☆★月餅学園祭★☆
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チクタクと規則的に鳴る秒針の音に煽られながら、黄色と緑色の二本のリード線とにらめっこをしている。人から「小さくて可愛い」と揶揄される耳には漆黒のインカムイヤホンワイヤレス。黄色を切れと言われれば、すぐにでも手に持っているぶっといハサミでリード線を切る。緑色ならば緑色。だが、沈黙となったらお手上げだ。
私の学校の誇る大時計塔は午後六時の十秒前。タイムミリットが午後六時なのだから、あと十秒で爆弾がドカン。私もろとも学校は吹き飛び、大勢の生徒教師が負傷する。そうなったら被害者の会なんかが立ち上がり、涙と怒りの大演説が繰り広げられることになる。あと九秒。
どちらも切らないことが正解なのかもしれない。私はハサミを放り投げ、鼻クソでもほじりながら来週の深夜アニメのことでも考えていればいいかもしれない。あと八秒。
いや、違う。絶対に違う。冷静になれと自分自身に言い聞かせ、自分の置かれている状況を再確認する。私は爆弾の解体作業をしている。状況的に私にしかできない役回りだ。相方の指示通りに作業を進め、残りは二本、恐らくは最後の選択肢までたどり着いた。あと少しなのだ。あと少しでハッピーエンドなのだ。それなのに、次の指示が来ない。禍々しい殺意が沸き上がる。あと七秒。
「ああ、どうしてこうなっちゃったんだろう」
時間の梯子が外されて、走馬燈らしき記憶の断片が次から次に思い出される。欠伸が出てしまうほどに退屈な走馬燈に涙が出そうになる。三流作家のミステリ小説よりも悲惨な人生のオチに、私はもう笑うしかない。
どうしてこうなっちゃったんだろう。
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思春期真っ盛りの若者は制服に身を包み、成長期の推進力を最大限に活かして学業に励む。くたびれた教師の綴る黒板の文字をノートに書き写す作業を一日に数時間。血と汗と涙を垂れ流す部活動。その合間合間に色恋沙汰を挟めば、これぞ青春。起承転結など不要な学園青春日常の出来上がりである。
されど、私の日々は青白かった。心臓が停止した屍人のように青白い日々。感動もクソもない。無限に溢れる退屈の慰めは、アニメとゲームと小説と……。
「そんな人生は虚しいぞ!」
というのが口癖の友人が、私にとって唯一の友人だった。私は昼休みに屋上で読書をする習慣を持っていて、彼もまた屋上を愛好する同志であった。
「あんたの人生は楽しそう」
「無論。楽しくない人生は人生にあらず」
後に、彼は学校で名の馳せた変人奇人。近寄るだけでも冷ややかな噂の標的にされるといった危険人物であることが判明するのだが、気がついた頃には遅かった。私のどこを気に入ったのか、彼は事ある毎に声をかけてきた。私が冷たくあしらっても、彼は情熱的にやってくる。嬉しすぎて泣けてくる。
「そういえば来月は学園祭がある。そこでだ、俺は面白いことを企画しようと思う。楽しみにしてくれたまえ」
「は、はあ」
「芸術は爆発だ。そう思わんかね。おっと、ネタバレは控えようではないか。失敬」
そう言って消息を絶った彼が、まさか爆破テロを企てていようとは、そのときの私は思いもよらなんだ。学校を爆発させることは大いに賛成なのだが、どうか私を巻き込まないで頂きたい。
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内申点など知ったことかと赤点にまみれたテスト用紙を誇らしげに掲げ、全身にびっしりと校則違反を帯びたその男。その男が学園祭実行委員長という肩書きを得たのは、いったいどのような陰謀だろうか。五回連続で脱色したボサボサで真っ白な髪をかきあげて、実行委員長の腕章を身につけた彼は、時計塔の頭頂部から眼下の校舎を見下ろしている。どうせ「人がゴミのようだ〜」とか思っているのだろうが、黙っていればイケメンな男である。知的な雰囲気すらある。それが彼を密かな人気者に仕立てあげていた。
「実行委員長〜、学祭の準備を手伝ってくださいよお。明日までには飾りつけを終わらせないといけないんですからね」
という部下の嘆きを華麗に無視して、彼は精悍な眼差しに望遠鏡を添える。拡大された視界の中央には一人の女生徒の横顔。小柄でお世辞にもスタイルがいいとは言えないが、なかなか見ていて退屈しない顔をしている。
「いい耳だ。小さくて可愛い」
「なぁに言ってんですか実行委員長。耳フェチですか?」
「なんでもない。黙っとれ」
学祭前日の学校には、処理しきれないほどの情報が溢れている。色鮮やかな横断幕には『第三十二回月餅学園祭』という文字が並び、万国旗が縦横無尽に張り巡らされ、生徒教師がわくせくとなんのこっちゃか意味不明な水着キャバクラ喫茶やら拳闘武闘会やらの会場設営をしている。
とはいえ、無論手付かずの領域もある。タコの足のように絡みつく非日常の彩りも、例えば屋上には侵入して来ない。原則立ち入り禁止の聖域。そこの住民のひとりである小さくて可愛い耳の女生徒を見る。彼女のことは知っている。だが、彼女はこちらのことを知るまい。
「ふむ。あの調子であれば明日も屋上の虫だろうな」
「実行委員長、ストーカーですか?」
「断じて違う」
時計塔がちょうど午後六時の鐘を鳴らした。荘厳な音色が学内全体に響き渡り、作業中の誰しもが「あ、もう六時か」と我に返る。平生であれば部活動の終了時刻、さっさと帰れとの勧告であるこの鐘の音であるが、学祭準備日と当日に関してはその限りではなく、多くの生徒教師は残業の決意を心に固め、マスキングテープを引き伸ばす。
「おっと。屋上の君はもう帰るのか」
「我々はしばらく帰れませんよ。ささ、作業をしましょうよ。夜のうちには帰りたいところです」
「夜通し作業をする猛者向けに、校内に特設寝室が用意されるのが慣例と聞いている。いざとなれば学校で寝泊まりをすればいい。というか、その方が面白いだろ」
