第30話 温泉
いよいよ待ちに待った温泉――。岩場を抜けた先に広がるのは、湖みたいな広さ。湯気がもくもくと立ちのぼり、ほのかに硫黄の香りが鼻をくすぐる。お湯はやや乳白色に濁っており、効用も期待できそう。
「すごい……! これが温泉? 超広いんですけど?」
アリシアが歓声を上げる。
「おー! まってたぞ!」
向こうから湯あみ服を着たルイスが声をかける。温泉の中でちゃぷちゃぷと子供たちと戯れていた。大きな体で水しぶきを立て、温泉を出ると、アリシアたちのもとにやってくる。
「ほれ、そこに更衣室があるから、中で湯あみ服に着替えてきな」
ルイスが木造の小屋を指す。その胸元から腰に掛けて、濡れた湯あみ服がぺっとりくっついており、がっしりとした体格があらわになる。が、ルイスは特に気にせず、大判のタオルでわさわさと身体を拭きながら、アリシアたちに説明を続ける。
「着てきた浴衣は下着と一緒にこのかごに入れて、他の人のと混ざらないように、番号札を見える場所に貼って、そこの棚に置いておけばいいよ。湯あみ服に着替えたら、一旦ここ集合ね。ラムネは……そのままでいいか。先にチビたちと一緒に入ってるか?」
ぷるぷるふるえるラムネ。
「よし、一応かけ湯したら――ほい、行っておいで」
ラムネはぴょんぴょんと子供たちが遊んでる湯船に入っていく。
――そしてちょっと待ってると、
「え、ちょっと待って……温泉って、こういうものなの?」
恥ずかしそうに湯あみ服に着替えたアリシアが出てきた。ユキチとギルはもう準備万端で、なぜかストレッチを始めている。彼らの湯あみ服はハーフパンツでずいぶん動きやすそうだ。
「こういうものって?」
ルイスがアリシアの疑問の意図を確認する。
「いや、その……下着姿でみんなでお風呂に入るみたいな感じで……」
「下着じゃないよ。湯あみ服だって」
ルイスがツッコむ。
「でも……布が薄いし、肌にぴったりしてるし……」
アリシアは頬を赤くしながら、ひらひらした湯あみ服を指先でつまんで見せる。
「大丈夫。これは着てて恥ずかしくないやつだから」
「そういうものかなあ……」
「うー……なんかおちつかないわ」
アリシアはそわそわと肩をすくめ、湯気の立ちこめる露天風呂を見回した。周囲の利用客は大半がドラゴニュート。鱗に覆われた背中や立派なしっぽが湯面からのぞき、堂々とした体つきがあちこちで見られる。その中で、人族の中でも特に色白なアリシアはひときわ目立っており、どうにも視線を感じるような気がしてならない。
「ねぇ……あたし、じろじろ見られてない? なんか、こう……異物感ハンパないんだけど」
「アリシア、自意識過剰じゃねぇの?」
ユキチはけろりと笑い、ストレッチのつづきをしている。
「ほらほら、せっかくの温泉なんだから、早く入ろうぜ。おれ、待ちくたびれたよ」
「ちょっと待った!」
アリシアの手を取り温泉に入ろうとするユキチを、ルイスが止める。
「温泉はな、まずはかけ湯からだ。いきなり湯船に入るのはマナー違反だぞ」
「……なるほど」
「ほれ、桶を使え」
ルイスが木桶を差し出し、皆もそれにならって湯をすくう。ぴちゃ、ぱしゃ。
「……あっつぅ!」
アリシアの叫び声が、温泉に響く。
「ははは、大げさだな。って、あつっ!」
ユキチも叫ぶ。ギルは歯を食いしばって我慢しているようだ。
「あぁ、違う違う。そこは源泉。熱いから気をつけてな。かけ湯はこっち」
「――どおりで熱いわけだ。ん? ギル泣いてない?」
「泣いてない」
言葉とは裏腹に、ギルの体は真っ赤になってプルプル震えていた。改めて、かけ湯を浴びる一行。熱めの湯が肩を流れ、肌がじんわり温まる。
