第19話 人形遣い
「その顔、さてはこの本の中身も知っているな」
ヴェルドットは特定のページを開くと、左手を突き出し、低い声で呪文を紡ぎ始めた。
「ふふ……いい子ね。こっちを見なさい……」
その間抜けなセリフとは裏腹に空気が重く、粘つくように淀んでいく。まるで空間そのものが軋むような、耳の奥に刺さる振動音が響く。嫌な予感が背筋を這い上がり、アリシアは眉をひそめた。
(あれは……人を操る魔法!?)
「そう、その豚みたいな目で、わたくしだけを見つめるの……」
強面のヴェルドットの口から紡ぎだされる言葉は無駄に甘かった。そしてそれはただの変態のセリフではないことは、ヴェルドットの周りに現れた糸のように細く光る鎖が教えてくれる。それは見えない腕に操られるかのように、アリシアとユキチへとゆっくり伸びてきた。
「させない!」
アリシアは迷わず杖を構えた。同時に、彼女の魔力が迸る。
「苦悶!阿鼻叫喚!!」
次の瞬間、ヴェルドットの鼻の奥に透明な花粉のような魔力の粒子がふわりと舞った。ほんの一呼吸の後――
「……くしゅん!」
重々しく響いていた詠唱の声が途切れ、光る鎖も消える。ヴェルドットは慌てて袖で鼻を押さえた。
「な……なんだ……今のは……? 私の魔法障壁を……破った? いや……違うな……障壁の手前で、割り込んできた……? それとも隙間に……? こんな魔法、聞いたことがない」
「ふふん♪ どうやらあたしの魔法は、魔族にも効果があるみたいね!」
「アリシア! ついでに、この前みたいな光線をお見舞いしてやれ!」
「し、してやれって言われても……」
アリシアは焦ったように右手の刻印を見つめる。
「あの時は体が勝手に動いただけだし、今はこの刻印も光ってないのよ。 やりたくても、できないわ!」
「ったく……そう都合よくはいかねぇか」
「……ふっ、くだらん魔法だ……だが、二度は効かぬ」
ヴェルドットは鼻をすすりながらも、気を取り直してもう一度本に目を向ける。
「果たしてそうかしら? 悶絶!睫毛大逆転!!」
「うおおおぉぉーー!? なんだこれはぁぁーー!?」
ヴェルドットの睫毛が向きを変え、眼球に直撃する。だが、あまりにも地味すぎて、周りからは何が起きたのか全く分からない。たまらずに眼をかばうヴェルドット。
「効いてる!今よ、ユキチ!ギル!」
「おう!」
「行きますよ! 滅殺! 神龍爆裂断!」
アリシアの呪文に悶絶するヴェルドットに容赦なく背後から迫るユキチと正面から攻撃を仕掛けるギル。衝撃が爆ぜ、ヴェルドットはボロボロになったまま立ち尽くす。そしてその姿は――黒い煙となって空中にかき消えていった。
「……やったのか?」
言ってはいけない台詞を言うユキチ。だが、手ごたえがなさ過ぎて、これで終わったとはユキチ自身も思えなかった。ふと、アリシアが後ろを振り返った瞬間、その表情が固まる。路地の向こうから、ヴェルドットが、何十人ものノル=ヴェリスの住民を引き連れて歩いてきていた。彼らの目は虚ろで、ぎこちない足取りのまま進んでくる。
「……どういうこと?」
「ふふふ……どういうことでしょうねぇ」
余裕を見せて笑うヴェルドットには、先ほどのユキチ達の攻撃の跡は微塵もない。
「ちょっと……関係ない一般人も連れてきてるし。……あんな人数、ラムネでも拘束できないわ」
「きりがない。ここは一旦引くぞ!」
「おっと、逃がすと思いますか?」
背後にも別のヴェルドットが立ちふさがる。
「なんだこいつら……何人いるんだよ!」
「何人いようが押し通るまで!」
ギルが叫び、前へ出た――が、その脇からまた別のヴェルドットが左手を差し出しながら歩み寄る。既に光る鎖が顕現しており、ギルに向かって伸びている。
「……ホァ=ラグ・ズゥ゛ブ=ネェロ゛、クォ゛=シラ=ム゛ル=エル゛フ」
「いけない! もう詠唱が終わってしまっている?」
低く震える音の連なりが空気を歪ませ、ギルの瞳が濁っていく。アリシアの声もむなしく、ギルはそのまま光る鎖に絡めとられる。
「まだだ! あきらめるな!」
ギルを洗脳しているヴェルドットに攻撃を仕掛けながら、ユキチははっと気づく。
「そうか……こいつらも操り人形なんだ! ヴェルドットの本体は別にいる!」
「豚よ、醜く鳴きなさい……!」
しかし、ユキチの攻撃もむなしく、詠唱が完了してしまう。ギルの目は完全に光を失い、操り人形になってしまった。
「ギル! お前はアリシアを守るために旅してるんだろ?」
ユキチが声をかけた。だが――返ってきたのは、直拳だった。
「……あっぶね!」
ギルの拳をスレスレでかわすユキチ。
「おい、正気に戻れ!……くそっ! こいつ、なんかいつも操られるポジションだな」
ユキチは拳をかわしながら愚痴る。アリシアにもヴェルドットの傀儡となった住民が迫り、奥では複数のヴェルドットが火球を放とうと準備をしている。
「反撃も撤退もする隙がねぇ。ラムネ! アリシアの護衛を頼む!」
ラムネが弾むようにアリシアの足元に来ると、アリシアをやさしく包み込んだ。住民程度の攻撃ではラムネのバリアを破れない。それはグラスノヴァのゴーレム戦でユキチが誰よりも知っている。
――しかし状況は悪化するばかり。ギルは敵に操られるし、火球も迫ってくる。そのとき。
「あんたら、こっちだよ!」
奥の店から呼ぶ声。それは宿のおかみさんだった。迷う暇はない。ユキチがアリシアの腕を引き、ラムネも一緒に店内へ飛び込む。背後で火球が通りを焼き払う音が響いた。おかみさんは店の床板を跳ね上げ、隠し階段を指さす。
「早く、地下通路へ!」
地下通路は石と土でできた細い道だった。湿った匂いが漂い、ランタンの明かりが壁の凹凸を照らす。
「……おかみさん、ここは一体?」
「簡単に言うとだね……オルネアさんに恩義があって、ヴェルドットが気に食わない奴らの逃げ場ってところかね」
「たまり場……物騒な響きだな」
「悪いことはしてないよ。酒飲んで文句言ってるくらいさ。それにしてもヴェルドットがあんな化け物だったなんて、あたしもびっくりだよ。あんたら、よく生きてたね」
「本当に。奇跡の連続よ」
「おかみさんもよく無事だったな」
「たまたまさ。ヴェルドットが“広場に集合しろ”って命令を出してたけど、命令されるのが性に合わないから、ここで居留守を決め込んでたのさ。そしたら上が騒がしくなって、おかしいなと思って外を覗いたら――あんなことになってたってわけ」
「で、助てくれたのか」
「あんたらも、落ちぶれそうになったオルネアさんの部下たちを救ってくれたろ? 恩は返す主義なんでね」
そう言っておかみさんは、振り返ってにやりと笑う。
「――ようこそ。月影亭の地下食堂へ」