「それはそうかもですけれど。だからといっても作業量は変わらないんですよ?」
部下は背後の山を指さした。怠惰怠慢の象徴、夏休み最終日に残された宿題もかくやという膨大な量の負債を前に、どんな言葉も虚しく響く。
渋々と作業に取り掛かる。
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青春の中でもトップオブトップの大イベント、学園祭。桃色の脳細胞に翻弄される若者は、色恋出会いを贖うために、奇々怪々な迷走を繰り返す。病的なまでに付け上がったテンションに身を任せ、壇上でライブをしたり、愛の言葉を叫んでみたり、それで上手くいく人は上手くいくし、そうでない人は首をくくろうかと陰鬱な思考に囚われる。
だが私の青白い青春には、そんな劇的な出来事は存在しない。天にも昇るかのような幸福も、死の淵で反復横跳びをするような絶望もない。いつものような屋上で、いつものように変哲のない無害な本を読むだけだ。平日と何も変わらない。と思っていたのだが。
「置き手紙?」
普段、私が読書を嗜む定位置に豪奢な装丁の置き手紙があった。差出人不明であり、誰に宛てたものなのかもわからない。しかし、私は引き寄せられるように手を伸ばし、無遠慮に中身を閲覧することにした。
ここは私の場所である。誰がなんと言おうとも、私には見る権利がある。
「ああ、あいつからか」
冒頭を読んだだけでわかった。学校随一の変人奇人、冷嘲熱罵の格好の的。私の唯一の友人で、宇宙人よりも理解不能な思考回路を持つ男。ということは、この手紙は私へ宛てられたものに違いない。
「……拝啓、同好の士。重陽のみぎり、お変わりなくご清祥のこととお慶び申し上げます。等と丁寧に手紙を書く間柄ではないので簡単に。久しぶりである。学園祭も無事に当日を迎えたことだが、君は覚えているだろうか。面白い企画、についてだ。俺がしばらく屋上に、いや、学校にすら訪れなかった理由はその準備をするためだ。その準備は完璧に整った。もう誰にも止めることはできない。今日の午後六時、時計塔の秒針がそれを指し示すと同時に、学校を爆破する」
タチの悪い冗談だと私は笑った。そんな馬鹿な話がまかり通るはずもない。確かに彼は異常なほどに狂っているが、そこまでではないはずだ。
「えーと。だが、これは企画だ。ゲームだ。ゲームなのだから、止める手段を用意した。まず、占いの館へ向かうといい。そこにヒントがある。……はあ、アホらしい」
と言いつつも、壮大な計画すぎてワクワクしてくる。学校を爆破する? 何それ。すごく面白そうじゃん。と、そのときの私は思ってしまった。
読書はやめだ。栞を挟んだままの本を屋上に置き去りにして、私は『占いの館』へと足を運ぶ。
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屋上の君がいると思って、仕事の合間の空き時間、寸暇を惜しんで屋上へと足を運んだのだが、意外にも誰の姿もなかった。物陰に身を隠している訳でもあるまい。一応探してみたものの、見つかったのは一冊の本だけだった。
「ここに来ていたのは確かだ。彼女はここに来て、本を置いてどこかへと立ち去った。謎だな」
「謎ですね。実行委員長」
「よもや、我らが立ち入るのを察知して逃げたか?」
「そりゃあないでしょう。僕たちの行動は予測できるものではありません」
愉快な味のする謎を噛み締めながら、放置されていた本をペラペラと読んでみる。左翼思想も自殺教唆も変態的趣向もなさそうな人畜無害なミステリ小説。読み切ったとして、新しい学びはないだろう。退屈を有意義にすり潰すために執筆された暇人向けの本だ。
「まあいいさ。本が置かれたままである以上、彼女は学校の中にはいる。焦る必要はどこにもない」
「しかし、実行委員長。どうして彼女にこだわるんです?」
「あの耳に惚れたのさ」
冗談めかして言う。ポケットの中で携帯が震え、出てみると仕事の呼び出しであった。学祭の問題は枚挙に遑がない。無尽蔵に湧き出すトラブルの処理が、彼の実行委員長としての仕事である。
『ボクシング部の連中が喧嘩騒ぎを起こしてもう収集つきません。助けてください』
「ああ、了解。すぐに向かう」
これ以上、屋上に留まる理由はない。仕事に追われるようにして、彼らは乱痴気騒ぎの現場へ向かう。
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歌舞伎町の客引きにも負けず劣らず激しいキャッチを行っているのは『三年B組 水着キャバクラ喫茶』であった。黒のスーツを着込んだ恰幅のよろしい男子生徒が廊下を通りかかる獲物を捕まえて、ビキニ・スク水・貝殻なんでもござれのヴァルハラへと誘い、その対価として法外なぼったくり価格の請求をする悪名高い店である。財布の中身で足りなければ衣服を剥いでも憚らぬ。
暴言を浴びせかけられ半裸で涙目の男が廊下に何人も転がっている。悲痛な叫びが絶えず響く。キャッチから逃れようと絶叫する獲物がまたひとり、店の中へと吸い込まれたきり出てこない。
私はつくづく女に生まれて良かったと思った。
『占いの館』はキャバクラの隣に位置していた。こじんまりとした個人経営の黒々としたテントがそれである。テントの入口に『占いの館』と書かれた看板があるのだから間違いない。中は思ったよりも広々としていて、蝋燭の灯りだけが光源で薄暗い。不思議なイメージのBGMがまろやかに流れていて、ドライアイスだろうスモークが足元に広がっている。
水晶玉に手をかざしながらニヤニヤしていている女生徒が占い師だ。
「やあ。待っていたよ。君がここに来ることは私の占いで知っていた。さ、そこの椅子に座って」
「ここに来れば爆破を防ぐヒントがあるって聞いたんだけど」
「ば、爆破? なにそれ?」
「え?」
「あ、いえ。こほん。ええ、あなたがそのヒントを求めてここにやってきたことは勿論知っていました。私に任せなさい」
