第110話 BAN
ユキチは汗を拭う間もなく、キーボードを叩き続けていた。
「……これで、大丈夫、な、はずだ」
作成したコマンドを何度も見返し、バグがないか目を凝らす。焦りと恐怖と願望が、全て混ざり合って、指の震えが止まらない。
目の前のアリシアはすでに呼吸を失い、土気色の顔で横たわっている。その胸には、まだ黒い棘が深く突き刺さったままだ。
「せっかくの素材だ……これも使わせてもらうぞ」
ユキチはそう言うと、黒い棘に触れる。そして、何かを小さくつぶやき、今度はアリシアの手を取る。その中指にはめられた指輪に、そっと手の平で触れた。
「アリシア――帰ってこい!」
/bin/advent -name Alicia_Rafel -id PRC6982930192001231U653 -type administrator -force
実行キーを叩くと同時に、指輪から小さな電撃がほとばしった。青白い光がアリシアの全身を駆け抜け、周囲の空気が震える。胸の傷は、すでにラムネが内側から修復している。オロロロ……と、ルメールもまだ必死に魔力を注いでくれている。
――間に合った。
――間に合う、はずだ。
――間に合っていてくれ。
ユキチは祈るようにアリシアの胸に手を当てた。鼓動を探る――何も聞こえない。 だが、胸に残った棘の塊が、アリシアの体内で第二の魔核として稼働している感触はある。
「……パラレルシフト」
ユキチは小さく呪文を唱えた。数ある世界線の中から、アリシアを救い出した自分を呼び出し、その行動をトレースする。
――アリシアの鼻をつまみ、口づけをして、肺に空気を送る。
――口を離し、また息を吹き込む。
その行為を何度も繰り返す。
そのとき――
「……かはっ! はぁっ、はぁっ!」
アリシアの喉から、息の音がこぼれた。みるみるうちに彼女の肌に色が戻っていく。冷たかった身体に、再び温もりが宿った。
ユキチの瞳が震える。
「……おかえり、アリシア」
「おぇ……なにこれ? 血?」
アリシアが身を起こし、口の中に溜まっていた血をぺっぺっと吐き出す。
「アリシア! よかった……もうダメかと思ったよ!」
ユキチは反射的に抱きしめる。こらえきれなかった涙が頬を伝い、アリシアの肩に落ちた。
「え? あ……うん。ありがとう、ね?」
何が起こったのか理解できぬまま、アリシアは戸惑いつつもユキチを抱き返す。
キュウ……。
ルメールが力尽きたようにその場に倒れた。
「ルメールも……ありがとな。ラムネも」
ユキチはルメールに温かい視線を送り、左手に宿るスライム――ラムネの本体にそっと触れる。
ビッ――!
突如、ユキチの視界に赤い文字が浮かび上がった。
Detect a violation
「ん? なんだこれ……?」
見慣れない警告メッセージに首をかしげるユキチ。その直後、通信越しにサイトーの切迫した声が飛び込んできた。
「ユキチ! 待たせたな! シシドをぶっ飛ばす準備ができたぜ! 今すぐこのコマンドを実行してくれ――!」
ユキチは迷う間もなく、サイトーに言われるがままコンソールを叩く。
/ban -id AAC0000000008638646U107 -force -now
エンターを押した瞬間、原初の魔王がピクリと震えた。
Terminating by administrator
Terminating by administrator
Terminating by administrator
赤い文字列が、原初の魔王の周囲を取り囲む。触手の動きが次第に鈍くなり――やがて、完全に止まった。
Terminated by administrator
――そして静寂。その中で、遠くからシシドの声が響く。
「ふふふ……素晴らしい。きみたちの抗う姿、しかと見せてもらった。わしの完敗じゃな。……これ以上の手出しはせん。すべてが終わるその日まで――この世界を、自由に楽しむがいい」
そう告げると、シシドの気配は音もなく消えた――。
「おれたちの……勝ちだーー!!」
ギルたちの歓声が、戦場にこだまする。重苦しい空気がようやく晴れ、大地に光が差し込んだ。
「……よかった。これで、大丈夫……」
ユキチは安堵の息を吐き、アリシアをぎゅっと抱きしめた。アリシアも微笑み返す。だが――ユキチの表情が、ふいに曇る。
「アリシア……ごめん。もう、行かなくちゃ。でも……きっとまた会いに来るよ」
「え……?」
ユキチの周囲に、原初の魔王の時と同じく、赤い文字列が現れる。
Terminating by administrator
「ユキチ? どういうこと? あたし、全然わかんないよ……!」
アリシアが涙混じりに叫ぶ。
Terminating by administrator
「よくわかんないけど、行かないでよ! 魔王倒して、これからやっと、あたしたちの旅が――!」
Terminating by administrator
アリシアの声を背に、ユキチの身体がゆっくりと赤い粒子に分解されていく。
Terminated by administrator
「何なのよ、この文字……! ねぇ、なんか言ってよ、ユキチ!」
ユキチの唇が動く。けれど、その声はもうアリシアには届かない。
「ユキチッ!!」
アリシアが手を伸ばした瞬間――光がはじけた。
ギルたちが駆け寄ったとき、そこにはもうユキチの姿はなかった。
「アリシア! よかった、無事だったんだな。で……ユキチは?」
アリシアは小さく首を振る。目に涙を浮かべ、震える声で答えた。
「……消えちゃった……」
その言葉とともに、赤い光の残滓が空に消えていった。