アリシアたちはルイスの許可を得て、やっと温泉に入ることができた。赤竜館のメインの湯船は高台にあり、眼下には街並みが広がっていた。遠くには今日通った商店街や、堂々とした大神殿の塔まで見える。夕暮れ時の光が湯けむりを金色に染め、まるで絵画のような光景だ。
「すごい……! 湯気の向こうに街並みが見えるのね」
アリシアは目を丸くして湯船の縁に手をかける。大丈夫と分かっていつつ、なんとなく胸元は隠してしまう。
「お、今日歩いた商店街が見える」
ユキチスが指差す。
「商店街、その途中にある大きな建物がルイスの家のレストランで、その奥には大神殿があるぞ」
「ほんとだ! 下から見た時は気づかなかったけど、屋根がきらきらしてる!」
アリシアの瞳は子供のように輝く。そのとき、ふと湯の表面にを流れてくる小さなお盆。その上にお猪口が四つと徳利がちょこんと乗せられ、ぷかぷかと湯に漂っていた。
「……なにこれ? コップとピッチャー?」
「あぁ、私が頼んでおいたんだ」
ルイスがお猪口にお酒を注ぐと、みんなに渡す。
「これは東方のお酒なんだが、不思議と温泉と合うんだ」
アリシアも試しに手に取って口をつけると、さわやかな香りが口の中に広がる。
「ん……! おいしい……! なんか、体の奥からじんわり暖かくなる……」
アリシアは頬を赤らめ、ゆるゆると身を沈める。
「……あぁ、あたし、今、神を感じちゃってる」
あまりのゆるんだアリシアの表情に、ユキチは思わず苦笑い。ギルも悪乗りする。
「神様、最高でーす!」
空高く盃を掲げて飲み干すギル。
「おいおい、聖職者ども、あとで神様に怒られても知らないぞ」
ツッコミながら、ちびちびお酒を飲むユキチ。
「大丈夫! 神様の心は広いから。それはそうと、ユキチ、今気づいたんだけど……温泉にその首輪はよくないかも。確か銀製品は硫黄で変色するって聞いた気がするぞ」
ギルがユキチの首元をちらりと見やった。普段は特に気が付かなかったが、ユキチの首には複雑な模様が施された首輪がはまっており、銀色に光っている。
「ん? ああ、これか。どういうわけか外せないんだ。サイトーがくれたんだけどな」
「え、外せないの……なんで?」
アリシアが首をかしげる。
「わからねぇ。ただ、壊すのも違う気がするし……まぁ、気にしないでくれ。多分変色するような代物じゃないと思うよ」
確かにその首輪は、乳白色の温泉の中でも銀色に輝いている。アリシアは少しだけ眉をひそめたが、それ以上は追及せず肩まで湯に沈む。
「それもサイトーさんの残したユキチとのつながりなのかもね」
「そうだな。おれがおれとしてこうあるのも、この首輪のおかげかもしれないし、このままでいいよ」
――と、そのとき、ユキチの視線がふとアリシアの右手にとまる。ギルの両手の刻印とおそろいのものが刻まれていた。
「なぁ、アリシア……巡礼が終わるころには、身体じゅうギルみたいにイレズミだらけになっちゃうんだな」
「本当にね。乙女の柔肌を何だと思ってるのかしら」
アリシアは憤慨する。
「ここの大神殿の刻印はどこに押されるんだろうな。……顔だったりして」
ユキチがニヤリと笑って肩をすくめる。
「やめてよっ! そんなの恥ずかしすぎるでしょ!」
「心配するな。ギルにはなかったから、違うと思うぜ」
ユキチが笑うと、ギルがざばぁっと湯から立ち上がった。湯気の中に現れたギルの上半身は、まるで彫刻のように盛り上がった筋肉の上に、黒い刻印が浮かんでいた。
「安心しなさい、アリシア。刻印の場所は決まっているんですよ。両手、胸、腹、背中の五か所。ここルベリオ大神殿の刻印は……お腹です!」