もしかしたら彼女は何も知らないのかもしれない。だが、手紙によればここにヒントがあるはずだ。周囲を仔細に観察してみるけれど、観察力不足だろうか、何も見つけられない。
「むーむむむ。へんたからーほんたらかー」
占い師は水晶玉を睨みつけ、摩訶不思議な呪文を唱えていた。心なしか水晶玉が淡く発行したような気がしなくもない。
「隠されし裏側を見よ、隠されし裏側を見よ、と私の占いでは見えます」
「隠されし裏側を見よ」
「ええ。恐らくはあなたの求めるヒントはこれでしょう」
占い師は自信満々に言う。私が『占いの館』で得られた情報はこれだけであった。納得いかない気持ちでテントを出る。
「隠されし裏側を見よ、ねえ」
ふと何の気なしに『占いの館』と書かれた看板を見てみた。壁に立てかけられるようにして置かれていて、その裏側は見えない。隠されし裏側。
もしやと思ってひっくり返してみた。
そこには小さく文字が書かれていた。
『次はボクシング部へ向かうといい。爆弾の場所がそこでわかる』
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拳闘武闘会の開催が迫るにつれ、血気盛んな男衆はざわめき立つ。中にはルール無用の殴り合いをおっぱじめてしまう者までいるのだから困りものだ。そのような者達に向けて、学園祭実行委員長たる権力を振りかざし、「これ以上の狼藉を働いた者は拳闘武闘会への未来永劫の参加を禁ずる」と一喝する。それが実行委員長の伝統的な業務のひとつでもあった。
「いやぁ、助かりましたよ実行委員長さん。毎年のことではありますがね、バカが多くてすんません」
「血の気が多い方がむしろ男としては健全でしょう。学祭の間くらいは騒ぐのも仕方ない」
「まあ、日頃からあんなもんではありますがねがはは。ああそうだ。よけりゃ実行委員長さんも拳闘武闘会に参加していきませんか? 優勝者にはなんとどでかいダイヤのついたネックレスの贈呈でぃ」
「ああいえ。結構。喧嘩には自信がないので」
喧嘩自慢であれば誰でも参加できる拳闘武闘会は、学園祭の伝統的な催しのひとつである。優勝者はどんな願いでも叶うとかまことしやかに囁かれ、校外からも参加者が来るほどの人気事業である。
グラウンドに特設されたリングは本格的で、参加者であろう厳つい男が所狭しとリングの周囲におびき寄せられている。
そんな様子を見て部下は感嘆の息をもらした。
「参加しなくてもよかったんですか実行委員長」
「いいんだよ。ボコボコにされて終わりだ」
「でも、目当ての彼女に出会えるかもしれませんよ?」
「彼女はこのような場には興味はないだろう。いるとしたら図書室か空き教室か」
「んー人探しということならこんな話は聞いたことありますか? 学祭当日限定で100%当たる占い屋」
「なんだそれ?」
「そのまんまです。『占いの館』という出し物があるんですがね。そこの占いがとにかく当たるんです。失せ物は見つかるし、来季の期末テストの問題もわかるし、生き別れた兄弟の居場所もわかるとの評判です」
眉唾ものの噂話であることは百も承知だが、そこまでの評判ということなら行ってみる価値はあるだろう。彼らは揃って『占いの館』に向かう。
しかし、その道中に声をかけられた。拳闘武闘会に参加してる猛者と遜色のつかないほど屈強な体躯をした黒スーツの男にだ。
「お兄さん。その雰囲気、実行委員の人だね。仕事大変でしょう。うちのクラス、水着キャバクラ喫茶ってのをやってるんだけどね。癒されて疲労が吹き飛ぶって大評判なのよ。どう? 三十分千円ポッキリだよ!」
当然スルーして『占いの館』に行こうとしたのだが、道を塞がれる。横に避けて通ろうと試みるも、複数人の黒服がスクラムを組んで通せんぼをしてしまう。
「くはは。逃がしません、逃がしませんよお客様。うちのクラスのお嬢様とお茶くらいしてってくださいよ。満足して頂ければ学祭をより充実した気持ちで巡ることもできるでしょう?」
「ちょっ、どけ。水着キャバクラ喫茶になんか興味がないんだ。おい、やめ」
「ははは! 二名様ご案内〜!」
「やめろぉぉぉお!!」
そのまま黒スーツの軍団に押し込まれるように入店してしまう。一度入ったら出られない。彼らは水着キャバクラ喫茶の世界に急転直下の真っ逆さま。
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恐る恐るボクシング部の部室を訪れたのだが、そこはまさに伽藍堂。ダンベルを初めとする筋トレ器具も、サンドバッグもパンチングボールも、ボクシング部の象徴たるリングすら影も形もなく綺麗さっぱり消えていた。いったいどういうことだろう。
何もかもが無くなっていた部室に、一人の男だけが鎮座していた。信じられないほどの巨体はよく鍛え抜かれている。右脚に包帯を巻いている。怪我をしているのだろう。
「こんなところに何の用だ。拳闘武闘会はグラウンドだぞ」
「あの、ここはボクシング部ですか?」
「その通りだ。ここはボクシング部だ」
「だけど、ボクシングの道具が見当たらない」
「それもそうさ。拳闘武闘会の会場に運ばれていったのさ。トレーニング用具は選手控え室で使われている」
「どうしてあなたはこんな何もない部室にひとりでいるの?」
男はクワッと目を見開いて、脚の包帯を何度も叩いた。
「このザマだからだ。全ては俺の油断のせいだ。あの一時の油断のせいで、拳闘武闘会の参加を断念せざるを得なかった。お陰で全ての計画が台無しだ。俺は拳闘武闘会で勝つために鍛え続けたというのに」
「どうしてケガを?」
「階段で転んだのだ。いやらしい風が吹き、目の前の女の子のスカートが捲れた。いや、相手がただの女の子のスカートであれば問題なかった。だがしかし、目の前にいたのは三年B組のマドンナだった。俺が密かに懸想していた相手だったのだ。俺は彼女の羞恥に緩んだ顔を見て一発KOされたのだ」
忸怩たる思いが全身から滲み出ていた。しかし、情景を思い返す彼の脳裏にはマドンナの下着がチラつくようで、時折だらしない顔になる。男ってやつは、と思う。
