第29話 ラグライド
「あの山が、竜神の住む山――グラナガ火山だ」
ルイスの指差す方向に、じわりと陽炎が揺れる。視線の奥、砂色の世界の彼方に、黒い影が浮かび上がっていた。
「えぇ?」
アリシアが目を細めるが、よくわからない。しかしそれは、距離を詰めるごとに、ゆっくりと大きくなっていく。数時間後には、地平線の縁から突き出したかのように存在感が際立ってくる。周囲には木一本なく、遮るものとてないため、その輪郭は恐ろしいほど鮮明だった。山肌は漆黒で、ところどころ赤茶けた岩肌が陽光を反射してきらめく。山頂付近からは、もくもくと濃い煙が絶え間なく立ちのぼり、風に煽られて渦を巻き、形を変えながら空へと溶けていく。時折、煙の奥から「ゴウッ」と地鳴りのような音が届き、熱気すら錯覚させる。その威容を前に、ユキチは小さく息を吐いた。
「……なんか近そうで遠いな。なかなかふもとが見えないんだが」
アリシアは
「へへ、グラナガ山はじらし上手~♪」
なんて歌いはじめる。やがて、アリシアの歌が3番のサビに入ったあたりで、とうとう砂色の地平に、低く連なる建物の影と、ひらひらと舞う色鮮やかな布が見え始めた。
――そしてそこから走ること1時間。
「ようこそ、ラグライドへ」
車が停まるや否や、ルイスが軽やかに降り立ち、背筋を伸ばして恭しく一礼した。日はだいぶ傾いてきたが、まだ沈んではいない。街中からは人々の声と、太鼓のような低い音が風に乗って届く。
「まずは族長に挨拶に行っていいかな。卵の奪還を報告させてほしい」
「もちろん。あたしたちもしばらく滞在するだろうから、一緒に挨拶させてもらえるとうれしいわ」
街の中は、あちらこちらから白い蒸気がもくもくと立ちのぼっていた。まるで町全体が大きな蒸し器の中にあるようで、硫黄の匂いと湿った熱気が肌にまとわりつく。石畳の隙間から「シュウゥ」と音を立てて湯気が吹き出し、通り沿いの小屋には竹筒を伝って熱水が流れている。
「なにあれ?」
アリシアが目を丸くして指差す。
「地面から噴き出る熱をにがしてるんだよ」
ルイスが説明する。
「え、じゃあ……あそこに書いてある、温泉まんじゅう? 温泉たまご? ってのは?」
「その名の通りさ。噴き出る熱を使ってまんじゅうや卵を蒸してるんだ。おいしいぞ」
そんな二人のやり取りに、通りの露店の老婆がにこやかに笑いかけてきた。籠の中には、確かにふかしたてのまんじゅうが湯気を立てている。アリシアの目が一瞬きらりと輝いたが、ユキチに促されて彼女は名残惜しそうに歩みを進めた。
やがて一行は、広場の中央にそびえる石造りの建物の前にたどりつく。入口には赤く染められた布が垂らされ、そこに刻まれた竜っぽい紋章がゆらめいていた。中に入ると、族長と思しき壮年の男が立ち上がり、ルイスを出迎える。
「おお! 良く帰ってきたな。ルイスよ」
その声は重くも温かいものだった。
「竜神様の卵を取り返すのに時間がかかってしまい、申し訳ありません。ここに無事、仕事を終えて帰ってきました」
ルイスが膝をつき、竜の卵を差し出す。
「おお確かに! お勤め大変ご苦労であった。そして、そちらの方々は……」
族長はアリシアたちに視線を巡らせる。
「この方たちは、巡礼者アリシア殿とその一行です。アーチヘイブンからここまでの旅で一緒になりました」
「おお! 巡礼者の方か! ルイスとの出会いも、何かのめぐりあわせ。――歓迎しますぞ」
彼は両手を広げ、背後に控える従者に合図を送った。
「ところで、みなさまは宿はまだとられておらぬかな?――差し支えなければ、赤龍館の部屋を手配しておきましょう、まずは旅の疲れを癒してくるとよい」
その言葉に、アリシアの口元がぱっと緩んだ。
「やった! 噂の温泉に入れるかな? あと温泉まんじゅうと温泉たまごも」
ユキチが呆れ顔で
「……おまえ、もう頭は温泉だらけだな」
とぼやく。族長の好意に甘える一行。宿は街はずれにあるため、ルイスに先導されながらぞろぞろと街の通りを抜けていく。あたりはすっかり夕暮れで、蒸気の白い靄が街灯の光を滲ませ、異国めいた雰囲気を醸し出していた。
「ほら、あそこがルベリオ大神殿」
