第22話 ヴェルドット決戦
「……もう少しで、この大陸を支配する下準備が整うところだったというのに」
苛立ったヴェルドットの声が、あたりに響く。
「まったく、あなた方は……実に目障りだ」
アリシアは眉をひそめ、一歩踏み出す。
「大陸の支配……? どうしてそんなことを……」
「決まっているじゃないですか――魔王様への手土産ですよ。魔王様誕生の儀には、人間の魂は多ければ多い方がいい。――それをあなた方は、上質な素材を台無しにしてくれたんです。全く持って許しがたい」
「……ふざけないで! 人の命を何だと思っているの?」
アリシアの叫びが響く。
「ふざけてなんかいませんよ。これ以上ないくらい真剣です。が、――まぁ、これ以上説明しても時間の無駄になりそうですし……あなたたちはうっとうしいので、そろそろ、いなくなってください」
その瞬間。崩れ落ちた石壁の影から、砂煙を切り裂いて人影が飛び出した。ギルだ。地面を踏みしめた瞬間、石床が砕け、破片が宙を舞う。そしてそのまま正拳をアリシアに叩き込む。
「うおっ……!」
距離があったおかげで、ギルの初撃からかろうじてアリシアを守るユキチ。
「おい、こいつ――身体強化魔法を使ってやがる! いつもよりスピードもパワーも桁違いだ!」
「そんな――やめて、ギル! このままじゃ……おじいちゃんになっちゃう!」
アリシアは青ざめて叫んだ。ギルは返事をしない。その瞳はただ、虚ろに何も見てはいない。一歩踏み込む――いや、“消えた”と錯覚するほどの速さ。
「くっそ……ギル、聞こえてんだろ!? やめろって!」
ユキチの叫びは虚しく空を裂き、返事の代わりに鉄槌のような拳が振り下ろされる。石床が砕け、破片が雨のように降った。
「聞こえてない……か」
ギルの拳が風を裂く。ユキチは反射的に身をひねり、ぎりぎりでかわす。頬をかすめた風圧だけで皮膚が熱くなる。続けざまに膝蹴り、肘打ち、裏拳――容赦のない連撃が襲いかかる。受け流すたびに骨がきしみ、背中に冷や汗が流れる。
(やべぇ……本気で殺す気だ……でも、こいつを傷つけるわけには……!)
ギルの息は乱れず、まるで機械仕掛けのような正確さで急所を狙ってくる。ユキチは距離を取ろうとするが、すぐに踏み込みで詰められる。ギルの拳がユキチの肩口をかすめ、背後の柱にめり込む。乾いた音と同時に、柱が砕ける。
「おいおい、冗談だろ……人間の腕でこんな威力出せんのかよ!」
「ユキチ、持ちこたえられる!?」
「こっちはもういっぱいいっぱいだっての!」
ユキチは短く息を吐き、迫る回し蹴りをしゃがみ込んで回避する。だがその直後、ギルの足が逆方向に回転し、踵が頭上から落ちてきた。
「っ……!」
腕で受け止めた衝撃に、思わず膝が沈む。
(やべぇ……押し切られる……!)
再び距離を詰めるギル。その動きは、獣ではなく、訓練された刃そのものだった。拳が、足が、呼吸の隙間さえ狙って突き込まれる。
ユキチが苦戦する一方、その時――アリシアの右手が、ジリリと熱を帯びた。
「……っ!」
指先までびりびりと痺れる感覚とともに、刻印が淡く光を放つ。
「刻印が……光った!」
アリシアは目を見開き、右手を胸元に引き寄せる。脳裏に、何かの気配が流れ込んでくる。
「……ラムネ、この建物の地下に――あいつはいるわ!」
――ズンッ――
ラムネはアリシアの感覚を読み取り、即座に自分が踏みつぶした建物の床下に思いっきりゴーレムの手を叩き込む。そして見事ヴェルドットを捕捉し、引きずり出したように見えた――が、ゴーレムの拘束を、彼は流れるような動きで外し、瓦礫の上に軽やかに降り立つ。
「はぁ……あのまま虫同士で殺し合ってくれれば楽だったのに」
ヴェルドットの瘴気が濃くなり、その輪郭が膨らんでいく。肉が裂け、骨が音を立てて伸びる。筋肉の塊がうねり、影が壁を覆った。その膨らみは留まることを知らない。
「なんだ?……でけぇ!」
ユキチが叫ぶ。だがユキチには驚く余裕すらほぼない。目の前にいるギルの拳は速度も重さも増し、空気をも切り裂きながらユキチに襲い掛かる。
アリシアの右手も、さらに強く光を放つ。刻印から溢れた輝きは、まっすぐにヴェルドットに向けられる。その光を見た瞬間、ヴェルドットの口元の笑みが消えた。
「……厄介そうだな。おい、あっちを先に始末しろ」
短く吐き捨てると、ヴェルドットの視線がギルに向く。絶対の命令。ギルは即座に動き、ユキチから離れてアリシアに狙いを変えた。
「待て、逃げるな!」
ユキチが声を張り上げる。だがギルは反応せず、一直線にアリシアへ突進する。
「……ズ=ッハグ・ネ゛ェル=トクァ、ヒ゜シ・ュル=ァォ……」
アリシアの意思とは関係なく、謎の詠唱は既にアリシアの口から紡がれ始めた。相変わらず意味の分からない、言葉でもない、音の羅列。ただ、系統は禁書に封印されている呪文と同じ類と想定できる。アリシアの詠唱を止めようと突撃するギルの前に、上空から巨腕が下りてきた。ラムネのゴーレムだ。
「ナイス、ラムネ!」
ギルを追っていたユキチが息をつきながら叫ぶ。しかし次の瞬間、ギルの拳がその巨腕を軽々と打ち砕いた。岩石はまるで紙屑のように裂け、破片が爆ぜるように四方へ飛び散る。
――ガンッ!