「ねえ、爆弾の場所を知らない?」
「爆弾の場所なんか知らないさ。いや、だが先程掃除中に見つけたのだが、不可解なメッセージならばあった」
「それはいったい?」
「『花色月餅に印あり』。花色月餅っていうのは拳闘武闘会の優勝者が景気づけに食べる菓子さ。ここいらの銘菓らしいが、この時期はなかなか手に入らない」
「それは拳闘武闘会で優勝した人しか手に入らないの?」
「まあ、基本的にはそうだな。優勝者がパクリと食べる代物だ」
「優勝者の手に渡る前に入手することはできない?」
「それは難しいだろうな。一応、菓子とはいえ優勝賞品だ。万が一がないように厳重に保管されている」
私は顎に手を持っていき、むむむと唸る。唸ったところで名案が降りてくる道理はないが、されど考えてみるものだ。それらしい案が思いついた。
「ならば、あなたが優勝すればいい。元々優勝をしたかったんでしょ。そしてきっと、あなたにはそれだけの実力がある」
「無理だ。拳闘武闘会に集うのは猛者ばかりだ。脚をケガした今の俺では勝てない」
「無理とか言わない。あなたの尋常ならざる努力の成果は、その逞しい身体を見ればわかる。きっと脚のケガなんて屁の河童。それにまず挑まねば勝てない。さあさあ、試しに、ええと、サンドバッグがないから、そこの壁でも殴ってみてよ」
「だ、だがしかし」
「ケガをしたからと無人の部室にひきこもる男と、ダメ元で戦場に勇みゆく男。どちらの方が3Bのマドンナの心を惹くと思う? 常識的に考えてみてよ」
私の言葉に目から鱗といった様子の巨躯の男は立ち上がる。心なしか全身から燃え滾る闘志を感じる。顔つきもなんだか男らしくなったかもしれない。
「俺はボクシング部主将にして、三年B組のマドンナのハートを射止めんがため、拳闘武闘会を制す者なり!!」
驚きの豹変ぶり。男は部室の壁に向かって右ストレートをする。コンクリート壁にクレーターが刻み込まれ、放射線状に亀裂が走る。鬼神の如きド迫力。
やればできんじゃん。と私は頷く。
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学祭の催し物にしてはやたら本格的なキャバクラであった。クラス一同年齢を詐称して、実際のキャバクラにて研修を行ったのやもしれぬ。色気むんむん水着姿の女生徒が、あっちに行って酌をして、そっちに行って会話を愉しむ。
「いやあ。厄介な連中に捕まってしまいましたね実行委員長」
「そうだな」
テーブルに案内されて、まず説明されたのは料金についてだった。ワンドリンク制、三十分が基本料金。十分単位で延長可能。女の子を指名する場合や、二十分以内の退室の場合にも料金が発生する。
料金の詳細な説明についてはなかった。千円ポッキリという売り文句をしつつ、どうせ驚天動地のぼったくり価格に設定してあるはずだが、そこを説明するつもりはないらしい。なんと浅ましいことか。
途中退室が有料に設定してあるのが上手い。それがなければ今すぐにでも退室してやるのに。
「いらっしゃいませ、ルビーです。お隣失礼しますねー」
源氏名を名乗りながらやってきたのはビキニ姿の女の子だった。容姿端麗、眉目秀麗。そんな女の子がパーソナルスペースを侵食してくる。免疫力の低いモテない男性はそれだけで勘違いしてしまうことだろう。
「あ、その腕章。もしかして学園祭実行委員長なんですか? すごーい! 見た目によらず優秀なんですね」
「そんなことはない。見た目通りの不良だよ」
「またまたご謙遜をー。私、そういうクールな人のこと好きですよ。彼女さんとかはいるんですか?」
「あーいや」
返答に困っていると部下が口を挟んでくる。愉快そうにニヤつきながら。
「実行委員長には意中の人がいるんですよ。屋上の君、ですよね」
「ああ、まあな」
「片想い中なんですね。なんだかロマンチックー。馴れ初めとか気になるなー私」
「あ、それは僕も気になりまーす。教えてくださいよお、実行委員長」
運ばれてきたドリンクを飲みながら、彼は遠い昔のことを思い出す。きっと彼女は覚えてすらいないだろうけど、彼は忘れない。ボサボサで真っ白な髪をかきあげる。前髪に隠されていた傷痕を指先で押さえる。
「助けてもらったんだよ。この傷ができたときに」
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ボクシング部主将の快進撃は凄まじかった。脚のケガのためにフットワークを完全に捨て、後の先を取ることに特化した戦法は、大方の予想を裏切り圧倒的であった。観客総員スタンディングオベーションの白熱した試合を勝ち進み、あっという間に決勝戦。セコンドから私は主将に声援を贈る。目の粗いタオルを渡したり、水をぶっかけたり、叱咤激励したりして、何とか優勝して頂くためにサポートをする。
決勝の相手はアメリカからの刺客。黒船来航。身長は優に二メートルを超え、体格は主将より一回り大きい。今までに何人もの人を殺してきました、と目が雄弁に語っている。
しかし、ここでボクシング部主将はケガをしていた右脚を解放。今までの不動の陣を解き、軽快なフットワークによる素早い動きで相手を翻弄する。力で勝てないならば、速度で勝つまで。ケガをしていた脚に鈍痛が走るも、限界を超えた気合いで正気を保ち、五分半の激闘の末、主将は拳闘武闘会の優勝の座をもぎ取ったのだった。
普段格闘技には微塵の興味のない私だけど、今回に限り大興奮。見ず知らずの人と胸倉掴み合う喧嘩もしたし、勝利の瞬間には誰かとハグまでしてしまった。
「あのとき、部室で俺のことを励ましてくれたから俺は優勝できた。ありがとう」
「こちらこそ感動をありがとう」
私は主将とハイタッチをする。
「俺は優勝賞品のダイヤのネックレスをマドンナにプレゼントする。そして、告白をする」
「ダイヤのネックレスだとプロポーズみたいじゃない?」
「それならプロポーズをする」
「フラれるから辞めときなさい」
「では告白をする。それで、これが花色月餅だ。確かに何かが書いてあるな。こんな文字は書かれていなかったはずだ」