ルイスが手を伸ばして示す。指し示す先にあったのは、こぢんまりとした石造りの建物だった。入り口の上に教会の紋章が彫られているものの、堂々たる神殿を想像していたアリシアは思わず口を尖らせた。
「大神殿ってわりに小さいわね」
なかなか失礼なことを言うシスターである。
「この辺、地震が時々あるから、高い建物を建てるのは禁止されてるんだ」
ルイスは肩をすくめる。
「数十年前にはでっかいのを作ってたみたいだけど、何回も崩れて、だんだんあきらめて平らな建物になったんだよ」
「へー。なるほどね。建物に歴史ありだ。ま、人も建物も、見た目より中身よね」
アリシアは腕を組んでいかにもとうなずく。
「今日は遅いから、明日顔出そっと」
さらに進むと、今度はにぎやかな通りに出る。蒸気の白に、香ばしい匂いと人々の声が混じり合い、夜の活気が漂っていた。
「で、これがこの辺で一番の商店街。そして、ここが――街一番のレストラン」
ルイスが商店街でひときわ目立つ建物を指さす。
「おおー!」
アリシアとユキチが同時に声を上げる。外観は豪華で、赤と金の布が飾られ、店先からは楽団の音色まで漏れ聞こえてきた。そして、ルイスはさらりと続ける。
「んでもって、あたしンち」
「おおー?」
二人は今度は別の意味で驚きの声を上げた。
そのまま通り過ぎようとするルイスを引き留め、レストランに押し入るアリシア。
「ほら、ルイス、挨拶するよ」
アリシアが背中を押す。
「いいよあとで」
ルイスは気恥ずかしそうに手を振る。
「だめだめ、こういうのは最初にきっちりしないと」
アリシアは強引にルイスを引っ張る。
「こんにちはー!」
その瞬間、中から低い声が響いた。
「ごめんねー。今はまだ準備中なんだ」
そこに立っていたのは、開店準備をしている中年の男性――ルイスの父親らしき人物であった。
「ルイス! かえってきたのか」
「ああ、ちょうどさっきな」
ルイスが照れくさそうに頭をかく。
「で、この人たちは――アーチヘイブンで会った友達」
ルイスが仲間を手で示すと、おやじさんはじろりと一同を見渡し、そしてすぐに柔らかく目を細めた。
「これはこれは……ルイスと仲良くしてくれてありがとう。遠いところ、よく来たね」
そしておやじさんが奥へ向かって声を張り上げた。
「おーい! ルイスが帰ってるぞー!」
「ルイスねーちゃんだー!」
バタバタと足音が響き、ぞろぞろと子どもたちが玄関に飛び出してくる。五人、六人と次々に顔を出し、ルイスに一斉に抱きつく。ルイスは「おっとと」とよろめきながらも、苦笑して子どもたちの頭を撫でていく。その喧騒に混じって、台所からふわりと漂ってくる香りがあった。スパイスと肉と野菜が煮込まれた濃厚な香り――カレーだ。アリシアの腹がぐぅと鳴る。そこへ、エプロン姿のおかみさんが大きなしゃもじを片手に現れる。
「ちょっとルイス! 友達連れて帰ってくるなら、そうと先に言ってちょうだいよ。ご飯用意しなくちゃ!」
「え、ルイスのお母さんのご飯? やったー!」
喜ぶアリシアに、ルイスは慌てて両手を振った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、今日の夕飯は族長の好意もあって宿で出るから! 今は我慢だ。……な? ここには明日のお昼に来よう。母さん、そういうわけだから、今日は大丈夫だよ」
子どもたちが
「えぇー! 一緒に食べないのー?」
と一斉に不満の声を上げる。アリシアも小声で「えぇー……」と混じっていたが、ユキチに頭を小突かれて黙った。
「族長さんが赤竜館をとってくれたんだ」
ルイスが補足する。
「そうだな、折角だから……おまえたちも温泉行くか?」
「行くー!」 子どもたちは一斉に跳びはねて、玄関先で大はしゃぎ。さっきまで不満そうにしていたのもどこへやら、瞳が期待に輝いている。
その様子に、おかみさんが腰に手を当てて笑った。
「あたしらは仕事があるからね。ルイス、チビたちをお願いできるかい?」
ルイスは軽く頷き、「もちろん」と子どもたちの頭をぽんぽん叩く。
「じゃあ、あんたら」
おかんがしゃもじを掲げて子どもたちに声をかける。
「遅くならないうちに帰ってくるんだよ」
