが何か言うまでもなく一緒に水風呂を出る。そして大判のタオルを受け取って、体を拭くことに。もう裸であることはどうでもよくなっていた。
「――で、ここに座って」
ルイス用意した椅子におとなしく座る。
「あとは――目をつぶってればいいだけだな」
ユキチが笑いながらアリシアの隣の椅子に腰かけて目を閉じる。
「みんな何なのよ――ただ座るだけじゃない」
そういいつつも、なんだか水風呂で冷えた身体の感覚がだんだん戻ってきてふわふわした感覚になる。
――――――――!
これはめまいなのか、なんなのか、心が身体から世界に解き放たれたような感覚。世界がぐるぐる回る。身体が椅子に沈み込む。
――――これは、なに――――?
血が身体をめぐるのを感じる。熱が、空気が、感覚が全てが身体を通って抜けていく。
「はぁ……♡」
やっと感覚が落ち着いてため息を吐くアリシア。見上げた天井の模様が、美しい。遠くの水滴の音が、音楽。風が頬をなでるたび、宇宙の理を悟る。
「……あたし、今……世界のすべてがわかった気がする……」
神妙な顔でつぶやくアリシア。だが隣に座るユキチは冷や水を浴びせる。
「3分後には忘れてるさ」
「うるさいわね!」
アリシアはタオルを投げつける。それでも頬はゆるみっぱなしで、どうしようもなく心地よかった。
「1周目でととのうとは、素晴らしい」
大司教が感動する。
「え…………、1周……目?」
「……あぁ、サウナ、水風呂、休憩。このセットを繰り返すと、よりととのいやすくなるんだぜ。ちなみに、おれたちは……7周目……だっけ?」
ユキチの疑問に頷くギル。
「えぇ、なにそれ、あたしが竜神様のお使いしている間にこんな気持ちいいことしてるなんて……」
「ははは、灼熱の試練は最高だぜ。はい。お水」
「ありがと……。あー、なんだかもう今日は何もしたくなくなっちゃう……」
「よし! ととのったところで――予定通りご飯に行こう!」
ユキチが椅子から勢いよく立ち上がった。
「……えっと、なんだっけ?」
数分前まで「世界のすべてがわかった気がする」と言っていたはずなのだが、もうわからないことが見つかる。ルイスが呆れたように肩をすくめた。
「忘れたのかい? 今日はうちのレストランでお昼を食べるんだろ」
「……あ、そうだった!」
手を打つアリシアのを見て、ルイスがくすっと笑った。
「サウナの後のカレーは格別ですよ」
ギルが服を着ながら、情報をぶっこんでくる。
「なんで? 汗かいた後にまた汗をかくの? もうなにもわからないわ」
既に世界のすべてがわからないアリシアに、仲間たちの笑い声が広がった。