花色月餅は、文字通り花色の月餅であった。その表面には三文字の刻印がされていた。
「時計塔。時計塔って書いてあるね」
「きっと時計塔に何かがあるんだろう。行ってくれ。そして、もう一度。ありがとう」
「こちらこそありがとう」
戦友を讃え合う眼差しを交わして、私は主将と別れた。
時刻は午後五時になっていた。残された時間は多くない。私は興奮冷めやらぬまま早歩きで時計塔へ。
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幼いときから群を抜いて優秀な子供だった。小学生の時点で高校レベルの学問は理解していたし、運動神経だってまずくない。だから神童と呼ばれていた。地元の新聞に名前が載ったこともある。
とはいえ、彼は小生意気なガキだった。学問を体系的に理解する手順は心得ていても、出る杭でありながら打たれない術を心得てはいなかった。靴を隠されたことが始まりだった。教科書は破かれ、衣服は捨てられ、机や椅子は公衆便所の壁よりも猥雑な言葉に覆われた。
彼の心には暗雲が立ち込め、歪んだ。
「お前の目、生意気だぞー!」
「睨んでんじゃねーよ!」
知能の低い猿のような言いがかりをつけられて、暴力をふるわれる機会もあった。昔から喧嘩は弱かったからボッコボコ。満身創痍のボロ雑巾になって、荒涼たる原野を転がるタンブルウィードのような気持ちになることも多々あった。
イジメは次第にエスカレートして、遂には刃物が登場した。鋭利な刃先は容易に皮膚を切り裂き、肉に至る。これに関しては結構トラウマでね。今でも刃物を見るとゾッとする。
彼女と初めて出会ったのは、そんな頃だった。
彼女はいつも高いところにいた。高いところで読書をすることが、昔からの彼女の趣向だった。高いところでは視野が広がる。子供の蛮行などは特に、酷く目障りだったろうと思う。
「イジメ、かっこわる」
ハードカバーの書籍を片手に、彼女は現れた。彼女は読書家の女子とは思えぬほど凛々しく、そして喧嘩が強かった。ハードカバーの書籍は知的な凶器だ。背表紙は鈍器のようで、叩けばかなり痛い。
彼女は一瞬で数人のいじめっ子を蹴散らし、こちらを一瞥するとため息をついた。
「いじめられる方もダサい」
問答無用といった様子で、彼女はそのまま立ち去った。名乗らず、余計な詮索もせず、言いたいことだけ言い放って後のことには素知らぬ顔。そんな姿に憧れた。かっこいいと思った。人生観がコペルニクス的大転回を果たし、歪んでいた性根が叩き直され、そして初恋に陥った。
それからは長かった。
精神一到の契りを立てて、孤高の一匹狼への茨の道を猪突猛進。元よりその手の才能はあった。中世ヨーロッパの城壁をも凌ぐ難攻不落の心構えを持って、毅然として振る舞えばイジメは綺麗になくなった。
彼女と再会する機会はなかった。近隣の小中学校の校門に数週間張り込めば、身元を特定することも出来たであろうが、あえてそれはしなかった。運命的な偶然の再会こそが望むところだったからだ。
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時計塔の螺旋階段を駆け上る。無数の歯車達が一糸乱れぬ労働をして、時間を進めるという大所業を成していた。悠然と屹立する時計塔を、私は屋上の定位置から毎日のように見上げていた。だがしかし、その立地の悪さからして訪れる機会はまずなかった。休み時間に訪れるには遠すぎて、放課後に訪れるほど魅力的でもない。
頭頂部には見晴らしのいい空間があり、そこからの眺めは悪くなかった。ここで本を読めば気分爽快だろうなと思う。
「へえ」
私は昔から高いところが好きだった。偉くなったような気がするからだ。バビロニア王やローマ皇帝や独裁者達に憧れたのは彼らは高いところにいるからだ。下界を睥睨し、純然たる余暇を弄ぶ。高尚な趣味。まあ、それで青白い青春の日々になってしまったら世話がないのだが。
拳闘武闘会を見たからだろう、私は闘争心に火がついてしまったらしい。子供の頃にした喧嘩を思い出す。ハードカバーの書籍を振り回し、ムカつくやつの鼻頭をぶっ叩く快感が手に蘇る。また殴りたいな、と思う。
弱きを助け強きをくじく。といった大層な心得がある訳でもなし。勿論、誰を殴るかは慎重に決める。殴っていい相手しか殴らない。結果的に弱い者を助けることもあるだろうけど、あくまでそれは副次的効果に過ぎない。
私が読書をしないで、高所恐怖症で、喧嘩が嫌いな女の子だったら、少なくとも今よりはマシな青春になっていたかもしれない。ならなかったかもしれない。
「それよりも、爆弾ね。どこにあるんだろう」
花色月餅の印が正しければ、時計塔に爆弾があるらしい。偶然通りかかった一般人には見つけられず、かといって探せば見つからないことはない場所。当たりをつけて探してみれば、思いのほか簡単に爆弾を発見することができた。ダイナマイトのような筒の束と、タイマー付きの重厚な発信機。タイマーは午後六時にちょうどゼロになるように仕掛けられていた。
「爆弾発見。でも、私はこの爆弾をどうすればいいのだろう」
私は困り果ててしまった。爆弾なんて生まれてこの方、一度だって見たことがない。これが本物である確信こそないが、偽物であると決めつけるのは上手くない。これを仕掛けたのは学校一番の変人奇人。想像以上の展開は想定内だ。
この爆弾は本物だ。と仮定する。
本物だとして、私には何ができるだろうか。
「隠されし裏側を見よ」
私は思いきって爆弾をひっくり返してみた。裏側に何かヒントがあるかもしれない。これは私と彼のゲームなのだから、無理難題はきっとない。
爆弾の裏側には「何か」があった。それはセロハンテープでとめられたインカムイヤホンだった。なるほど意味不明だ。これは彼が仕掛けたものだろうか。恐らくはそうだろう。私はイヤホンを耳に装着してみた。マイクに向かって誰何の声を発する。
「あーあー。聞こえますかー誰ですかー」
『聞こえているよ屋上の君』
「本当に誰?」
