第16話 ビーフシチュー
「こちらの宿でさぁ」
男たちに紹介された宿には『月影亭』という看板がかかっていた。入ると、ほんのりと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。宿屋と食堂を併せて商売しているらしい。木の柱に色とりどりの布飾り、壁には異国の武具や焼き物がかかっている。 だがアリシアとユキチの視線を引き寄せたのは、ちょうど他のテーブルに運ばれていく料理だった。
「……あ、あれ……!」
アリシアが目を見開く。分厚く煮込まれた赤茶色の塊が、グツグツと音を立てている。
「あれが……噂の、ミノタウロスのビーフシチュー……!」
アリシアはよだれが止まらない。
「あ、もうご存じでしたか。ノル=ヴェリスの知る人ぞ知る名物でさぁ。長旅で疲れたでしょう。ここのところは今日の迷惑料として、あっしらに払わせてください」
「いいの? やったー! じゃあ、みんなビーフシチューでいいかしら? ほかにお勧めはあるかしら? あと珍しいお酒も!」
「おいおい、人の金だからって、あまり好き勝手に頼むなよ。ま、他のお勧めメニューには興味があるけどな」
ユキチが暴走し始めたアリシアを制する。
「あ……あの……、ギルの旦那、ずっと気になっていたんですが、このしゃべるゴブリンも旦那の仲間ですかい?」
「ちょっと──」
無礼な言い方にアリシアが口を出そうとするが、その前に、ギルが一喝する。
「ユキチ殿は、偉大なるアリシア様の使い魔にして私の友人。無礼な言い方はやめなさい。その隣にいるのは同じくスライムのラムネ殿です。こちらにも無礼のないように」
「──! 失礼しやした! ユキチのアニキ!」
「俺は別に何でもいいけどな……」
といいつつも、悪い気のしないユキチ。一人旅の時にはトラブルを避けるために顔を隠して日陰を歩いていたことを思えば、堂々と素顔を晒せる今の環境はとても居心地がいい。
「それじゃ改めまして、食事とお酒頼んできます! ラムネさんもビーフシチューいける口ですかい?」
ラムネはプルプル震える。
「ラムネもビーフシチュー食べてみたいって」
「アリシア、ラムネの言葉、分かるのか?」
驚くユキチ。
「うん。多分使役契約で結ばれたからだと思う」
「あぁ、あの本、ふざけたタイトルだけど、書かれていることは確かにマジモンなんだよな」
禁書の内容を思い出して頬を赤らめるアリシア。
「本当にね。誰が何のために書いたのかしら」
「少なくとも数百年以上前の文献と聞いています。著者については諸説ありますが、有力なのは歴代勇者の一人が書き残したとする説ですね」
ギルが答える。
「はっ! あんなタイトルをつけるなんて、ずいぶん茶目っ気のある勇者だな」
なんて話しているうちに料理が運ばれてくる。
「はい! おまち」
ノル=ヴェリス自治領の名物。凶暴な魔物・ミノタウロスの肉を、香味野菜と赤ワインで数日かけて煮込む伝統料理。硬い肉質が、丁寧に火を通されることでとろけるような食感に変わるという。
「いえー! 待ってました!」
アリシアが食前の祈祷もそっちのけでそっとシチューにスプーンを入れると、肉は抵抗もなく崩れ、湯気が立ち上る。そしてそのひとかけらを濃厚なソースと一緒に口に入れる。
「うま……っ、うまっ……! なんなのこれ、神の料理じゃない!?」
「確かに、これは……旅の疲れが全部溶けるな……ミノタウロス、怖いけど、悪いやつじゃなかったのかもしれない」
ユキチも口に運びながら、目を細める。濃厚な肉の旨味に、ほのかに鼻に抜けるトマトの香り。大雑把な料理に見えるが、なんとも細かい気配りがある。
「……おかわりって、できるかな……」
アリシアがしみじみと呟いたそのとき。
「失礼しまーす! 税の回収にきましたー!」
バタン、と扉が乱暴に開かれ、感じの悪い男たちがずかずかと店内に入ってくる。
「店長ー! 今月分の税金、滞納されてますよ―? このままだと、大変なことになりますよー?」
「そんな……、ちゃんと払ってますよ。確認していただければ……」
「いやいや、変わったんですよ。額が。あれ? ご存じない?」
「急に言われても……」
「おや? 納得いかねぇって顔だな? じゃあ出てけ。あるいは──娘でも差し出すか?」
おちゃらけていた男の雰囲気がガラリと変わる。尋常じゃない様子にギルとユキチは臨戦態勢を取る。どうしていいかわからず、オロオロする元商人の男たち。そして、それはさておき、シチューの皿をなめるアリシア。
「おいおい……せっかくの飯を台無しにするなよ……」
男が声に釣られて、ユキチに視線を送る。
「なんだと? 私を誰だと──って、うお!? ゴブリン? まさかお前ら、街中で魔物を飼っているのか? これは見過ごせねぇぞ。──ヴェルドット様への反逆の意志ありって受け取っていいんだよな」
その声が合図になったかのように、警備兵たちが芝居がかった様子で駆け込んできた。
「全員動くな! 何の騒ぎだ? ん? 魔物? そこの者たち、両手を上げろ!」
(こいつらもヴェルドットの息がかかってる奴らでさぁ)
元商人が解説する。それを聞いて、ギルが静かに立ち上がる。 その表情は落ち着いていたが、拳を握りしめた瞬間、宿の空気がぴりりと張りつめた。
「……どうにも見過ごせませんね。こうまであからさまな言いがかりをつけられては」
彼が一歩踏み出しただけで、警備兵が一瞬たじろぐ。
「やめときなよ、ギル」
ユキチが、さらっと言った。ギルは一瞬だけユキチを見て、目を細める。二人の間に言葉のない会話が流れた。やがて、ギルはわずかに頷いた。
「……確かにここで暴れるのは得策ではありませんね」
拳を解き、両手を上げる。警備兵たちは満足げに一行を縄で縛りはじめる。
「……ちょ、ちょっと、まだ他の料理が出てくるはずだったのに……」
「安心して、アリシア。また後で食べに来よう」
「お前たちに後があるといいがな。──ほら、無駄口を言わず、とっとと歩け」
ユキチを小突く警備員。「へいへい」ユキチはおとなしく従う。──が、 その目の奥は、鋭く光っていた。