調子に乗って次々とポーズを決めるギル。最後は両手を頭の後ろに組んで、決めポーズ! そのバキバキに割れた腹筋には確かに不思議な幾何学模様が広がっている。
「……見事な筋肉だな」
ルイスは腕を組んでしげしげと見とれ、子供たちまで「わーすごい!」と拍手する。
「お、お腹……」
アリシアはギルのに比べるとぷにぷになお腹を触る。
「まぁ、おでことか、お尻じゃないだけましか。変なところに刻印押されてたら、お嫁にいけなくなってたよ」
「これは巡礼した証だから、どこに刻まれようが恥じることは何もないと思うけどな」
ギルはポーズを変えると、ほほ笑んだ。
そこに、子供に追いかけられて、ラムネが漂ってくる。心持ち、普段よりもつやつやしている感じがする。
「なぁ、アリシアはテイマーなのか?」
ルイスがそんなラムネを抱きかかえながらふと問いかける。
「うーん……どうだろ。スライムのラムネとは使役契約を結んでるけど、いわゆるテイマーってわけじゃないのよね」
アリシアはルイスの腕の中でぷるぷる震えているラムネを撫でる。
「じゃあ、ユキチとも?」
「対外的には説明が面倒だから使い魔ってことにしてるけど、実際は友達かな。ユキチにはあたしとは別にちゃんとしたテイムマスターがいるのよ」
「へぇ」
「首輪の話になった時に出てきた、サイトーさんって人。あたしも会ったことはないんだけど、ユキチははぐれちゃったんだって。ルイスは聞いたことないよね?」
ルイスは首を振る。
「……ごめん。わからない」
「だよね。この旅は聖地巡礼の旅なんだけど、サイトーさんを探す旅でもあるんだ。ちなみに、ラムネの前のマスターもそのサイトーさんなの。なにかとご縁があるのよ」
「そうだったのか。……それはおれも知らなかったよ」
ギルも会話に加わる。
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「まぁ、生きてるかどうかすら怪しいもんだけどな。おれはサイトーに会えたらラッキーっていう感じでアリシアの旅に同行してるんだ」
「会えるといいな。サイトーさんに」
「ありがとよ。――それはそうと、さっきから人が出入りしているあの建物は何だい?」
照れ臭そうに頭をかきながら、強引に話題を変えるユキチ。
「あれは、内湯だな。天気の悪い日とかはあっちのお風呂に入るんだ。建物が男女で分かれてるから、気楽に裸で入れるぞ」
「えぇ……ラグライドの人たちって、なんていうか……開放的よね」
湯あみ服が恥ずかしくて、なかなかお風呂から出れないアリシア。よく見ると顔がだいぶのぼせてる。
「なぁ」
ユキチが真顔でつぶやいた。
「おれやラムネみたいな魔物は、性別ないんだけど……どうしたらいいんだ?」
「え?」
「え?」
「え?」
ルイスとアリシアに釣られて、ユキチまで頭にはてなマーク。
「いやいやいや、ユキチは男だよね?」
確認するアリシア。
「うむん? 何をもって男とするかはよくわからないけど……ゴブリンには性別なんてないぞ。もちろん、スライムにも」
「でも、ドラゴンとかペガサスには性別あるじゃん?」
「ふむ……さてはアリシアは魔物と魔獣の区別がつかない人だな?」
「アリシア、教会で勉強しなかった? 魔物と魔獣の成り立ちって」
ギルがアリシアに聞く。
「魔素から直接生まれた存在が魔物。野生の獣が魔素を取り込んで変質したのが魔獣。魔素がかかわっているのは共通しているけど、生き物としてのベースがある魔獣は、それまでの生態系を引き継いでいるから、オス・メスも分かれたままになるんだよ」
「その通り。おれたち魔物は凝縮した魔素から生まれるから、特につがいとか、子孫を残すって仕組みはないんだ」
「へぇ……知らなかった」