それは彼の声ではなかった。聞き覚えのない見ず知らずの声だった。キザったらしい書生のような雰囲気をインカム越しに感じる。
『俺は君のファンだ。そこから校舎の屋上を見てごらん』
言われるがまま校舎の屋上を見下ろす。すると、そこには白髪の男がいた。こちらを見上げ、大きく手を振っている。
『見えただろうか。俺だ』
「それで誰?」
『学園祭実行委員長。それで、そこに爆弾があっただろう。俺は君よりも先にそれを見つけた。インカムイヤホンの貼りつけてあった場所には、ヒントの書かれた紙があった。爆弾解体を正しい手引きのヒントだ』
「でも、その紙はここにはない」
『今は俺が持っている。屋上でなくちゃ謎が解けない仕様なんだ。タイムリミットはあと僅か。君が屋上に来る時間はもうないだろう。工具は爆弾の置いてあった近くにある。君にはリアルタイムで爆弾の解体をお願いしたい』
インカム越しの声に私は頷いた。
何となくだけど、信用できるような気がした。事件が起きたときに無意識的に警察を信用するように、学園祭実行委員長という肩書きのために信用するのではない。その声には、実行委員長と一介の生徒という関係を超越した、親しみのようなものを感じたからだ。
「わかった。任せたわよ」
『任された』
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水着キャバクラ喫茶に長居は無用。左腕に備える電波時計で二十分ちょうどのタイミングにて、実行委員長は立ち上がる。しかし、その部下は立ち上がることができなかった。真っ赤な顔して千鳥足。どう見ても泥酔の極地に見えるのは薄暗い照明のせいではあるまい。
「あ、ありゃりゃ。待ってくださいよー実行委員長ーあはは」
「お客様、大丈夫ですか? ちょっと飲みすぎちゃったのかもしれませんね。お水、用意しますからね有料ですけど」
未成年が未成年に酒を提供するとはこれ如何に。本来であれば教職員に報告をして、然るべき対処を仰ぐのだが、面倒ごとは御免こうむる。お冷の酌をするルビーから部下を引き剥がし、数万円入った財布を会計係に投げつけて、実行委員長としての厳重注意を一喝。そして店を後にした。
「占いの館はですね、お隣ですよ実行委員長」
「そんなことはわかる。にしても顔が赤いな、大丈夫か?」
「モーマンタイです。モーマンタイ」
『占いの館』は廊下の端に設置されたテントであった。中に入ると室温が数度は下がったようで、冷んやりとしていた。薄暗い照明、足元のスモーク、そして制服の上に漆黒のフードを羽織ったミステリアスな女生徒が占い師だ。
「やあ。待っていたよ。君がここに来ることは私の占いで知っていた……けど、その人大丈夫? なんか顔が異常に赤いけど」
「隣のキャバクラでやられたんだ。もし良ければここで休ませてやってくれないか? 冷んやりとしていて心地もいいだろう」
「別に構わないけれども。客もあまり来ないしね、ああそうだ、お水ありますよ。よければどうぞ」
「ありがたい」
部下を介抱する。横にして水を与えるだけであるが、これで大分楽になったはずだ。
「それでは何を占いましょうか」
「何を占って欲しいのかはわからないのか?」
「えっと、ええ! わかりますとも。それはズバリ、恋の悩みでしょう」
「当たらずとも遠からず」
「そして占って欲しいことは、どうすればいい感じの関係になることが出来るのか。でしょう」
当初の目的では屋上の君の場所を探し出す予定であったが、それに拘る必要はない。いい感じの関係になる方法は気になる。頷けば、占い師は得意満面のドヤ顔となり、水晶玉を覗き込む。
「むむむーむむー。ほんだらけーまんだらけー」
摩訶不思議な呪文と共に、どういう理屈か水晶玉が淡く光り輝く。この世ならざる魔術の理が関与しているのかもしれない。占い師は真剣な顔をして、水晶玉の中心を深く深く覗き込む。
「時計塔に向かいなさい。ですが、時計塔に留まってはいけません。ラッキーアイテムはインカムイヤホン。と、私の占いでは出ています」
「時計塔に向かう。だが時計塔に留まってはいけない。インカムイヤホン」
「ええその通り。信じるも信じないのもあなた次第です」
「信じるに決まっている。君の占いはよく当たるとの評判らしいからな」
「えっ、そうなの?」
「らしいぞ。ありがとう。時計塔に行ってみるよ」
部下の耳からラッキーアイテムをもぎ取り、一人で時計塔へと向かう。時刻は午後四時を過ぎたあたり。拳闘武闘会の喧騒を道中聞きながら、時計塔の頭頂部にたどり着く。
前日、飾り付けをしていた場所だ。ここに何があるのだろうか。留まることはダメらしいが、わざわざ来たのだから何かしらの意味があるはずだ。もしかしたら時計塔には何もなくて、人気のない場所に移動するというそれ自体に意味があるのかもしれない。だが、疑念は潰しておくに限る。
周囲を見渡す。昨日はなくて、今はあるものが目に付いた。物陰にひっそりと隠されている。鉄の箱のように見える。
「これは映画やドラマで見たことがあるぞ」
それは正しく時限爆弾であった。デジタル式タイマーは午後六時にゼロになるように設定されている。きっと、ゼロになれば爆発する。しかもこれは、発信機だ。爆弾と発信機は物理的に継続されていない。
そうなると、爆弾はここにあるものだけではなく、校舎全体に隠されている可能性も出てくる。青春彩る学園祭が一転、地獄絵図となるのを想像する。
爆弾の裏側を見ると、そこには紙が貼り付けられていた。
「書き置き、差出人の名前は、書かれてないな」
書かれていたのは発信機の機能を停止する方法であった。校舎の屋上には数字の書かれた色付きシールが貼られている。その順番通りに線を切れば停止する。らしい。
しかし、もし順番を間違えたり、強い衝撃を加えた場合、自動的に信号が送られて爆弾が起動する。らしい。
「まるでゲームだな」
占いの通り、このまま時計塔に留まるのは得策ではない。彼女の代わりに屋上に向かって、そこで線を切る順番を確認する。それが与えられた役割なのだと理解した。
