セシル=グランディール2
ドキドキが止まらないまま、湖に到着。
馬車から降りる時も、セシル王子は当たり前のように手を差し伸べてくれた。
私はまたも、手が触れるか触れないかギリギリの距離を保とうとしたのだけれどーー
ふわりと、けれどしっかりと、セシル王子の手が私の手を包んだ。
「ーーっ」
思わず驚いてセシル王子を見つめると、彼は何も言わず、ただ微笑んでいた。
その微笑みは、優しくて、あたたかくて、胸が締め付けられるほどに眩しかった。
大人しくエスコートを受けて馬車から降りると、目の前に広がるのは、ゲーム画面では到底味わえない、本物の景色。
広大な湖と、それを彩るような色とりどりの木々。
人の手で整えられたかのように咲き誇る花々。
「うわぁ……きれい……」
「気に入っていただけて何よりです。
あちらにお茶を用意してありますので、どうぞ。ゆっくりしましょう」
澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、セシル王子の後をついていくとーー
そこにはまたもや、まるで夢のような光景が広がっていた。
可愛いティーセットが並ぶテーブル、クラシカルで美しい椅子。
セシル王子のメイドらしき人たちが手際よくお茶を注ぎ、サンドイッチやケーキを取り出しては並べていく。
(えぇ……これって……めっちゃお嬢様空間……。
こんなイケメンと、こんな綺麗な場所で、こんな可愛い食器とお茶……
お嬢様って……最高すぎない!?)
「シアお嬢様は、学園が休みの日はどのように過ごしているんですか?」
「お休みの日は、友人と……ゲーム……じゃなくてっ、友人とお喋りをしたり、本を読んだりしています。
最近、とっても素敵な本に出会ったんです」
「どんなお話ですか?」
にっこりと優しく微笑むセシル王子。もう、その笑顔に心臓が持たない……。
「かっこいい王子様と……恋をするお話なんですけど……」
……って、ちょっと待って。それ、現実の私が読んだ“ラブプリ”の小説版じゃん!?
あれ、シアが読むような本だっけ……!? あれ、えっと……ゲームの設定にそんな細かい描写あったっけ……?
(うわあああ、記憶にないよぉぉお!!!)
必死に脳内のデータベースを探すけど、ないものはない。
と、その時。
「へぇ? かっこいい王子様と、恋に落ちる話ですか?」
セシル王子が、肘をテーブルにつき、顎を手のひらに乗せて、じっとこちらを見つめていた。
その笑顔は……ちょっとだけ、意地悪そうで。
(いやいやいやいや、そうだよ!あなたのことだよ!!
セシル王子と恋に落ちる話だよぉぉおぉ!!!)
ようやく緊張が和らいできたのに、また一気にガチガチに戻ってしまう。
「シアお嬢様は、王子様と恋に落ちる話が……お好きなんですね?」
「っ……い、いえ! その……。はい。たまたま手に取った本がそれで……それはそれで、面白かったというか……その……はは……」
……王子様の前で、王子様が出てくる恋愛本の話って……それ、告白になっちゃってないよね!?
なのにセシルの視線は、どこか余裕たっぷりで、まるでからかってるようでーー
……でも、やっぱりかっこいいのは変わらないんだけどさ。
恥ずかしさで居たたまれない空気を振り払うように、私は声を上げた。
「……あ! 鳥!! セシル様、鳥がいます!」
「そういえば、鳥にエサをあげたいと仰ってましたね」
セシル王子がすぐに近くのメイドを呼び、「“パンくず”はありますか?」と尋ねる。
「セシル様!パンくずなんて用意しなくても、サンドイッチの端っこをちぎればいいんですよ!」
慣れた手つきでサンドイッチを頬張り、なにもついていなさそうな端っこをちぎって、湖にぽいっと投げてみせた。
「……あっ、ほら! 食べた! 可愛い〜」
私が笑顔でそう言うと、セシル王子は一瞬ぽかんとした顔で私を見たがーー
やがてサンドイッチを手に取り、同じように端っこをちぎって湖へ投げた。
「……本当だ。とっても元気で、愛らしいですね」
「ね!」
「……でも、王子様がこんなこと……メイドさんたち、驚いていませんか?」
「確かに、こんなことをするのは初めてですね。
でも……とても楽しいですよ」
2人で顔を見合わせて、自然と笑い合う。
ゲームの中では見られなかった、セシル王子の柔らかい表情。
その姿に、私はもう喜びを隠せなかった。
楽しい。楽しい、楽しい、楽しい!
……ずっと、ここで時間が止まってくれたらいいのに。
心の底から、そう思った。
* * *
そのあとはゆっくりと散歩をしながら、たわいない会話に笑い合ったり、ときには見つめ合ったり。
ああ……夢のような時間。
ーーが。
(……やばい。トイレ行きたい……)
でも、こんなキラキラ王子様に、トイレなんて……言えない。言いたくない……!
「……あの、セシル様」
「ん? どうかなさいましたか? メイドを呼びましょうか?」
(この男、どこまで完璧なんだ……!)