粉塵の中、砕けたゴーレムの破片がの一つが、不幸にもアリシアの頭を直撃する。激しいめまいと、甘ったるい衝撃がアリシアを襲い、アリシアは詠唱を続けることができずに床に倒れる。しかし、刻印は戦いの意思を示しており、そんな状態でも右手はヴェルドットに向けたまま光っている。
「っ……!」
ほぼ無意識に即座に残った左手で体を起こすアリシア。こぶし大の石がぶつかった側頭部からは血が流れている。
(……何があったの?)
頭の痛みと刻印の疼きが入り混じる中、アリシアは必死に周囲を見回し思考を巡らせた。
(刻印の詠唱を完成させるには、まずはギルを止めないと……でも、右手は刻印の力が働いていて、私の意識では動かせない。そしてあと一呼吸したら……また刻印の強制力で、私の口は呪文を唱え始めてしまうだろう。でもその前のこの一瞬――ほんの今の短い間だけ、自分の声は自由になる。この一瞬でできること……そうだ!)
アリシアは口角をわずかに上げた。
「――悶絶!筋肉緊張地獄!!」
口が自由になった一瞬で、アリシアは左手からオリジナル魔法をギルに叩き込む。その魔法は筋肉の痙攣を強制するだけのもの。たが、それは走っているギルのバランスを崩すには十分だった。動きが震えて乱れたかと思うと、そのままもつれるように転ぶ。転んだ後、立ち上がろうとするが、産まれたての小鹿のように膝が痙攣しており、動きが止まった。
「やるじゃねぇか! サンキュー、アリシア!」
ユキチはその隙を逃さない。すかさず駆け寄り、持っていた縄でギルの四肢を素早く縛り上げる。筋肉の塊のような腕を何重にも巻き、結び目を固めた。
アリシアはすぐさま呼吸を整え、臨戦態勢の右手の刻印の光に意識を戻す。
(もう邪魔するものはいない。やっちゃおう)
刻印がアリシアの口を借り、再度呪文を唱え始める。
「ズ=ッハグ・ネ゛ェル=トクァ、ヒ゜シ・ュル=ァォ、グ、グルゥヴ=ァ=ル=ググル……」
「こしゃくな」
ヴェルドットが低く唸り、瘴気をまとった腕を振りかぶる。その狙いはアリシア。だが、瓦礫を押しのけて伸びたラムネのゴーレムの手が、その一撃を受け止めた。岩と瘴気がぶつかり合い、火花のような光が散る。今度はラムネも持ちこたえ、その手は砕かれずに踏みとどまる。アリシアの詠唱は止まらない――
「コォ・ナラ゛=ピシィ=ラフ、クァ=ァム・ルゥゥゥ・ズバグ、エ=シャグ=ク・チョワ=ンォ……」
呪文詠唱が終わり、右手の刻印が弾けるように輝き、強力な光の奔流が放たれた。空気が震え、轟音とともに光の束がヴェルドットを貫く。
「ぐおおっ! この程度!」
ヴェルドットが纏う瘴気が悲鳴を上げるように揺らぎ、本体を守ろうとするが、光の奔流には勝てない。ヴェルドットの体のあちこちから徐々に黒い霧が吹き出す。その霧は光の束に切り裂かれ、最後には細かい煙の粒となって空へ溶けていく。しまいには、あれほどの巨躯も、1分も経たないに跡形もなく断末魔とともに消え去った。
静寂が戻る。ユキチはすぐさま足元に転がっているギルの様子をうかがったが――
「……意識が戻ってない」
首を振る。縄で縛られたギルは微動だにしない。その呼吸はあるが、瞳は依然として虚ろなままだった。アリシアは瓦礫の中に転がっている一冊の本に気づき、そっと拾い上げた。黒い革表紙に金色の古代文字が刻まれたそれは、ヴェルドットが持っていた禁書『催眠アプリで好き放題 ~生意気生徒会長もボクのいいなり~』。タイトルからして、明らかに危険。しかし、その中身がまぎれもない特級指定の術式であることは、知識があるものが読めばすぐにわかる。ページを開くと、そこには淫靡な小説に隠された呪文の構築論理や手順、そして精神に干渉する方法について記されている。
「うわぁ」