ヒントの書かれた紙をポケットに、代わりにラッキーアイテムのインカムイヤホンを貼りつけておく。個人回線で繋いでおけば、電話番号がわからなくても通話ができる。
教師への報告はしない。したところで無意味だろう。情報網が麻痺している学園祭において、情報を精査し、伝達し、避難命令を下すのには時間がかかる。タイムリミットまでそんなに時間はない。
そうだ。時間はないのだ。いつまでも留まっている訳にはいかない。急ぎ螺旋階段を駆け下りて、向かうのはいつも見ていた校舎の屋上。高鳴る鼓動は嘘じゃない。
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右ねじの法則の電流と磁界に思いを馳せながら、私は用意されていたドライバーで背面四隅のねじを取り外した。発信機の内部には七色七本のリード線が収まっている。典型的なワイヤージレンマ。映画の俳優にでもなったような気分でインカムイヤホンに耳を澄ます。
『まず、最初は赤色だ』
「赤色ね」
『そう、情熱的な色だ。振動を感知する可能性もある。慎重にやってくれ』
人の指程度なら容易く切り落とせそうなほどゴツいハサミで、まず赤色のリード線を切る。爆発する気配はない。ホッとため息を漏らす。
「切れたわ」
『三番目までは見つけている。二本目が青、三本目が黒。青の次が黒だ』
「二本目が青、その次は黒」
『その通り』
通話相手の男の声は不思議と私に平穏をもたらした。指示されるがままに青と黒の二本の線を断ち切り、恐らく四本目に切るべき線を模索するための沈黙に陥ったときの、全身が粟立つような居心地の悪さ。迫りくるカウントダウンの重圧も手伝って、手の震えを忘れるためにも雑談を試みる。
「私たちは以前にどこかで会ったことがある?」
『どうしてそう思う?』
「屋上の君、と言ったわ。私が屋上の住民であることを知っているみたい」
『それは勿論知ってるさ。時計塔からは屋上がよく見えるからね。よく君の小さくて可愛い耳を観察していた』
「十人並みだと思うけれど」
『並外れている訳ではない。ある種の錯視のようなものだと思う。四番目は白だ。ホワイト』
「ホワイト」
白の線を切る。
「そういえばあなたの髪は白よね。何か意味があるの?」
『深い理由は何もないよ。ただ、自分の心象世界を髪色に表現してみただけだ』
「心象世界を色で表現。まるでカメレオンみたいね」
『そういうことだ。こちらは時間を気にする余裕がないんだが、後どれくらいの時間が残されている?』
デジタル式タイマーを見る。
残り時間は五分とない。
『まずいな。なかなか見つからない』
「聞きそびれていたけれど、あなたは何をしているの?」
『シールを探している。数字の書かれた丸いシールだ。それが屋上に七つ貼られているらしい。それぞれがリード線を切る順番を示している』
「ドアノブは調べた?」
『勿論』
「じゃあ、排水溝は?」
『真っ先に疑った』
「私が屋上に置いてきた本は調べた?」
『君は天才だ。あったぞ。五番目はグレー。灰色。銀色の親戚』
「銀色の親戚の灰色くん」
シルバーとグレーの中間について考えながら、灰色の線を切る。残りは二本。黄色と緑色。あと一つで、自動的にゲームクリアだ。
「時間が押しているのは理解しているつもりだけれど、最初の質問の答えをハッキリと聞かせてくれない?」
『なんだって?』
「私たちは以前にどこかで会ったことがある? あなたはその答えをはぐらかした」
『昔に一度だけ会ったことがある。君は素敵だった。ハードカバーの書籍を振り回し、悪逆無道をちぎっては投げちぎっては投げ』
「ああ、ええと、そんなこともあったようななかったような」
タイムリミットは一分を切る。しかし、最後のシールは見つからなかった。互いに言葉を発する余裕も消える。沈痛。沈黙。手に汗握る。変な汗を握っていた。
「ああ、どうしてこうなっちゃったんだろう」
パニック思考専用の高速サーキットをグルグルと回る。怒り、嘲り、自虐して、恨み憎んで笑い出す。もう笑うしかなかった。インカム越しに相手にも狂気的な笑い声が届いているだろうが、反応はない。
もういっその事、二本同時に切ってしまって、運否天賦に身を任せるのも手だろうが、しかし私の運はお世辞にもいいとは言えない。どうしたものかと思っていると、インカムから興奮気味の声が聞こえた。
『見つけた。黄色だ。金色の親戚!』
残り三秒だった。
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午後六時の鐘が鳴り響く。威風堂々たる鐘の音が学園祭の喧騒と交わるのを、彼は屋上で聞いていた。爆弾がコンクリート壁を粉々にする音は耳を澄ませても聞こえなかった。気が抜けたのか、腰砕けの様相で、ぺたんとその場に尻餅をつく。
じっくり一分間、鐘の音は校舎全体に染み入るように鳴り響き、秋の夕暮れと喧騒だけが残った。もうすぐ日が落ちる。学園祭のプログラムによれば、もうすぐキャンプファイヤーが始まる。男女で踊れば必ず結ばれるという伝説付きのフォークダンスを、火の粉の精霊と踊るのだ。
学園祭は鐘の音が鳴っても終わらない。
誰かが屋上の扉を開けた。
現れた男は拍手をしながら、しかし残念そうな面持ちであった。背が高く、容姿は醜い。噂だけなら知っていた。学校一の嫌われ者。
「ゲームクリアおめでとう。といっても、この言葉を贈りたかったのは彼女であって君ではないが、まあいい。誰が相手でもこの際どうでもいいんだ」
この男が犯人だ。
考えるまでもない。立ち上がって向き直る。味のしない綿菓子の如き人生の虚しさを発する男は、とぼとぼと歩く。それを視線で追う。
「人生は虚しい。楽しいことを求めても、心に潤いは与えられない。何をしたってダメなんだ」
「お前、冗談でも爆破テロはやりすぎだ」
「冗談でもなんでもない。一念発起、それなりに覚悟をして入念に準備をした。全ては楽しむためさ」
「愉快犯か」
「愉快犯が皆一様に愉快であるとは限らんよ。俺の噂は知ってるかね? 実行委員長」