アリシアは感嘆の声を漏らす。後ろで「あたしも」と続くルイス。
「ま、おれもそんな知識を得たのはサイトーにテイムされてからだけどな。それまではただ何も考えず、本能のままに生きてたって感じで記憶も怪しいもんだ」
「じゃあ、ユキチにはお父さんとかお母さんとかいないの?」
「いない。っていうか、その概念がないのが正しい言い方かな。でも、同じ魔素だまりからは似たような魔物が生まれるから、家族じゃなくても自然と群れになってることはよくあることみたいだぜ」
「へー。じゃあ、ゴブリンが人間の女性を襲って子供を作ろうとするって話は?」
ルイスが食いついてくる。
「多分、生殖目的じゃなくて食料目的だろうな。弱い個体から狙うのは生存戦略上当然だし。ゴブリンに性的暴行を受けたっていうのがいたら、それはきっとゴブリンじゃなくて別の生き物に襲われてるんじゃないかな。大抵は同族である悪意ある人間が悪さをして、それを魔物のせいにするんだ」
「……そうなのか。早く寝ない子はゴブリンに連れ去られちゃうぞなんてよく言われてたけど、なんか考え方が変わったよ。――あ、なんか嫌な言い方になってたらごめんな。そういう意味じゃなくて――純粋に長い間そう育てられちゃってたから……なかなかの衝撃だわ」
「まぁ、野生のゴブリンの群れが厄介なのは確かだしな」
ユキチは気にしていないようだ。
「それにそもそも多種族の性別なんてそこまで気になるもんでもないだろ。ルイスもアリシアも、犬や猫を見るたびに“オスかな? メスかな?”なんていちいち気にするか?」
「しないわね」
「そんなもんだ。おれにとっては、ギルもアリシアも同じ“人族”。言い方はちょっと適当になるけど、おれにとっては男女の違いなんてあまり気にならないんだ」
「……そういうものかしらね」
「ふふっ。ま、そういう意味ではこの温泉はドラゴニュートだらけだから、一番気にしなくちゃいけないのはあたしかな」
ルイスが肩をすくめると、ユキチがにやりと笑った。
「はは、そうかもな。――あ、でも、この前アリシアも闘技場でのルイスの身体つきに惚れてた気がするぞ。さっきはルイスもギルの肉体に感動してたし。ひょっとして筋肉は種族の壁を越えた共通の美しさに通じてるのかもね。おれは貧弱な身体だからルイスやギルがうらやましいぜ」
「ちょ、ちょっと! そんなこと本人の前でバラさないでよ!」
アリシアは顔を真っ赤にして湯をばしゃばしゃ跳ねた。「ぷるぷる」ラムネが小さく震える。
「お、ラムネも“ルイスの体はきれいだ”って言ってるぞ」
「ははっ。ありがと! お姉さんモテモテで困っちゃうぜ!」
ルイスのポージング。|ギルに負けずとも劣らない筋肉が湯あみ服越しでもわかる。
「あたしのぼせちゃったかも……」
温泉の熱にあてられたのか、ルイスの魅力にやられたのか、アリシアの顔がいよいよ赤くなる。
「それはいけないな」
ルイスが声をかけた。
「そろそろ夕飯の時間だし、上がろうか。温泉は逃げないから、寝る前にまた来ればいい」
ルイスは豪快に笑いながら子供たちに声をかけた。
「ほら、チビども、もうあがるぞー! 身体拭いておいでー!」
「はーい!」
「まだ入りたいー!」
子供たちがわちゃわちゃと集まってきて、湯気の中は一気ににぎやかになる。その様子を見て、アリシアはふっと笑みをこぼした。
「筋肉がかっこいいのもそうだけど……子供がかわいいのも、どの種族も共通かもね」
湯けむりに揺れる子供たちの笑顔は、どこか安らかで、温泉のぬくもりと同じくらいあたたかかった。
「で、おれは男湯と女湯、どっちに入ったらいいんだ……」
ユキチの問いは湯気と共に消えていく……。