アリシアは頬を上気させながらページをめくる。鼻から血が滴っているのは、先ほどの石がぶつかったせいか。ページをめくる手は最後まで止まらなかった。やがて彼女は「ふーっ」と息を吐き、顔を上げる。
「わかったわ。この人形みたいな状態は時間が経つと元に戻るみたい。……けど、魂に刻まれた命令は残るみたいね」
ユキチが眉をひそめる。
「命令?」
アリシアは本を閉じ、真剣な顔になる。
「そう。簡単な命令しかできないけど、魂に命令を刻まれると人格が変わっちゃうの。例えば、領主に尽くせー。とか、あいつをやっつけろ―。とか。ギルに刻まれた命令がヴェルドットに従えっていうものだったら、ヴェルドットはもういないから心配ないんだけど、例えば、魔王復活に尽力しろとかだったら意識戻った後でも結構ヤバいから、やっぱり消しておくに限るわけ」
「ふむ」
「で、魂に刻まれた命令を消すには、新しい命令で上書きすればいいみたい」
「つまり?」
「つまり――あたしがギルの洗脳を上書きするってこと?」
ユキチは肩をすくめる。
「なんで最後疑問形になるんだよ。俺に聞くなよ」
「そうよね……あまり乗り気はしないけど、あたしがやるわよ」
その時――
「……おーい!」
耳を澄ますと、聞き覚えのある声。
「オルネアたちだ」
アリシアが手を振り返す。足音が近づく。気が付くとあたりの石壁は消えており、普通の街並みに戻っていた。
「迷宮も解除されたようだな……よかった」
ユキチが安堵する。
「あんたら、無事だったか? あの化け物を本当に倒しちまったのかい?」
「すごいじゃないか」
「街の救世主だよ」
「家に帰れるのか」
「今日はお祭りだ!」
騒ぎを聞きつけてか、足元のギルがぴくりと動く。二人が視線を向けると、縛られたままのギルがこちらを見上げていた。その瞳には、もう光が戻っている。
「あ……ここは……?」
「ギル! 気づいたのね。よかった」
「私はなぜこのような状態に……? すみません。ヴェルドット様との戦いの中で意識が途切れていて……あの……縄を……ほどいてくれませんか……?」
足元から、低く落ち着いた声が響いた。
「ヴェルドット様ァ?――アリシア、こいつは重症だ。とっととやっちまおうぜ。その命令の上書きってやつ。あと、周りのお前ら、邪魔だからもう帰りな。心配している家族とかいるだろう。ほら、オルネアさんも。……わかった。お礼なら後で月影亭でいくらでも聞くから」
禁書を使うところは人に見られない方がいい。ギャラリーを散らすユキチ。
「ありがとう。ユキチ。じゃあ……行くわよ」
アリシアは禁書を片手に、ギルの前にしゃがみ込んだ。そしてページをめくりながら、小声で呟いた。
「ふふ……いい子ね。こっちを見なさい……。そう、その豚みたいな目で、わたくしだけを見つめるの……」
赤面するユキチと、意識をなくし、死んだ魚の眼になるギル。アリシアもやや頬を染めながら詠唱を続ける。アリシアの周りには例の光る鎖が出現する。
「グゥ゛ル・ナ=ザラ゛=トゥクァ……メル゛・シュォ=バ゛グ=ラェル、
ホァ=ラグ・ズゥ゛ブ=ネェロ゛、クォ゛=シラ=ム゛ル=エル゛フ……」
そして縄の上から鎖で縛られるギル。とんだ罰ゲームじゃないか。
「豚よ、醜く鳴きなさい……! えーっと……命令は……あ、しまった。考えてなかった」
「おい」
ユキチが苦笑する。アリシアは深く息を吸い、静かに語りかけるように呪文を唱えた。
「――命じる。汝聖女を守るという使命に縛られず、自由に生きなさい」
鎖が淡く光を放ち、やがてギルの中に溶けていく。
「いいんじゃねぇか」
「これでもう大丈夫――」
アリシアも魔力の使い過ぎで意識が途絶える。倒れこむアリシアを支えるユキチ。
「……頑張ったな。今日はもう寝よう。俺も疲れた……ラムネ、アリシアとギルを宿まで運ぶの手伝ってくれよ」
こうしてノル=ヴェリスの怒涛の一日は幕を下ろしたのでした。