「噂だけならば」
男はニヒルな笑みを浮かべる。
「靴は隠された。衣服は割かれ、汚された。暴力をふるわれることもあった。だが、それも最初だけだ。次第に誰も近寄らなくなった。俺がマッドなパワーを纏い始めたからだ。日夜宇宙人と交信したり、姿の見えぬ小人と戯れる奴と関わる勇気は凡人にはない。それが俺の、身を守る術であった」
この男は、彼女に出会わなかった世界線の俺だ。多感な時期の全てをかけて、歪みに歪みきった性根は、真っ直ぐ伸ばそうものならポッキリと折れてしまうくらいに凝り固まっている。
バカは死なねば治らない。と先人は言う。
「俺はさっきまで爆弾を抱いていた。彼女が爆弾に興味関心を抱かず放置をするか、あるいは時間制限に間に合わなかった場合、俺は潔く死ぬつもりだった。学園祭当日に爆破テロをして爆死するというのは最高に愉快な死に様だと思わんかね」
「だが、彼女はゲームをクリアした」
「そして俺は生きている。彼女はどうやら俺よりもずっと生きることに積極的だ。ならば巻き込むわけにはいかんな」
男はのんびりと歩き、グラウンドの方を見下ろした。グラウンドではキャンプファイヤーの準備が着々と進められていた。結構な人数が既に集まっている。拳闘武闘会の余熱が立ち込め、恋愛脳な若者が飴に群がるアリのようにうじゃうじゃといる。
そんな光景を見ている男の目には、危険な虚ろさがあるように見えた。思わず声をかけようとした。だが、それよりも先に男はフェンスを乗り越える。
「まさか、死ぬつもりか」
「世界は狭量だ!」
男は叫ぶ。しかし、下界の喧騒には届かない。誰も上を見上げない。
「俺は先に行くよ」
そう言って、男はフェンスから手を離し、重力に身を任せた。
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ハードカバーの書籍ですら相当な凶器である。それが英和辞典ともなれば殺傷能力すら帯びる。私は自前の英和辞典を片手に、屋上から飛び降りてきた同好の士を憐れみの目で見る。死ぬつもりでいたらしいが、彼は運命ってやつとは相当な不仲であるらしい。死ぬどころか怪我すらしていないだろう。
「俺はどうして生きてるんだ?」
「ボクシング部の主将のラッキーアイテムは衝撃吸収マットだったの。この位置に置いておけば告白成功間違いなしってね」
「し、衝撃吸収マットのどこがラッキーアイテムなんだ!」
「そりゃあ、投身自殺騒ぎがあったら成功する告白も成功しないでしょ。やっぱり当たるわね。占いの館」
私は彼に歩み寄る。屋上を愛好する同志としてのせめてもの情けに、手を貸して立たせてあげる。唖然とする彼の顔は滑稽で笑えてくるが、笑ってしまうと失礼だと思い、冷笑、といった程度の表情に抑えておく。それはそれで神経を逆撫でする危惧もあったが、彼は依然として唖然とした顔をしたまま呆然としていた。
「面白い企画をありがとう。でも、やりすぎ。常識的に考えて。私に死を感じさせないで頼むからお願い」
「あははは、楽しんでくれたならよかったよ」
「それはそうと、一発殴らせて貰うわね。もちろん英和辞典で。国語辞典と迷ったのだけれど、気分的に英和辞典だったの」
「いいよ。一発やってくれ」
「それとひとつ言いたいことを言ってもいい?」
「なに?」
「バーカ」
私は英和辞典を振りかぶった。
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キャンプファイヤーも燃え尽きて、火の粉の精霊も恋愛の魔術もどこか遠いところへ消えてしまった。今日のところはこれでおしまい。明日以降はまたどんちゃん騒ぎの尻拭い、壮大な規模の後片付けが待っている。それはそれで重労働だが、家に帰るまでが遠足よろしく、元通りの校舎に復旧するまでが学園祭であるからして、浮かれた雰囲気はまだしばらく続きそうである。
翌日。準備をサボる男が、どうして後片付けをサボらないというのか。彼は時計塔の上、眺めのいい場所を陣取って読書に励んでいた。装飾が半ば引き剥がされた無惨な校舎もまた趣き深いといえば深く、その雰囲気はなんとも言えない具合に心を揺さぶった。
「こんにちは。いい天気ね」
「曇りだぞ?」
「いい天気ね」
「まあ、いい天気だな」
屋上の君が時計塔に現れた。
彼女はハードカバーの書籍を手に持っていたので、彼は潜在的な恐怖のために一瞬だけたじろいだ。彼にとって彼女の本は、暇を効率的にすり潰すエンターテイメントというよりもむしろ、どんな検問ですらパスできるカモフラージュの効いた凶器であった。無論、理由もなしに殴られる道理もないが、理由などいくらでもこじつけられることは歴史が証明している。油断はならない。
「昨日はありがとう。助かった。命の恩人といってもいいわ。私ひとりだったらきっと時間的に間に合わなかったと思うから」
「実行委員長としての仕事をしたまでさ」
「そうそう。昨日、久しぶりに本で人を殴ったのだけど、そのときにあなたのことを思い出したわ。小学生の頃に、血を流していたわよね」
「そうだね。傷跡なら、今でも残ってるよ」
前髪をかきあげれば、深々と刻み込まれた傷跡が露出する。痛みすら忘れて、単なる思い出の一部と化した古傷だ。
彼女はそんな傷跡に指先を這わせる。ひんやりとした体温と柔らかさを感じる。興味深いものを触るように、強く押しつけたり、優しく撫でたりする。
「痛くはない?」
「おかげさまで」
「そう」
学園祭の後片付けは続く。出店は解体され、装飾は剥がされ、どの教室も大量のゴミを排出する。Lサイズのゴミ袋が集積所にて山となり、思い出の老廃物として処理される。そんな流れに抵抗するように、彼らはサボる。一人や二人がサボったところで無駄な抵抗かもしれない。それでも、学園祭の空気が一秒でも長く続くように、彼らはそれぞれ本の文章に目線を落とした。
完
学園祭って素敵よね
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