第12話 ギル
怒涛の一日が終わった翌日。アリシアは教会の中庭で、ユキチと大司教と一緒に、今後のことについて話し合っている。
「やっとひと段落付いたわね。死人が出なくて本当に何よりだったわ」
昨晩を振り返るように、深いため息をついた。
「それにしても、結局あれは何だったの? あの黒い霧」
「私も気になって調べていたのですが、古の文献によると……あの霧は“魔王の影”ではないかと」
大司教は苦々しく、曇った表情で答えた。
「言いづらいのですが、おそらく私も、私が使役したスライムとゴーレムも、その支配を受けてしまっていたようです。支配されたきっかけすら全く思い出せないのですが……本当に……面目ありません」
「魔王が相手ならしょうがないわよ。じゃあ、禁書がなくなったのも、魔王に操られたあなたが?」
「記憶はありませんが……おそらく。スライムを使って盗み出し、どこかに運んだのではないかと」
「幸い地下図書館は無事でしたので、文献リストと改めて照らし合わせたところ、七冊の禁書がなくなっていました」
司書が差し出した巻物の写しを、アリシアが受け取る。
「そのうちの一冊は……これね」
アリシアは懐から例の本を取り出し、テーブルの上に置いた。
――『どすけべシスター ローション地獄』――
何度見てもひどいタイトルだ。こんな本の中に禁忌の魔法について記されているとは誰も思うまい。――いや、知っている人はいる。それにおそらく魔王も。
「“魔王”……ね。おとぎ話が過ぎるぜ」
呆れたようにユキチが肩をすくめる。
「何をおっしゃいます。聖女様がこうして降臨された以上、魔王も伝説などではありません」
「……あー、もう、好きにして」
身震いするアリシア。
「でも、そういえば、大司教が長らく魔王の影に操られてたってことは、あたしが“静寂の試練”でこの右手のスタンプを受けた時も、まだその支配下にあったってことよね」
アリシアは手の甲に刻まれた印を見つめた。
「そのへんの記憶は……あるかしら?」
「お恥ずかしながら、全く。――ですが、その刻印は確かに我が神殿のものです。影に操られながらも、大司教としての務めはしっかり果たしていたようですね」
大司教はわずかに笑みを浮かべ、なぜか誇らしげに言った。
「じゃあ……あたしが“心の声”で会話した大司教は、魔王の影だったってこと?」
「……心の、声? ですか?」
「え? “静寂の試練”を通じて“心の声”で会話できるようになるんじゃないの?」
「いえ、そのような話は聞いたことがありませんが――静寂の試練は、外部との情報を断ち、己に向き合って集中力を高めるためのものですので」
「じゃあ……みんなあの静寂の中、どうやって会話してたのよ?」
「普通に、紙と筆ですが……」
「……えぇぇ……じゃあ、あたしが聞こえたのは、なんなのよ……」
「勘違いなんじゃね?」
ユキチが悪戯っぽく肩をすくめて茶化す。
「いえ、それこそ神の御業です!」
大司教が食い気味に主張した。
「もう、そういうのはいいから」
アリシアが興奮しだした大司教を止める。
「まぁ……でもそれで、トネリの中にいたラムネの存在にも気づいたんだし、そのあとラムネとの"心の声"で会話できたんだから、全くの勘違いってわけでもないんじゃない?」
「勘違いって……」
アリシアは言いかけて口をつぐむ。
「でも、そうね。今思うと……あたしの思い込みも、結構入ってたかも」
――“ねぇ聞いて。あたし、わかったの! 言葉にしなくても心はつながるのね!!”――
試練に合格した帰り道、門番にしたり顔で語ったあの瞬間が脳裏によみがえり、アリシアは今更ながら恥ずかしくなって、ひとり赤面した。
「じゃあ、この刻印が押されたときに聞こえた声も……気のせいなのかな」
アリシアは今は黒い右手の刻印を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「とてもそうとは思えなかったけど」
「刻印を授かった時に、声が聞こえたのですか!?」
大司教が目を見開く。
「えぇ、なんか右手がめちゃめちゃ熱くなって、星の卵が大ピンチとかなんとか……」
「“星の卵に危機が迫っている”じゃなかったか?」
ユキチが口を挟む。
「ああ、現代語だとそんな感じ。あたしが聞いたのは古代神聖語だったから、正しく聞き取れたかは自信がないけど……」
「“星の卵”……。すみません、私の記憶にもない言葉ですね。それにしても心の声だけでなく、天からの声も聞こえるとは――さすが聖女様」
大司教は胸の前で仰々しく手を組む。
「やめてって。星の卵については、ロシアナ地下図書館の文献にもなかったし、気長に調べるしかなさそうね」
「既に地下図書館を確認されたのですね。あそこにないとなると、文献では残っていない可能性が高いです。他の大司教、もしくは教皇様なら……何かご存じかもしれません。私の方でも調べてみましょう」
「教皇様って?」
「簡単に言うと教会で一番偉い人。普通の修道士は会うことすらできないすごいお方なんだから」
なぜかアリシアが偉そうに答える。
「ふぅん……。それにしても、巡礼が命がけっていうのは本当だな! 俺、ちょっと舐めてたぜ」
ユキチが伸びをしながら笑う。
「こんなイベントをあと三回……いや、四回だっけ? こなさないといけないのか」
「そんなわけないでしょ。巡礼するたびに街や大聖堂が壊されてたら、国から巡礼禁止令が出てるわよ」
「ははは、そりゃそうか」