「……お願いします」
セシル王子はすぐにメイドを呼ぶと、「僕はあちらに」と静かにその場を離れてくれた。
(なにもかも完璧すぎる……。現代の男に見習ってほしい……
セシル王子のモテテク、SNSに載せたら絶対バズるやつ。もちろん顔写真も必須)
メイドに「お手洗いを……」と告げた私は、馬車で数分の距離にあるというセシル王子の別宅へと向かうことに。
馬車に乗り込み、ほっと腰を下ろしたその時だった。
「失礼します」
扉が開き、低く落ち着いた声と共に入ってきたのはーー
見覚えのある、大きな男。
そう。彼は、国の騎士団長。もちろん攻略対象のひとり。
(あ……そうだ。
忘れてたけど、セシル王子以外のキャラも……いるんだった……!)
本来は、街へのルートで出会うはずの騎士団長。
でも、湖ルートでも出会うんだ……!? トイレ経由で!?
もう、トイレのことなんてどうでもよくなるくらい、額からは汗がだらだら。
(……いや、そりゃそうだよね。
乙女ゲームにシアお嬢様の“トイレ描写”なんてあるはずないし……
分かるわけないじゃん!!)
思考がグルグルと回っている間にも、騎士団長は静かに座って護衛態勢を取っている。
声をかけるべき? でも何て? どうしよう……と悩んでいるうちに、
「到着いたしました」
扉が開いた。
耐えきれなくなった私は、駆け足でトイレへと向かっていったのだった。
ーーー。
トイレを済ませて、少し冷静になった私は、再び馬車に乗り込んだ。
けれど、腰を落ち着ける間もなく「失礼します」という声と共に、またしても騎士団長が乗り込んできた。
(……まぁ、喋らなくてもいいよね)
気まずくなる前に思考を打ち切って、私はセシル王子の元へと戻ることにした。
再び湖の席へと案内されたが、そこにセシル王子の姿はなかった。
カップにそっと手を伸ばして、一口。
まだ温かい。……温め直してくれたのか。
(どこまで完璧なの、貴族生活……!)
湖をぼんやりと眺めながら、「これからどうなるのかな〜」なんて未来をぼんやり思い描いているとーー
「お待たせしてしまって、すみません」
そう言って、セシル王子が静かに戻ってきた。
(いや、待たせたのは私のほうだし!?
もしかして、トイレから戻ってきて気まずくならないようにって……!?)
その気遣いに、またもや心臓がドクンドクンと激しく跳ねた。
「……これ。もしよければ、部屋に飾ってください」
そう言ってセシル王子が差し出したのは、水色と白の小さくて可愛らしい花束だった。
「え……私に、ですか?」
「他に、どなたが?」
ちょっとだけ照れくさそうに笑った王子は、優しくその花を私に手渡してくれる。
嬉しすぎて、涙がこぼれそうだった。
ゲームの記憶では、花畑で談笑していたときに、水色の花をそっとシアの髪に挿してくれたセシル王子。
少し展開は違うけどーーこうして“花をくれる”という大切なイベントは、ちゃんと現実にもあった。
(……あ。私がトイレ行ってる間に、ひとりで花畑に……?)
私を思い出して花を摘んでくれた王子を想像するだけで、胸がいっぱいになる。
(セシル王子……やっぱり、好き。大好き)
その気持ちを込めて、私は彼をまっすぐに見つめた。
「ありがとうございます」
囁くようにお礼を告げた私に、セシル王子は優しく微笑む。
「……そろそろ、日が暮れそうだ。帰りましょうか」
そう言って、私たちは湖を後にした。
* * *
帰りの馬車の中は、2人ともあまり多くを語らなかった。
けれど、静かで優しい空気が流れていた。
「……寂しいですね」
思わず、ぽつりと呟いてしまった。
「……」
返事がないことに不安を覚えて、そっと顔を上げる。
けれどそこには、とても優しい笑顔のセシル王子がいた。
そしてゆっくりと手を伸ばし、私の髪をなで、するりと髪を手に取りーー
そのまま、そっとキスを落とした。
「シア…。僕も、帰るのが寂しいです。
同じ気持ちで、嬉しい。手紙を書くので、また必ず会いましょう。
今日は、とても楽しかったです」
優しい声に包まれて、セシル王子と別れた。
キスされた髪をそっと指で触れると、
心臓が、またバクバクと音を立て始めた。
(今日は……絶対、眠れない……)
ゲームと同じ、でも少し違うセシル王子。
その違いが、胸をときめかせてやまない。
「お帰りなさいませ、お嬢様。いかがでしたか?」
「とーっても楽しかったわ! あのね、セシル王子ってね……!」
私はさっそく、今日の出来事と、セシル王子の新しい一面をメアリに語り始めた。
セシル=グランディール。
18歳。グランディール王国の第一王子。
穏やかで紳士的、誰にでも優しい完璧な王子様。
……だけど、少しいじわるで、よく笑う。
今日見たセシル王子は、ゲームと同じで、でもちゃんと現実にいる“18歳の男の子”だった。
(やっぱセシル王子一択だよねぇええええぇぇぇぇ!!!
なんだかゲームより上手くいきすぎてる気がするけど……
このままいけば、ちゃんと結婚ルートだよね!?
最高だよーーーー!!!)
ベッドの上でジタバタと暴れたあと、そのまま夢の中へ落ちていった。
ベッドの側には可愛い花束が月明かりに照らされていた。