「はーい!」「やったー温泉!」 子どもたちが口々に答え、アリシアも「温泉まんじゅうもあるんでしょ!? 絶対買うわ!」と張り切っている。ユキチは苦笑しながらも「……夕飯前には戻らすよ」ときっちり答えた。
「で、ここが――お待ちかね、赤竜館だ」
ルイスの言葉と共に、大きな朱塗りの門が一行を迎えた。門柱には竜を模した彫刻が絡みつき、奥には立派な瓦屋根の建物が見える。蒸気の町ラグライドの中でも一際目を引く存在感だ。
ラグライドの街は決して広いわけではない。だが宿までの道のりには、温泉まんじゅう屋や射的場、ガラス細工の露店など、妙に足を止めさせる店が軒を連ねていた。そのたびにアリシアは「ちょっと! 一個だけだから!」と足を止め、ユキチが腕を引っ張ってなだめる羽目になった。そして、移動中に休みなくやってくる子供たちの悪意のない質問攻撃。「おねえちゃんの肌、ウロコがなくて、もちもちー! なんで?」「お兄ちゃんの顔、緑色。体調悪いの?」「スライム、ひんやりして、きもちいい! 友達なの?」ここまで辿り着くのも一苦労だったのだ。
門をくぐると、宿の人々が並んで頭を下げた。
「いらっしゃいませー。アリシア一行様、お待ちしておりましたー!」
靴を脱いで上がると、すぐに部屋へ案内される。ルイスが軽く手を挙げ、スタッフに声をかけた。
「すまない。夕飯の前に、このチビたちも温泉で一緒に入浴したいんだが」
「かしこまりました。別料金になりますが、よろしいでしょうか?」
「もちろん。この場で払っておくよ」
ルイスは慣れた手つきで財布から硬貨を数枚取り出し、スタッフに渡した。
「タオル、浴衣などは全部こちらにございます。サイズが合わなければスタッフに声をかけてくださいね」
「お夕飯は十九時でよろしかったでしょうか?」
「よろしいのかしら?」
とアリシアが皆に顔を向ける。
「いいと思うぜ」
ユキチが頷く。
「じゃ、十九時で」
「はい、承りました。では朝食はいかがなさいますか?」
「朝食? それも今決めるの?」
アリシアが目を丸くする。
「はい」
スタッフはにっこりと微笑む。
「何時がいいかな?」
とまたみんなに聞くアリシア。
「九時には教会行くって考えると、八時とかでいいんじゃないか」
ギルが答える。
「そうね。じゃ、八時で」
「かしこまりましたー。時間の変更も承っておりますので、その時はスタッフにお声がけくださいませ」
スタッフが下がった後、アリシアがぽかんとした顔で部屋を見回した。
「この宿……あたしが今まで泊まっていたのと全然違うんだけど。なんかすごい聞いてくる……」
「そういえば……おれたち、この度では基本野宿か食堂宿泊で、あとはVIPルームでオールナイトだからな。こんなハートフルな宿は初めてだ」
「ふふ。そうね。なんだか落ち着く」
アリシアはしばらく呆然とした後、布団の柔らかさを確かめるようにぽすんと腰を下ろした。
「……やばい。絶対ここから動きたくなくなるやつだわ」
荷物をまとめ、ほっと一息ついたその時――。
「……あれ?」
アリシアが指差した先、窓際の卓の上にきちんと並べられていたのは、白い湯気をほんのりまとった包み。目の前には、まるで「どうぞ召し上がれ」と言わんばかりに温泉まんじゅうが置かれていた。横には急須と湯呑みが用意されており、ほんのり茶葉の香りまで漂ってくる。
「え、なんで? これ……食べていいの!?」
「いいよ。お茶もあるから一緒にな」
ギルがにやりと笑う。アリシアは一瞬、無言でまんじゅうを手に取り、そしてかぶりついた。ふかふかの皮と、甘すぎない餡子の味わいが口いっぱいに広がる。
「……ここは天国か」
彼女の目が潤む。ユキチは腕を組み、
「まだ感動するのは早いぞ! 食事前に温泉にいくんだろ」とニヤリ。
「そうだった! ルイスは子供連れて先行くって言ってたわね。この――浴衣っていうのに着替えたら、温泉へ、レッツゴー!」
わたわたと浴衣に着替える一同。
「これ、ちょっと私には小さいですね」
ギルがぼやく。
「スタッフ呼ぼうか?」
「いや、温泉に行きがてら途中で受付に寄って、もらってきますよ」
グダグダな空気が流れる中、赤竜館での至福のひとときは、まだ始まったばかりだった――。