「はい。通常は刻印を授けて、何事もなくそのまま次の巡礼地へと旅立ちます。大聖堂の大司教になるにになるにあたり、私もすべての聖地を巡礼をしましたが、このような事態になったことは聞いたことがありません」
大司教は手袋を外すと、その両手に刻まれたアリシアとおそろいの刻印を見せながら答える。
「それに――巡礼の礼拝中に神の声が聞こえた、ということも初耳です――」
「じゃあ今回はたまたま、“魔王の影”が現れて悪さをしたタイミングと、アリシアの巡礼が重なったってことでいいのかな」
「もしくは聖女アリシア様を狙って、魔王が近付いてきたか――」
真剣な表情で大司教はアリシアを見つめる。
「それはないわよ。あたし、そんな立派なもんじゃないし。巡礼に出ることになったのも、本当にしょうもない理由だったし」
「追放シスター、聖女様に大転身……ってね。いいじゃない。新聞の見出しを飾れるぜ」
「ユキチまでやめてよ。あたしはね、その日のおいしいごはんとお酒があればそれでいいの。聖女になんて担ぎ上げられた日には、好きにお酒飲めなくなっちゃうじゃない」
本気で嫌がるアリシア。
「とはいえ、"魔王の影"から街を救ったのはアリシアの力だと思うぜ。そこは胸を張りな」
「ありがと。でもそれは、ユキチやラムネの助けがあったからこそだよ。……結局はあたしの力足らずで街はボロボロになっちゃったし」
「力足らずはみんなお互い様さ。それに、街はボロボロでも、人が無事なら何とかなるさ」
「そうね。おかみさんたちの元気さを見習わないと」
「ふふ。アリシアはいつも元気だよ」
ユキチが軽口を叩くと、アリシアは肩をすくめる。
「大司教さん、ここの大神殿も立て直すんだろ」
「はい。また一からやり直そうかと思います」
大司教は神殿のあった場所を見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「ただ、私は今回の責任をとって、大司教の座を降りるつもりです」
「え、なんでよ。あなたは操られていただけで、悪くないじゃない」
アリシアが思わず声を上げる。
「それでも、今回の問題を引き起こした原因は私にありますから。その代わり――」
大司教は一歩進み膝をつき、アリシアを真っ直ぐに見上げた。
「聖女様の巡礼が、無事に完遂できるようお供させてください。――それに失った禁書の回収もいそがなければいけません」
「おいおい、俺たちの旅についてくるっていうのかい?」
「はい。よろしければ」
「……俺は大所帯になるのはあまりよろしくないんだが」
ユキチのつぶやきもどこへやら。大司教はキラキラした目で聖女を見つめている。
その目を見たアリシアは、そっとため息をついた。
「……断ってもついてきそうな勢いね。まぁ、巡礼経験者の大司教がサポートしてくれるのなら、いろいろ助かるのも本当のところなんだけど、ユキチ、いいかな」
やれやれという仕草をしつつも、頷くユキチ。
「ユキチ、ありがとう。大司教様に巡礼に同行してもらえるというのであれば、こちらも心強いわ。実はあたし、急に巡礼に送り出されたから、わからないことだらけなの。色々教えてくださいね」
大司教は両手を胸の前で組み、嬉しさを隠しきれない笑顔を浮かべた。
「聖女様! 巡礼同行の許可をいただき……感謝致します!」
「あ、でも一緒に旅をするなら、あたしを"聖女様"って呼ぶのはやめてね。呼ぶならアリシア。"様"付けも禁止よ」
「わかりました。アリシア様――いえ、アリシアさん。では、私のことは"ギル"とお呼びください」
「オッケー、ギル。よろしくね。そうと決まれば出発の準備をしましょう!」
「わかりました。と言いたいところなのですが……神殿の復興にめどがつくまでもうしばらくかかりそうでして。――出立までしばらくのお時間をいただくことはできますでしょうか。それに、できれば“静寂の試練”に耐えうるような人員も増員しなければいけないですし――」
「あ、それなら――推薦したい人がいるわ」
ユキチとアリシアが目を見合わせて笑った。
場面は変わって、青空キッチン。
「――というわけで、神殿で働いてみる気はない? トネリ」
アリシアの言葉に、トネリはぽかんと口を開けたまま固まっている。
「……ッ!?」
ようやく理解が追いついたのか、少年の肩がぴくりと揺れた。
「まぁ、思わぬ抜擢だわねぇ!」
おかみさんがにこにことトネリの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「街はこんな状態だし、ごろつきも増えて治安も悪くなってきてどうしようかと思ってたんだよ。神殿なら、ちゃんと見張りもいるし、食事も寝床もある。安全ってだけでもありがたい話だよ」
トネリはアリシアを見上げ、そしておかみさんに目を向けた。おかみさんは、笑顔のままトネリの肩をぽんと叩く。
「あたしは大賛成だよ。なに、さみしくなったらいつでもここに戻っておいで。あんたの部屋はいつまでも取っておくからさ」
トネリはその言葉に背を押されるように、ゆっくりとうなずいた。
「そうと決まれば、お祝いしなくっちゃ! トネリの新しい門出に乾杯しましょう!」
「アリシアはトネリにかこつけて、酒を飲みたいだけだろ」
「いいじゃない。乾杯はたくさんやった方がいいのよ。特にめでたいのはね」
「それもそうか」
やらなくちゃいけないことは山積みだが、今やることは、決まった――




